■フェイズ〇七「南太平洋撃滅戦」

 日本軍は、ソロモン海域での一連の戦闘で多少消耗をしていた。だが、アメリカ軍の駆逐と一時的な壊滅に成功した事を追い風とした山本長官の強い希望により、十月には南太平洋での攻勢を再開しようとした。
 だが、思わぬ誤算が全軍の足を引っ張る事になる。
 「燃料不足」だ。
 ソロモン戦初期の頃から懸念されていた日本海軍のアキレス腱は、ソロモンで大艦隊を運用した事から、一度態勢を立て直さない限りどうしようもない事態となっていた。
 こればかりは、山本長官が職を賭そうとどうにもならなかった。
 幸いにして、南方での石油採掘及び現地での精製と本土への輸送はそれなりに順調だった。現地精製施設が本格稼働する一九四三年一月以降は、場合によっては南方から直接トラック諸島など前線近くに送り込む事も可能となっていた。一九四三年初頭には、大規模な攻勢を再開出来る見通しが立ったが、現状では足踏みせざるをえなかった。
 また、開戦から酷使され続けてきた機動部隊も、一度徹底的な補充と整備、そして艦載機の再編成の必要性が出てきていた。南方での無理がたたった基地航空隊も、必要最小限に戦線を縮小し、できうるなら一度再編成すべきだという意見が大多数を占めていた。
 このため「FS作戦」の実行は、一九四三年一月に延期された。その次に聯合艦隊が予定していた念願のハワイ作戦は、「FS作戦」が完了した後の一九四三年六月に修正される事となった。
 そして、一九四二年九月半ばから以後四ヶ月かけて、空母機動部隊を中心にした海軍の再編成と艦艇の可能な限りの装備刷新が行われる。《赤城》《加賀》については、六月の損傷に合わせて対空砲の徹底した強化と電探搭載を先に実施したりもしている。
 これに平行して、比較的優位に進展している豪州北東部に対する航空撃滅戦に力が入れられる事となった。
 なお、航空撃滅戦が継続された理由は、連合国の戦力の回復を可能な限り遅らせると共に、できうるなら攻略作戦をせずに豪州の戦争脱落を画策できないかという思惑が強くあった。
 このため日本海軍は、二個航空戦隊をラバウルとモレスビーでローテーションを組ませて攻撃を続けていた。
 連合国側は、五月から続く戦闘機パイロットの消耗により、まともな航空作戦に出ることができないでいた。オーストラリアが単独講和などしないように兵力の逐次投入を続け、泥沼の防空戦を続けざるをえなかったからだ。しかもソロモンでの敗退により、南太平洋方面の窮状はさらに進んだ。
 この状態は、後方でのパイロットの数がある程度揃うようになった一九四三年春に入るまで続く事になる。結果、太平洋方面の連合国の中で、開戦一年目を戦い抜いた戦闘機パイロットは宝石よりも貴重という、物量に勝る連合国にはあり得ない状況を生みだしていた。
 そして日本と相対した連合国は、開戦以来敗退続きだった。
 しかも今なおビルマ正面と豪州北部で敗退を続けている連合国軍は、アメリカ軍の戦時生産が軌道に乗り、兵員の供給が主にパイロットと艦艇乗員の面で補填されるまで攻勢防御すら中止し、徹底した守勢防御に重点を置くことが決定された。
 いくら兵器と物資があろうとも、人がいなければ戦争はできないのだ。
 このため、ソロモンから日本軍を撃退の後、ミッドウェー島、ポートモレスビーの奪回を企図していた陸海それぞれの連合国太平洋方面司令部は、一時双方の限定反撃作戦を棚上げし、それぞれの前線で日本軍を押し止めるだけの作戦に終始する方針を固める。
 なお、太平洋方面で連合国軍が攻勢防御に再び転じるのは、空母など新造艦艇がある程度そろい稼働状態に入る一九四三年夏頃以降の予定とされた。それまではミッドウェー、ポートモレスビー、ガダルカナルの日本軍前線拠点に対しての限定的航空撃滅戦と、日本側の全ての航路に対する潜水艦を使った通商破壊に重点が置かれる事となる。
 ちなみに、この当時の太平洋方面の連合国の前線拠点は、北東豪州のタウンスビル、北西豪州のポートダーウィン、南太平洋のニューヘブリデス諸島、そしてハワイ諸島となる。だが、どれもが日本軍との拠点の間には大きな距離があった。しかも日本軍も北豪州以外では守勢防御の姿勢が強く、自然と珊瑚海を挟んだ地域の注目度が俄に強くなっていった。

 そして一九四二年の南太平洋の空は、「ゼロ・ファイター」のものだった。
 航続距離三〇〇〇キロメートル以上を誇る長い航続距離を持ち、圧倒的な格闘戦能力は機体を操る一騎当千のパイロットによってまさに名刀のごとき戦闘力を発揮していた。
 機体強度が弱く防御力が極端に低いなど多くの欠点を抱えるにも関わらず、ターキー(新米)が操るばかりの全ての連合国軍機に対して高いキルレシオを誇り続けた。少なくとも、一九四二年では世界最強の戦闘機と言って間違いなかった。
 俄に信じられない話しだが、最盛時の四二年夏頃の北東豪州上空でのキルレシオは平均二十対一以上に達した。当時北東豪州の空は、日本海軍航空隊の撃墜王倶楽部と化していた。極端な話し、日本軍の一個大隊(三十機)を潰すために、連合国軍は一個航空師団(六百機)の全滅が必要という事になる。実際、三ヶ月間の損害数は、統計数値通りの数値を示した。
 対する連合国軍はパイロットの補充がきかないため、熟練者が後方に下がる事もできないまま前線勤務を続けて疲れていき、そのほとんどが消えていった。撃墜されるために補充される新米パイロットの間では、北豪州戦線は「挽肉工場」だと揶揄される程だった。アメリカ軍パイロットの一部に、南西太平洋方面への派兵拒否があったほどだ。
 また日本軍は、連合国軍側がタウンスビルなどでの迎撃をおろそかにすると、攻撃機だけが長駆ブリズベーンやニューカレドニア島に夜間爆撃に訪れるなど傍若無人な有様で、オーストラリア国民の戦意を下げた。このため現地連合軍は、日本軍側の誘いに乗るしかないというのが当時の実状だった。
 しかも、ポートモレスビーは日本軍全体が重視しており、ラバウルからモレスビーに至る海の回廊にはそこら中に水上機が目を光らせて、連合国軍側の潜水艦や小型艦艇を見付けると追いかけ回していた。四二年秋に入ると、それまで見かけなかった日本陸軍の航空隊の姿もポートモレスビー飛行場群に見受けられるようになった。防空戦に「トージョー」のあだ名が付けられた頭でっかちな局地戦闘機《二式単戦》が現れ、偵察やハラスメント爆撃を行う《B17》爆撃機や《カタリナ》飛行艇の損害も増えた。さらに四三年四月に入ると欧州の戦場で見かけるようなスマートな液冷戦闘機《三式戦》がポートモレスビーの空を守るようになり、アメリカ軍自慢の「フライング・フォートレス」と言えど数が少ない場合おいそれと近寄るワケにはいかなくなった。しかも《B17G》や《B24》は優先的に欧州に回されて、さらにハワイ防衛にも割かれ、南太平洋では偵察以外に使うのがためらわれる程希少な存在だった。長い航続距離を誇る《P38》戦闘機がある程度配備される事で、ようやくポートモレスビーに対する最初の対抗爆撃が行われたのは、一九四二年も終わりに近づいた十一月末の事だった。
 そして十一月に入り、何とか態勢を立て直したい連合国で一つの作戦が発起される。

 作戦とは、ポートモレスビーに二ヶ月に一度程度の間隔で定期的に来ている大規模な輸送船団を洋上で撃滅し、現地日本軍の貧弱な補給態勢を一時的であれ断ち切って、その間に自らの態勢を立て直そうというものだ。さらにニューギニア島の北東先端部に奇襲的な上陸作戦を行って基地を設営してモレスビーの補給線を分断し、反撃の糸口としようという意図もあった。
 このため、なけなしの水上艦隊と長距離爆撃部隊、そして上陸作戦のための部隊と輸送船がブリズベーンに用意された。
 まずは水上艦隊と長距離爆撃部隊が作戦直前にタウンスビルに移動して、ニューギニア島東端とルイジアード海峡の間を突破し、モレスビーとラバウルの航空隊が護衛任務を引き継ぐ僅かなスキを突く形で爆撃を行い、さらにモレスビー近海に艦隊を伏せて襲撃する計画が立てられた。
 なお、このモレスビーに対する日本軍の補給の事を、現地連合国はその船団速度の速さから「東京急行」と呼んでいた。

 連合国軍に有効な打撃を与えていることが分かっているモレスビーに対する補給は、日本軍、いや日本海軍も非常に重視していた。軽空母や巡洋艦すらが高速輸送船を護衛し、モレスビーにも有力な水上艦隊を配備し、さらに制空権確保のため基地航空隊も可能な限り飛行機の傘を投げかけていた。そればかりか、他では見られないような航空機による潜水艦狩りも当然のように行われ、補給の数日前には北東豪州をいつもより激しく攻撃する念の入りようだった。
 だた半年近く作戦が成功していると、ルーチンに陥って油断が生じるのが常で、この時の日本軍も他の例にもれていなかった。

 この頃、つまり一九四二年十一月頃の日本海軍は、モレスビーとラバウルに一個水雷戦隊を配備し、さらにラバウルには巡洋艦を主力とする強力な第八艦隊がすぐに出動出来る態勢を保っていた。しかもラバウルから出発する輸送船団の護衛には、空母部隊から派遣された有力な防空能力をもつ第十戦隊がこの時派遣されていた。以下がその頃の編成になる。

第八艦隊(三川中将)(ラバウル待機)
 旗艦:重巡《鳥海》
 第四戦隊:重巡《妙高》《那智》
 第十八戦隊:軽巡《天龍》
 第三水雷戦隊:軽巡《川内》(橋本少将)
 第十九駆逐隊:《浦波》《綾波》《敷波》

輸送船団直衛
第十戦隊
:軽巡《長良》(木村少将)
 空母:《龍驤》(零戦十八機、九七艦攻十二機)
 駆逐艦:《五月雨》《涼風》《朝雲》《白雪》
 防空駆逐艦:《秋月》《照月》《初月》
 高速輸送船:六隻

モレスビー駐留艦隊(五藤中将)
 旗艦:重巡《摩耶》
 第七戦隊第一小隊:重巡《鈴谷》《三隈》
 第二水雷戦隊(田中少将)
 第十五駆逐隊 :《早潮》《黒潮》《親潮》
 第十八駆逐隊 :《霞》《霰》《陽炎》《不知火》
 第二十四駆逐隊:《海風》《山風》《江風》《凉風》

連合国艦隊(スコット少将)
 重巡:《ニューオルリーンズ》《ノーザンプトン》
 軽巡:《ボイス》《ホノルル》《へレナ》
 駆逐艦:五隻
(※連合国軍には、他に護衛空母と旧式戦艦が何隻か存在し、駆逐艦も多少はあった。だがとても前線には出せないし、さらに後方に配備され護衛と輸送任務にあたっているため回すわけにもいかなかった。)

 見て分かる通り、日本海軍には巡洋艦を含んだ強力な艦隊が南太平洋に多数展開していた。制空権の有無もあって、旧式戦艦以外の艦艇が払底している連合国が水上から手が出せるような戦力ではなかった。そして、ここに挙げられている連合国軍の戦力は、再建中の空母部隊用に後方に拘置されたわずかな高速艦艇を除くと、最後の高速打撃艦隊だった。しかも一九四三年半ばに入るまで、回復される事はないという貴重なものとなっていた。
 何しろ、開戦から一年にも満たない間に、アメリカ海軍は重巡洋艦総数の過半数にあたる十一隻も喪失していた。軽巡洋艦も旧式艦は二線級任務以外に耐えられないとして前線に出せず、新鋭の《アトランタ級》は投入されたばかりの四隻のうち三隻は既に撃沈されていた。豪州海軍に至っては、稼働大型艦艇皆無という状況で、このため急遽大西洋から大型軽巡の《ブルクッリン級》が大量に回航されて戦力の補完を行っている有様だった。すべての影響が、この時の艦隊編成に如実にそれが現れていると言えるだろう。

 そして昭和一七年十一月二十八日、スコット少将を司令官とする連合国最後の快速前衛部隊は、日本軍が「東京急行」を準備中との情報を得て、これを撃滅するべくと珊瑚海方面に出撃した。虎の子の《B17G》三十六機で編成された完全編成の攻撃隊も空へと舞っていった。
 なお《B17G》が使用されたのは、《B24》の数がまだ揃わないのと航続距離の関係から他の双発機(《B25》)ではタウンスビルからは足が十分に届かないのが大きな理由だった(※この頃のクックタウンやケアンズの基地は、日本側の空襲により廃墟同然だった)。
 これに対して日本軍は、電探を装備した艦隊に空母や新型の防空艦すら配備しているというので安心しきっていた。連合国の動きにも特に気付く事もなく、そのままラバウルを出港した。そしていつものルーチンで護衛作戦を展開しつつ、十六ノットの高速でポートモレスビーを目指していた。
 そして午前九時十二分、《長良》に取り付けられたばかりの二一号電探が接近する大編隊を捉えた。上空に舞っていた基地所属の零戦隊と《龍驤》の甲板で待機していた零戦、つまり全ての零戦が敵編隊に向けられ、またモレスビー、ラバウル双方に緊急電が飛んだ。
 そして、電探に捉えられてから七分後に最初の接触が行われるが、圧倒的なまでの防空火力を誇る《B17G》の大編隊は、コンバット・ボックスと呼ばれる分厚い陣形を組んで零戦隊をなかなか寄せ付けなかった。迎撃に向かった零戦隊は、与える損害より自らの受ける被害の方が大きいという状態で、編隊外縁の数機を撃破しただけで艦隊の肉眼に捉えるところまで接近を許した。
 だがここで、新鋭の《秋月型》駆逐艦が一斉に火蓋を切り、それぞれ二機の目標に対して高初速の砲弾を正確に浴びせかけ、アメリカ軍が投弾するまでに十機以上の機体を撃破・撃墜してしまう。これによって穴の空いた編隊の隙間に零戦隊が付け入って戦果を拡大、《B17G》の編隊は爆撃進路に乗る頃には陣形が大きく乱れ、戦力も半減したため大きな成果を挙げることはできなかった。
 このため僅かに駆逐艦一隻が至近弾を受けて損傷し、引き返しているに止まっている。
 しかしこの攻撃により陣形が乱れた日本艦隊は、モレスビー入港の時間が大きく遅れてしまい、夕陽が没しようとしている頃まだモレスビー沖合を航行するに止まっていた。本来ならすでに港に入っていなければいけない時間だった。
 そしてそこにスターシェル(星弾)が突然輝き、西日を背に米艦隊が急襲してきた。

 だがこのときの攻撃は、アメリカ海軍にとって賭けに近い行為だった。
 何しろ場所は、ポートモレスビーの目と鼻の先であり、日本軍駐留艦隊は既に出撃していると見られ、いくら黄昏時を狙ったとは言え、空襲の警戒もしなければならず、この時も一回すれ違うだけの単純な戦闘が心がけられていた。
 これに対して日本側は、空襲の心配がなくなったと安心した時に起きた奇襲だったため対応が遅れた。一番外縁前方で護衛についていた駆逐艦二隻が相次いで炎に包まれ、その時点でようやく迎撃が開始されるという体たらくを示していた。また、日本側の安心要素だったモレスビー艦隊が港外に出て警戒配置に付いていた事も油断を誘ったと言えるだろう。
 そして、切り裂きジャックのような攻撃をアメリカ軍が行った後には、炎に包まれた駆逐艦三隻と輸送船四隻の姿があった。対するアメリカ軍は僅かな損傷艦を出しているだけで、アメリカ軍としては今までに例をみないほどのパーフェクトゲームとなった。
 だが戦闘はまだ半ばにしか達しておらず、後方からは急速に接近するモレスビーの巡洋艦艦隊が確認され、すでに後方の艦艇の側には水柱が奔騰し続けていた。米艦隊は一刻も早く撤退を急がなくてはならなかったのだ。局地的に数で勝っているとは言え、ここで一隻たりとも失うわけにはいかないからだ。
 しかし、勝利の余韻と追撃に対する焦りがアメリカ軍に油断を生んだ。

 アメリカ軍進路を予測して迂回していた第二水雷戦隊が、突如陸の影からアメリカ艦隊の航路を横切るように現れた。そしてこれに反応して大きく転舵した米艦隊の進路上には、日本海軍必殺の酸素魚雷が近距離から無数に放たれていた。
 この魚雷攻撃により、連合国艦隊は多大な損害を受ける。雷撃だけで《ノーザンプトン》が撃沈確実と思われる魚雷三本を受けて大破し、《ホノルル》を除く全ての巡洋艦も魚雷を受けて同様に大破して戦闘力を大きく減じた。
 残った駆逐艦と《ホノルル》だけでは周囲にいる無数の日本軍艦艇を相手にすることは不可能に近く、司令部は自らを含む損傷艦艇を放置して健在艦に撤退を命令した。その後、魚雷を受けてのたうち回っている四隻の巡洋艦は、追撃してきたモレスビー艦隊の砲撃と、第二水雷戦隊の執拗な襲撃、そして復讐に燃える護衛艦隊の反撃まで受けることとなった。
 午後八時頃までに損傷艦艇全艦が撃沈され、単に艦艇の損害ばかりでなく大きな人的損害を受けることになった。
 この戦いだけで、指揮官スコット少将以下四〇〇〇名以上の死者、行方不明者、そして捕虜を出しており、米海軍将兵の払底をさらに促進させる影響を与えている。特に水雷戦隊司令部の全滅は、ソロモンでの損害を合わせてその後も連合軍を苦しめることになる。
 だが、この日本の勝利は、開戦以来の一方的な戦術的勝利と言う点で最後のものと言われ、以後戦力を徐々に回復する連合国の前に日本軍の消耗が激しくなるという連鎖が始まる最初の例となった。
 そう、ソロモンの戦い以後、日本軍は物量の差によって戦争のイニシアチブを失いつつあったのだ。

 一九四三年に入ってからの戦争展開は、日本にとって甚だ不可解なものだった。
 開戦以来日本帝国海軍は、自身すら疑うほどの圧倒的な勝利を重ね続けていた。これまでの戦争なら、完全勝利と言っても間違いなかった。開戦以来沈めた連合国艦艇の総数は、どう控え目に数えても聯合艦隊をひと揃えできるほどの質と量だった。いかに物量に勝る連合国、いやアメリカと言えど膝を屈するほどの大打撃だと考えられていたからだ。大量育成の難しいセイラーも開戦以来の累計で約三万人戦死させ、ほぼ同数の負傷者を出しており、普通なら組織としての戦闘力を喪失している筈だというのが聯合艦隊の考えだった。
 だが、現状では南太平洋での千日手だった。
 一九四二年暮れ頃から北東豪州の連合国航空機は、落としても落としてもそれ以上に増強されるようになり、四三年に入る頃には航空撃滅戦はひいき目に見ても互角に転じつつあった。
 ソロモンとニューヘブリデス、ニューカレドニア、ミッドウェーとハワイ間で行われている睨み合いと嫌がらせの攻撃も、連合国側が数に頼んだ防衛戦術を取り始めて効果を減じ、その傾向は日を増すごとに強くなっていた。
 また、一九四二年末頃から連合国潜水艦による損害が少しずつ増加しつつあり、特に前線補給での損害は無視できないレベルに達していた。これは一九四三年二月に、ミッドウェーの基地機能が事実上麻痺した事で象徴される。ここで失われた優秀船舶十数隻の損害は、海軍の輸送作戦を根底から揺らすものだった。前線への補給で失われた駆逐艦の損害も無視できなかった。
 そして、本来なら既に「FS作戦」が決行されていなければならないのに、後方で万全の再編成がされていた空母部隊以外は、相手を消耗させ実際そうなっている筈なのに、結果は自らが消耗しているだけのような状態だった。
 しかも基地航空隊の消耗によって、ミッドウェーでは撤退か同方面に脅威を与えているハワイに対する大規模な攻撃を行う以外の選択肢はすでになくなっていた。偵察によって膨大な戦力が備蓄されつつある事が分かったハワイに対する侵攻作戦など、既に夢物語でしかなくなっていた。
 もっとも南太平洋方面の戦況は、ミッドウェー正面より状況は明るかった。
 ラバルウを起点とした航空隊のローテーションは何とか維持され、四三年二月頃から方針を転換して守勢に入っていたため、防空戦闘機隊を中心にした各地の戦闘機隊は、連合国の爆撃を阻止すべく出撃を続けていたからだ。これを連合国との拠点の距離が補完し、さらに自軍戦力を補完するために陸軍の協力を得るようになった事も重なって、少なくとも四三年夏頃までは戦線を優勢のまま維持できる見通しが立っていた。
 そして全ては、聯合艦隊のほぼ全力が再び活動可能となる一九四三年春に入ってから、そして夏に米機動部隊が復活してから双方がいかなる手に出るかが、戦争の次なる流れを作り出す事になると全ての人が認識するに至っていた。
 つまり一九四二年を以て、日本軍の攻勢は終焉を迎えていたのだ。
 そしてこれこそが日本の国力の限界であり、アメリカを中心とする連合国の物量の凄まじさだった。
 国力差の開きすぎた戦争は、チョットした戦闘の勝利の連続程度では覆らないという典型的な例と言えるだろう。
 この例にローマとカルタゴの戦争がある。


 

 

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■フェイズ八「第二ラウンド開始」