■フェイズ〇九「チッタゴン作戦」

 南太平洋での勝利を受けて、太平洋方面でかなりの余裕を得た日本だったが、海軍主力は再度の再編成と改装、補充の為しばらく大規模な活動はできなくなっていた。また、依然として強い圧力を与えてくる連合国軍基地航空隊に対する航空撃滅戦の継続は必要で、海軍は艦隊の再編成が終わるまで身動きが取れなくなっていた。
 また、アメリカ軍潜水艦の脅威が一九四三年春頃から徐々に上昇しており、これに対する対策も重要度を増していた。海軍としては、前線での負担が減少したこの機会を生かして、今までの積極攻勢から攻勢防御のための戦力の再編成と本格的な長期持久態勢の構築を行いところだった。
 いっぽう陸軍では、連合国の圧迫が減少している今こそとばかりに、有利に戦闘を展開しているビルマ方面でのさらなる積極攻勢、通称「チッタゴン作戦」が提案される。

 インド・ビルマ戦線は、開戦とほぼ同時に日本陸軍の一部が進撃を開始した事で開始され、一九四二年一月二十日に第十五軍が本格的侵攻を開始してから以後、日本軍による破竹の進撃が続けられていた。
 この侵攻は、ビルマからインド東部が雨期によって行動不能となる五月まで続けられ、日本軍はビルマのほぼ全土の占領に成功していた。
 そして、ビルマとインド・アッサム地方を挟んで日本軍と英国軍は対峙するようになったのだが、一九四二年いっぱいは英国軍は軍の再編成すらままならない有様だった。戦略的重要性の増したビルマ西端の港湾都市アキャブを巡っての小競り合いが起こる程度となっていた。
 そしてこの時四個師団(十八、三十三、五十五、五十六)を抱える日本陸軍第十五軍は、停滞した状況を打破すべくアッサム地方への侵攻を企図していた。だが、ジャングルと峻険な山々での大軍の運用は不可能として、新たな援蒋ルートのためのアッサムの要衝インパール攻略を当面の目標としつつも、別の道を模索していた。
 そして一九四二年夏に入り輸送船舶が前線から後方の航路に復帰し始めているのを確認すると、これを一部動員してアキャブの少し西にあるインドの東の玄関口チッタゴンを海上から攻撃できないかと俄に研究が始められた。
 侵攻には陸軍の一個飛行集団と陸路と海路から合計二個師団の地上戦力が必要だと考えられた。しかも、この頃陸軍は満州で待機状態を続けている精鋭師団の過半が事実上の遊軍状態だったため、輸送船と護衛艦艇・支援艦隊、後方からの補給体制の手当さえ付けば転戦させることも容易だった。
 これが一九四三年夏以降なら事情も全く違うのだが、その一年前の日本は圧倒的優勢で戦争を進めている時期であり、大本営もインド解放という自らの政治目的に合致した作戦に好意的だった。援蒋ルートのさらなる遮断という目的にも合致した。海軍の方も、インド方面でいくらか点数を稼いでおく事は陸軍とのバランスを考えると有効と判断し、短期間の有力な艦艇のインド洋展開を了承した。
 かくして、乾期の最中にあたる一九四三年二月に作戦は決行される事になった。
 そして作戦決定に従い、陸軍の精鋭第九師団が四二年暮れ頃から満州からシンガポールへ移動を開始し、シンガポールやペナンには日本海軍の有力な艦隊と輸送船団が集結しつつあった。

 対する英国軍は、まだ欧州の戦況が抜き差しならぬ状況であるばかりか、豪州の戦況も予断を許さずという有様で、とてもではないがインドにさらなる有力な増援を送り込むなどできない状態だった。
 特にこれは、四二年四月に日本海軍に有力な艦隊を撃破された影響が強かった。
 インド洋で多くの有力艦艇を失ったため、インド洋全体の海上補給を逼迫させ、地中海戦線、大西洋にまで影響を与えたと言われる程のダメージを連合国に与えていたのだ。
 このため英本国は、いくらかの航空機の増援を行っただけで、現有戦力で日本の侵攻が予測されるチッタゴン、カルカッタ、セイロンの防衛をするべしと命令を発した。
 だが英国も、ただ手をこまねいていたわけではなかった。中でもゲリラ戦の権威ウィンゲート将軍は、空中補給によるジャングルでの浸透作戦を計画していた。
 浸透作戦により日本軍を奇襲的に攪乱し続け消耗させる事を目的として、これにより日本軍の山間部からの侵攻を中止させようとしたのだ。
 この作戦には三〇〇〇名のイギリス兵と世界最強を謳われるグルガ兵(傭兵)が動員される事になり、日本軍の侵攻より若干早い一九四三年二月八日、インパールからビルマの未開のジャングルへと踏み入った。
 だが、彼らが足を踏み入れたジャングルは、原住民ですら「魔境」と呼ぶ未開のジャングルだった。高温多湿で食料はおろか飲み水の確保すら難しい地域で、だからこそ日本軍の裏をかくことに成功した。
 五月の雨期に入る頃に、彼らは三分の一の犠牲を主にジャングルそのものとの戦いで失いながらも、日本軍の十八、三十三師団両を翻弄して作戦の正しさを証明した。
 だが、敵の意表を突く事は、イギリスの専売特許ではなかった。チッタゴンへの侵攻に連動した、日本軍の山岳部での動きも活発化していたのだ。
 この時、五十五師団と向かい合っていた英国軍は、突如峻険な山が控える側面から三十三師団(一部)の奇襲攻撃を受けることになった。このため戦線は崩壊し、多大な犠牲を出していた。そしてこのことは、過半のイギリス軍がジャングル戦に対応していないことを現しており、全体としては日本軍の方が相対的にジャングルに適応していたと言う証拠と言えるだろう。問題なのは、補給と制空権なのだ。
 そして、その日本軍の主攻撃が、四三年四月四日に開始される。
 この時南方海岸部に移動していた五十六師団は、この作戦までに作られた道を伝って平押しでチッタゴン目指して進撃を開始した。
 これに対してイギリス軍も対応しないワケにはいかず、第十四インド師団を前面に立てて激しい防戦を展開し、ビルマ海岸部の狭隘な地域に多数の兵力が集中する事になった。

 四月二〇日、膠着状態に陥ったインド・ビルマ国境線海岸部に突如変化が訪れる。
 海岸部に犇めいていたインド師団の頭上に、戦艦の巨弾が降り注いだのだ。
 この攻撃は深夜に行われたため、非常に大きな混乱が同師団を襲った。しかも時期を同じくして陸上からの日本軍の総攻撃も実施され、狭い地域に張られていた戦線は呆気なく崩壊した。
 この時ベンガル湾奥深くに襲来した日本艦隊は、「遣印艦隊」と呼称されていた。日本海軍からは二線級と判断されていた戦力ばかりだったが、日本以上に旧式艦艇しかインド洋に配備せず、しかもベンガル湾に有力な戦力を置いていない連合国にとっては極めて大きな脅威となった。しかもなけなしの在インド洋連合国海軍は、日本海軍が同時に開始した作戦、南太平洋での負担を軽減するのを主目的としてインド洋に対する通商破壊作戦への対応に忙殺され、制海権、制空権の危うい地域への派遣など考えられない事態だった。
 なお「遣印艦隊」は、開戦以来出撃の機会が一度も無かった旧式戦艦の《扶桑》《山城》と、第八艦隊から他との交代の形でシンガポール方面の防衛任務に引き抜かれた重巡洋艦《青葉》《衣笠》《古鷹》を主力としていた。これに輸送船団護衛のために軽空母に改装されたばかりの《瑞穂》が属し、これを臨時編成の二個水雷戦隊が艦隊と船団をそれぞれ護衛していた。
 もっとも、チッタゴン作戦が終了すれば一個水雷戦隊は、輸送船団と共に内地に資源を満載して帰投予定だった。上陸作戦完遂の後は、軽空母と巡洋艦による通商破壊を行う程度の艦隊しか残されない計画になっていた。これすらドイツへの同盟義務履行のための政治的行動というだけで、日本海軍にとって所詮インド洋は重要でないという何よりの証拠だった。ただし、燃料を食う戦艦を油田の豊富な地域に置く事の利点がこの時認識され、その後大規模に実施されることになる。
 そして作戦後も遣印艦隊は重巡三隻と特設空母一隻からなる小艦隊は、ビルマ・東インドの友軍を支援するため四三年一杯までベンガル湾一帯での活動を継続した。
 空母を活用することで往年のドイツ通商破壊艦艇以上の戦果を一時的に挙げて、アメリカの物量の前に劣勢が伝えられる南方戦線を後目に活躍し続ける事になる。しかし、一九四四年冬に入り連合国の大艦隊がインド洋に再び入ってくると活動範囲は極めて限られた。制空権、制海権が完全に奪われた一九四五年夏頃には、最後まで防衛のためタイ西岸のペナンに残留していた巡洋艦戦隊も、シンガポールに下がって限定防御もしくは、防空砲台として存在するしかなくなっていた。しかし、レイテ戦の後に第五戦隊が増援されて一時的に勢力を盛り返し、その後艦艇のかなりを失うも終戦まで存在が消え去ることはなかった。そして現地日本軍の希望の星として活動を続けるだけでなく、連合国側もシンガポールに日本の有力な艦隊がいるため大きな行動に出ることができなかった。
 なお、インドネシアの油田施設の多くが空襲以外で攻撃されなかったのは、最後まで日本海軍がシンガポールで頑張っていた要因が大きい。

 話が逸れたが、艦砲射撃の翌々日、総動員された日本陸軍機の眼下、チッタゴン攻略の第二段階が開始された。
 この時約二十隻の輸送船に分乗した精鋭第九師団は、馴れない上陸戦ながら大型艦艇の艦砲射撃の援護もあって無事敵前上陸を成功させた。
 海上からの攻撃を予期していたが、まさか戦艦まで参加させているとは考えなかった英軍は、不十分な海岸陣地を艦砲射撃で粉砕された。なけなしの機甲戦力も、同様に艦砲射撃によって大きなダメージを受けてしまう。防衛の切り札だった空軍部隊も、英空軍将兵が「Jメッサー」とも呼んだ日本軍が送り込んできた新型機《三式戦闘機》に苦戦を強いられ思うような活躍はできなかった。
 そして、ちょうど日本で天長節が祝われている日、チッタゴンは無防備都市を宣言せざるをえなくなり、ここにチッタゴンは呆気なく陥落した。
 そして、チッタゴンを陥落させた日本軍は、ここにマレーなどで編成を進めていた自由インド軍を送り込み、自らの政治目的を見せ、さらに奥の手となる政治的行動が五月二日に決行される。

 インドから脱出していた「ネタージ」ことチャンドラ・ボースが突如解放されたばかりのチッタゴンに現れ、『チェロ・デリー!(デリーへ!)チェロ・デリー!(デリーへ!)』と演説して全インドを揺さぶったのだ。
 チャンドラ・ボースはインド独立の志士の中でも武闘派のリーダー格として活躍しており、元はインド国民議会派議長であった。そしてイギリス政府の圧力により一九四一年にドイツに亡命したのだが、ドイツでは満足な成果が得られないため急遽日本に渡ることが決まり、この時彼の熱い希望によって日本に来る前に解放されたばかりのチッタゴンに立ち寄り演説を行ったのだ。
 そして、この演説の後一九四三年十月二十一日、チャンドラ・ボースはインド独立連盟東亜代表者大会において自らを首班とする自由インド仮政府の樹立を決定し、下記の挨拶を行った。
「私は神の御名にかけて、インドとその三億八千万国民を解放することを誓う。私は死の瞬間までこの誓約を守るであろう。私はインド国民の自由のためにはあらゆる努力を傾けるであろう。さらに私はインド解放の後にもインドのためにこの一身を棒げることを誓約する」。
 そして十月二十三日、日本政府はこの自由インド仮政府を承認した。国際法上、国家には領土が必要な事から、十一月に開催された大東亜会議において東条首相は、日本軍が占領中のチッタゴンとその周辺部、そしてアンダマン・ニコバル両諸島を自由インド仮政府に帰属させると発表した。そして自由インド仮政府領内には、日印共同防衛を理由として日本軍が継続して駐屯することとなった。

 この事件以後、当戦域での日本軍の活動は極めて不活発なものとなるが、これにはチッタゴンの占領(解放)が大きく関わっていた。
 日本の政治目的を維持するためにはチッタゴンは何としても守り抜かねばならなかった。十月の自由インド仮政府成立と現地での連合軍の圧力増大を受けて、大本営でもチッタゴン地域防衛のための戦力を抽出をすべくビルマ戦線の整理縮小が決定された。
 結果、ビルマ奥地でアッサムと雲南の米英中の連合国軍と対峙していた三個師団の日本軍は、チッタゴンに篭もった日本軍二個師団と自由インド軍と共に、チッタゴン=マンダレーのラインを絶対防衛線として戦力の再配置と陣地構築を急ぐ事になる。
 また、チッタゴン陥落と自由インド仮政府成立によって再びインド全土に独立という嵐が吹き荒れる事で、在インド英軍は日本軍に立ち向かう前に、これまで以上に自分たちの被支配層を相手にしなければならなくなった。特にチッタゴン周辺のダッカやカルカッタ周辺ではこの動きが強かった。全インドを席巻したサボタージュ運動とネタージが持ち込んだインド独立の幻想という混乱(テロ行為)によって、インド全体の流通が大きく乱れ、インパールを起点とした中華民国を支援するための援蒋ルートを通した物資輸送なども不活発なものとなっていた。
 その翌年に日本軍はインパールに対する攻勢を計画するも、チッタゴンでの一応の成功と絶対国防圏の設定に伴いなし崩しに作戦中止が決定され、結果として日本軍を中心としたビルマ絶対防衛線構築は順調に進んだ。
 また自由インド仮政府には、約三万人のインド軍兵士が属しており、チッタゴン陥落によってチッタゴンとその近在、そしてインド各地から押し寄せた約十万人もの兵力に膨れあがった。彼らは、英国が守勢を維持する間、ジリジリとダッカ、カルカッタ目指しての進撃すら行っている。
 もっとも一九四四年に入ると、制空権は前線近くでは完全に連合国の手に落ち、一九四五年に入ると四式戦など新鋭機によって辛うじて維持されているラングーンなどの制空権すら危ういものとなっていた。しかも物量の差はいかんともしがたく、連合国軍としてビルマに侵攻してきた国府軍ですら、日本軍が一発射てば一〇発返して来るという有様だった。
 奮闘空しく一九四五年一月五日ついにチッタゴンは陥落して、自由インド仮政府成立は残された「領土」であるアンダマン・ニコバル両諸島への撤退を余儀なくされた。
 なお、終戦時に日本軍が維持できたビルマ地方は、かねてから要塞陣地化が進められていたアキャブとマンダレーを結ぶラインであり、現地日本軍と連合国各国との終戦時の握手もマンダレーの街で行われている。
 そして、この日本軍の抵抗を助けたのが、インド独立を掲げたチャンドラ・ボースと自由インド仮政府、自由インド軍の存在だった。彼らの活動が全インドを揺るがして前線に配備される在インド英軍の戦力をはるかに小さなものとしたからこそ、何とか日本軍が耐えることが出来たと言えるだろう。
 日本政府も戦後このことを非常に重要視し、講和会議において英国が強く要求したチャンドラ・ボース引き渡しを拒否し続けた。自由インド仮政府、自由インド軍に属する人々も、インドで政府が樹立され、彼らの罪が無かったことになるまで日本国内で匿い続け、日印友好の大きな絆となっている。

 

 

■解説もしくは補修授業「其の九」へ 

■フェイズ十
 「全般状況と日本の総力戦体制」