■フェイズ十八「オペレーション・V1」

 一連の戦闘で日本軍航空戦力の撃破が一応完了したと判断したアメリカ軍は、一九四五年一月十七日ついにフィリピンへと足跡を記す。
 その最初の場所となったのは、フィリピンのほぼ中央部に位置するレイテという名の島だった。
 アメリカ軍がこの島に侵攻した経緯は色々ある。

 マリアナ沖海戦後、本来アメリカ軍の『レイテ上陸作戦』は四五年三月の予定だった。だが、四四年十二月十二日にハルゼー大将は、率いる第三八任務部隊(TF38)でセブ島を攻撃したところ、予想以上に日本軍の航空戦力が低下している事を看破した。そして、レイテ上陸作戦を繰り上げ実施したほうが良いとの意見を、太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督に緊急打電するに至る。
 そこで検討したアメリカ中央統帥部は、『飛び石作戦』のヤップ、タラウド、ミンダナオへと続く上陸計画を取り止めて、作戦をすべて繰り上げてレイテ侵攻を実施するようにマッカサーとニミッツに指令を出した。その威力偵察ともいえるスルアン島に侵攻したのが一月十七日で、このアメリカ軍の動きに対して日本側は『捷一号作戦』を発動させている。
 だが、アメリカ軍に不安要素がないと言えば嘘になる。特に日本側が「台湾沖海戦」と呼称した戦闘終盤の台湾での戦いは、アメリカ軍に大きなショックを与えていた。
 何しろ、それまで順調に航空撃滅戦を展開していたにも関わらず、日本海上交通線のキーポイントとでも言うべき台湾は、「ジョージ《紫電》」、「フランク《疾風》」、「トニー《三式戦》」など新鋭機ばかり三〇〇機以上が展開する強固な航空要塞と化していたからだ。ここで待ち伏せと送り狼の攻撃を受けたTF38は、空戦だけで艦載機約一八〇機を喪失した。さらに大型空母《フランクリン》が日本軍の反撃で艦載機補給時に被弾して、一時退艦命令が出されたほど酷く損傷してしまう。おかげで、マリアナでの打撃から回復したばかりの空母部隊をまたも傷つけていた。これは、以後米空母部隊が不用意に台湾近辺に近寄ることを、長きに渡り躊躇させる事になる。
 しかも、開戦以来日本との戦いによって、米艦載機隊のパイロットは、落とされては補充された新兵が実戦に向かうというパターンが多かった。他の部隊と比べても、高い損耗率を示し続けていた。この時も、損失した航空機は素早く後方の補給用護衛空母群から補充されたが、パイロットの技量という面、特に実戦経験がもたらすファクターから考えると戦力がかなり低下していた。だからこそ、地上支援や中規模以下の拠点攻撃ならともかく、日本海軍の精鋭である空母艦載機との戦いには能力が不足するのではと考えられていた。日本的表現なら、役者不足というやつだ。
 だが、主導権を握っている陸軍の強い要望により発起されたフィリピン作戦に、海軍は強く反発することができなかった。しかもパラオでの戦いでも不甲斐ない面を見せており、これ以上陸軍に後れをとるわけにはいかないとして、陸軍の言うがまま作戦が実行される事となった。
 そして海軍の決意を見せるように、以下の布陣を以てレイテへと侵攻を開始した。

 第3艦隊(ハルゼー大将直率)
 第38機動部隊(第一群)
CV :《エセックス》《ハンコック》
CVL:《ベロー・ウッド》《モントレイ》
BB :《ニュージャージ》
CL:2  CLA:2   DD: 16 
 (第二群)
CV :《レキシントン二世》《ベニントン》
CVL:《ラングレー二世》
BB :《アラバマ》
CG:1 CL:2   DD: 15
 (第三群)
CV :《サラトガ二世》《ランドルフ》
    《ワスプ二世》
BB: 《ミズーリ》《ウィスコンシン》
CL:1 CLA:2   DD: 16
(艦載機:約750機)

 第七艦隊(TF79)(キンケイド中将)
BB:《ウェスト・ヴァージニア》
   《メリーランド》
   《テネシー》《カリフォルニア》
   《ミシシッピー》《ペンシルヴァニア》
CG:3 CL:4   DD: 16

 第七艦隊(TF77―1・3)
CG:2 CL:3  DD:10
 第七艦隊(TF77―4)(護衛空母群3個)
CVE:18
DD: 9  DDE:9
(艦載機:約450機)
 第七艦隊(TF78)(船団護衛)
DD(DDE):31 他多数

 侵攻部隊
米第6軍
(※総数七個師団・約20万名)
 第一波:四個師団・約12万名
 第10軍団(第1騎兵師団、24師団)
 第24軍団(第7師団、第96師団)

船団総数:650隻
(※装備総量:一五〇万トン、戦闘車両:二〇三万トン、弾薬:二〇万トン)

 この艦隊には、ニューギニア南東部にあるアドミラルティ諸島と、カロリン群島のウルシー環礁にいた侵攻部隊として紹介した攻略部隊を乗せた大船団が伴われていた。総数約八〇〇隻にまで膨れあがり、西部ニューギニアからの航空機傘の下、海を圧するように進撃していた。
 その様は、数千年の昔にトロイを滅ぼさんとしたギリシャの艦隊をイメージさせるものであり、日本人の目からすらば第二の元寇と言えただろう。
 この巨大すぎる軍団が、フィリピンのほぼ中央部に位置するレイテ島に押し寄せたのが一九四五年一月二十日だった。そして日本海軍はアメリカ軍の動きに従い、リンガ泊地での激しい訓練を終え、急ぎブルネイへと移動した水上打撃艦隊と、瀬戸内海でマリアナ沖での傷を癒していた空母部隊が同時に行動を開始する。
 そしてこの時出撃した日本海軍艦艇は、洋上機動戦力として出しうるすべてであり、戦争を回天させるべく米輸送船団撃滅へと征く事になる。
 なお以下が、最終的に付近海面に集まった日本海軍の主要艦隊だ。

 第一遊撃部隊(第一部隊)(西村祥治中将)
戦艦:《大和》《武蔵》《信濃》《長門》
重巡:《愛宕》《高雄》《鳥海》《摩耶》
   《妙高》《羽黒》
軽巡:《能代》 駆逐艦:十二隻

 第一遊撃部隊(第二部隊)(角田覚治中将)
戦艦:《金剛》《比叡》《榛名》
重巡:《最上》《三隈》《鈴谷》《熊野》
   《利根》《筑摩》
軽巡:《矢矧》 駆逐艦:九隻

 第一機動部隊(小沢治三郎中将)
空母 :《赤城》《瑞鶴》
軽空母:《隼鷹》《龍鳳》《瑞鳳》
戦艦 :《伊勢》《日向》
防空巡:《五十鈴》 軽巡:《大淀》《多摩》
防空駆逐艦:四隻 駆逐艦:六隻

 第二機動部隊(山口多聞中将)
空母 :《飛龍》《天城》《葛城》
軽空母:《千歳》《千代田》
戦艦 :《扶桑》《山城》
防空巡:《伊吹》 重巡:《那智》《羽黒》 
軽巡 :《阿賀野》《阿武隈》 
防空駆逐艦:二隻 駆逐艦:六隻

 (艦載機総数:四五〇機(実数約四三〇機))

 警戒隊(フィリピン方面の海上警備)
重巡:《青葉》《古鷹》
軽巡:《北上》《鬼怒》《球磨》
駆逐艦:四隻 他

 直接参加艦艇だけで約八〇隻、これ以外に補給のための艦艇、ブルネイまで出張ってきた支援・補給艦隊、哨戒のため出撃した潜水艦などを含めると、作戦参加艦艇数は百隻以上になる。まさに『根こそぎ』と表現して間違いないほどの主要艦艇が、この時集められた。しかし、この編成の中で特筆すべきは、戦艦を始めとする多くの有力艦艇がひとまとめに戻され、空母部隊と行動を別にしている点と、艦隊決戦以外考えていない艦隊構成にある。そしてここに日本海軍がマリアナでの戦い以後、決戦に対して違ったビジョンを持つようになった事が強く見てとれる。
 また、個々の兵器を少し見てみると、何と言っても目立つのが《大和型》戦艦三番艦《信濃》の存在だろう。同艦は《大和型》の完成度をさらに高めた上に戦訓を取り入れて完成した、改《大和型》と呼ぶべき超大型戦艦だった。四十五口径四十六センチ砲に対してすら過剰防御だった《大和型》の装甲厚を少し減らし、そこで浮いたリソースを艦底を三重底にして水密防御を強化するなどバランスの良い防御配分に変更ていた。ほかにも当初から新型高射兵器を多数装備しただけでなく、建造中の戦訓により艦の余剰空間すべてを防空火器で埋め尽くしていた。このため、二種類の高角砲が合計二十四門、機銃約一〇〇門、多連装奮進砲十二基を装備した重防空艦ともなっていた。事実本海戦において、日本海軍艦艇の中で最も高い防空能力が与えられていた。
 また、防空能力という点では、機動部隊に属する四隻の旧式戦艦《扶桑》《山城》《伊勢》《日向》は、高速空母にも随伴できるよう中央部の主砲二基と副砲すべてを下ろして、空いた甲板上に多数の防空火器を搭載した防空戦艦とされていた。重量が1000トン以上軽くなったため、最高速力も1ノットほど向上した。
 ほかにも第一遊撃隊に属する《鳥海》《摩耶》も防空巡洋艦への改装を終了して戦場に臨み、その他の大型艦艇も資材と予算、時間の許す限り高い防空能力が与えられていた。
 そして空母部隊には、今までで最多の《秋月型》防空駆逐艦が配備され(総数六隻)、全身に機銃と高角砲でヘッジホック(ハリネズミ)のようになった新鋭防空巡洋艦《伊吹》の姿もあった。さらに対潜水艦専門の駆逐艦《松型》も、複数が両艦隊に配備されるか別働隊として前路警戒する事になって、今までにないほど対空、対潜戦が強化されていた。
 ちなみに、対空、対潜が強化されたのは、マリアナでの苦しい戦いが余程堪えたからだった。加えて、空母を始めとして各艦艇も、不燃不沈対策をいっそう徹底してこの戦闘に臨んでいる。

 なお日本艦隊は、艦艇構成のみならず集結地も大きく二つに分かれているのは先に説明した通りだ。一見ブルネイと瀬戸内海の二箇所からフィリピン近海での合流を目指し、米船団撃滅をするように見える。しかし、これではマリアナ沖海戦と比べると戦術が稚拙なのは疑う余地がない。分進合撃が机上の空論なのは明らかだ。自らの全力をもって、相手の分力を攻撃する事こそが戦いの正道だ。
 だが結果として事実であるが、本来日本海軍の意図は、泊地としての規模がある沖縄で二つの艦隊を合同させて決戦を挑む方針にあった。しかし、集結予定頃の四五年二月初旬までにアメリカ軍のフィリピン侵攻があっため、集結前に敵侵攻が発生した場合に用意されていた次善の作戦を採用せざるをえなかったという経緯がある。つまり聯合艦隊は、本来は「第一次マリアナ沖海戦」と同じ作戦を考えていた。辛うじて維持できるであろう友軍制空権の下、戦艦部隊が敵攻略船団とその護衛艦隊を撃砕するのが本来の作戦だったのだ。同じような作戦を好む、日本海軍らしいと言えるだろう。
 だが、現状では分進合撃の作戦を採らざるをえなかった。作戦そのものも、北方の機動部隊が米高速空母部隊を拘束している間に、基地航空隊の制空権の下で南方部隊が敵泊地に突入するという形に変更された。ここに戦争全般のイニシアチブが日本の手に無いことを物語ると共に、海軍として組織的作戦が崩壊しつつある事も伝える事象と言えるだろう。
 なおここで間違えてはいけないのは、日本が空母機動部隊を「囮」としてアメリカ軍をつり上げたという説が、実際は意図して行われたものでないという点だ。
 少なくとも彼らは、通常の決戦の変形パターンを演出しようとしただけだった。

 そして、複雑な作戦における指揮順序と指揮そのものだが、いまだ山本五十六大将を頂点に戴く連合艦隊司令部は完全に陸にあがり、現場の指揮はすべて実戦部隊指揮官に委ねられていた。また、艦隊が大きく二つに分かれている事から、最先任の小沢提督がすべての指揮を取るのではなく、小沢治三郎提督は空母部隊の指揮だけを取り、第一遊撃部隊の指揮は西村祥治提督の手に委ねられる事になった。
 そして西村提督の第一遊撃部隊指揮官就任は、内地にあった戦艦《信濃》などを第一遊撃部隊に合流させる任務の臨時指揮官としての立場からの抜擢に近い。これには現場指揮官は命令を決して違えない人物が良いとして、山本長官自らが推薦したと言われている。

 ちなみに、西村提督が指揮官に就任した経緯はかなり複雑だ。四三年九月から先の戦いで負傷した栗田健夫中将に代わって、五藤存知中将が第二艦隊を率いていた。本来ならこの作戦でも、五藤提督が第一遊撃部隊の指揮を取る筈だった。だが、彼は既に《信濃》がリンガ泊地に向かった四四年十月末に、リンガ泊地にてマラリアが悪化して体調を崩し、職務を果たす事ができなくなていった。
 そしてこの時、同じ三十九期の角田覚治中将がテニアン島からマリアナ戦勝利による凱旋転任という形で第二部隊を率いるべく艦隊指揮に就いていた(実際は単なる定例の人事異動の結果だが)。彼以外での上級指揮官は、前線にあって人事異動の機会を逃してしまった第一戦隊の宇垣纏中将、第三戦隊の鈴木義尾中将だが彼らは共に四〇期で、本来なら横滑りで角田中将が総指揮官に就任する筈だった。だが、山本長官が彼は目の前の敵に突っ込みすぎるとして、この頃内地の小規模な訓練艦隊を率い、現地にその艦艇群を送り届けに行く形になっていた、同じ三十九期の西村祥治提督に白羽の矢が立ったという経緯がある。
 どこか、日露戦争開戦時を思わせる人事といえなくもないだろう。
 ちなみに西村祥治提督は、温厚で真面目な人柄で軍歴のすべてを海上で過ごし、途中から航海科から水雷科に転向したほど努力家だった。だからこそ今回のような任務にはうってつけとされ、いかなる事態があろうとも艦隊を目的地にまで送り届けると見られていた。そして西村提督は、今回が死出の出撃だと強く考えていたらしく、ブルネイでの海軍恒例の壮行会では自ら進んで酒をついで回るなど常にない行動を行い、今日における後の語りぐさとなる数々の逸話を残すことになる。
 そして、彼が指揮官に就任した事によって、艦隊全体の変化が二つあった。
 彼が日本本土を離れる時、《伊勢》《日向》を率いる第二戦隊司令の松田千秋少将から航空機に対する最新の回避運動をまとめた冊子を受け取り、最新の戦訓を反映させたそれをリンガでの訓練の際に第一遊撃部隊すべてに強く訓練させた事と、これに関連して対空戦闘においては戦艦、巡洋艦の主砲は使用しないと厳命した事だ。砲術の専門家などからはかなり不評だったとも言われているが、その効果は戦場での結果が示している通りだ。
 そして与えられた状況を踏まえた西村提督は、アメリカ軍の侵攻を受け艦隊が分進合撃しなければならない事が決まると、自艦隊の偵察を密にするべきだとして、付近からあるだけの偵察機や水上機をブルネイに持ち込み、付近航空隊とも連携が出来るべく対策を取るように指示している点も重要だろう。

 一方アメリカ軍の巨大な侵攻部隊は、台湾沖でも現れなかった空母部隊が日本本土から出撃し、その構成艦が多数の戦艦と空母を含むと知らされると、空母部隊撃滅を至上命題に挙げている米海軍は同方面に強く引きつけられた。レイテ島での橋頭堡を確保した二十二日夕刻以降、三つあった高速空母群のうち常に一個空母群が北寄りに配備され、さらに二十三日には一個任務群が決戦のための補給を目的として前線から一度後退する。
 そして二十二日午前十時、西村提督率いる第一遊撃部隊の全力がブルネイを出航した事を知った時には、これを当面阻止すべき主戦力はレイテ付近にいた一個高速空母群と護衛空母群だけとなっていた。
 もちろん、すぐ後から補給作業を急いでいた任務部隊が応援に駆けつけ、昼頃には作戦展開できる筈だったが、日本艦隊の規模を考えるとこれだけでは阻止できる自信が持てなかった。
 このため、急ぎ旧式戦艦を中心とした戦艦部隊、つまり第七艦隊で最も有力な戦艦六隻を中核にしたオルデンドルフ少将率いる艦隊が、味方にとって有利な場所での水上打撃戦を意図して、急ぎ準備される事になった。
 現場のアメリカ軍艦隊司令部が「囮」であると考えた水上艦隊相手なら、これで十分な筈だった。
 だが、日本艦隊のたむろするブルネイ付近で偵察任務に就いていた潜水艦の情報から、日本艦隊には恐るべき新型戦艦、《大和型》戦艦が二〜三隻含まれている報告を受けた。このため、最もレイテに近かった空母任務群の護衛をしていた新鋭戦艦《ニュージャージ》が、オルデンドルフ提督の旧式戦艦部隊に臨時編入される。そしてハルゼー提督から、艦隊指揮官は最も残存性の高い艦へ旗艦を置くべしと要請されたので、旗艦も《ニュージャージ》に変更した。さらに補給のため下がっていた空母群を、敵空母ではなく戦艦部隊攻撃を優先する事になった。
 いっぽう、ハルゼー提督率いる高速空母部隊は、「囮」の戦艦部隊をある程度空襲で痛めつけた後、「主力」である日本本土から襲来する空母部隊と対決する姿勢を取って、この時の海戦を迎える。

 一月二十二日午前十時にブルネイを出撃した西村艦隊だったが、出撃したのは第一遊撃艦隊だけではなかった。その日の早朝、一足早く四隻の《松型》駆逐艦からなる駆逐隊が出撃して、戦闘海域に入る直前まで前路警戒のため活動していた。さらにこの時のために温存してもらっていた、海上護衛総司令部に属する対潜哨戒機部隊(九〇一空など)に前路掃海を行わせると、十八ノットの巡航速度でレイテ島目指して一直線の突進を開始する。
 対潜哨戒部隊は、進路上の浅い海面で多数の潜水艦を発見し、うち一隻を撃沈確実、二隻を撃破もしくは撃沈と報告した。このため安心したところを、重巡洋艦《愛宕》に魚雷四本命中、「信濃」に魚雷二本が命中するという大損害を受ける。
 これは、この海域で唯一潜伏に成功した米潜《Darter》による攻撃だったのだが、魚雷四本が命中した《愛宕》は救いようがなく、約30分後に沈没した。
 潜水艦による混乱と味方救援のため、約二時間の時間を消費した第一遊撃部隊だったが、小澤艦隊の移動に遅れることはできないと西村提督は前進を強く命令し、フィリピン中央部の狭隘な海域へとさらなる進撃を再開する。
 なお、この時魚雷二本を被雷した《信濃》は、持ち前の優れた防御能力のおかげで、三百トンの海水を飲み込むも最大速力が二ノット低下しただけで戦闘航行に支障はなかった。艦隊も何事も無かったかのようにそのまま進撃し、二十四日の夜明けにはアメリカ軍艦載機の攻撃圏内であるシブヤン海に到達していた。
 そして二十四日早朝、北方の小澤・山口機動部隊が索敵機を放った頃、フィリピン群島昼間部の狭隘な水域に突入した。対空輪形陣を敷いた第一遊撃部隊は、ハルゼー提督率いる空母機動部隊からかつてない苛烈な空襲を受けることとなる。
 しかしアメリカ軍にとっても、第一遊撃部隊は意外な存在だった。当初アメリカ軍は、この戦艦部隊が囮としての役割しか与えられていない弱敵と考えていた。しかし敵は戦艦七隻も有する大艦隊で、その対空防御力もマリアナ沖で体験したよりも強固なものとなっている事を空襲により突き止めたからだ。
 しかも中核となるのは、これまでの戦いで自分たちの新鋭戦艦を二度までも葬り去ってきた「モンスター」こと「YAMATO」クラス複数だった。オンデンドルフ提督の戦艦部隊にそのままぶつかられては突破される恐れも高く、マリアナがそうだったように、戦艦複数が迫ってくればこの作戦は根底から崩壊する事になる。故にハルゼー提督は、時間の許す限り「ノロマな戦艦の群のハンティング」を部下達に命令した。
 「ディナーの前のオードブルだ、必ず平らげてこい」と。

 二十四日十時二六分、アメリカ軍の第一次攻撃隊四十五機が、西村艦隊の上空へと現れるが、この攻撃は完全な失敗に終わった。
 台湾から無理矢理ルソン島南部に進出してきた航空隊が、約三十機ながら艦隊上空に戦闘機を送り込み、敵戦闘機はいないと考えていた米編隊の奇襲に成功したからだった。
 この時防空戦に当たったのは、三四三空に属する「戦闘三〇一」の《紫電》《紫電改》《零戦》など合計三十一機だ。対するアメリカ軍は、日本側戦闘機の存在を軽視していたため《F6F》戦闘機は十六機に過ぎなかった。日本側の最初の逆さ落としの迎撃によって戦闘機隊の大半が混乱に陥ってからは、「戦闘三〇一(新撰組)」の狩り場と化した。アメリカ軍の一部の攻撃機は隙をついて艦隊に攻撃を行ったが、少数の機体に多数の弾幕が集中した事から損害も大きく、《武蔵》に至近弾一を与えただけで失敗に終わる。
 だが、航続距離にやや難点のある局地戦闘機が主力を占める「戦闘三〇一」には、長時間の護衛は不可能だった。またほかの戦闘機隊の進出が遅れているため、その後西村艦隊は空からの攻撃に対して丸裸の状態となった。
 そしてそこに、第二波以降の米機動部隊の熾烈な攻撃が開始される。

 午前十二時六分、第二次攻撃隊六十八機が襲来。
 第二ラウンドの始まりだった。
 敵戦闘機の姿がなく落胆もしくは安堵する戦闘機隊だったが、攻撃機隊の方は前方を進む艦隊の中心で圧倒的存在感を示す《大和》《武蔵》《信濃》に攻撃を集中する。艦の幅が広い《大和型》戦艦は、空から見るとそれだけインパクトがあった。
 だが、無抵抗な水上艦艇を嬲る筈の米艦載機隊は、ここでも勝手が少し違った。
 日本艦隊の弾幕密度がそれまでより大きく上昇しており、特に新鋭艦特有の船体の輝きを見せている《信濃》の弾幕は濃密だった。戦艦四隻で構成された艦隊中心部にあって他艦にまで弾幕の網を投げかけており、さらにその両脇を他の倍以上の火力を叩きつけてくる巡洋艦が存在して大きな障害となっていた。
 特にアメリカ軍を悩ませたのは、各大型艦から発射される多連装式の対空ロケット砲だった。炎の網を投げかけるかのような攻撃により、一斉に射点についた雷撃機が多数撃破・撃墜されるという事件が多発した。また艦隊を構成する何隻かの艦艇は、多数の高角砲・機銃を装備した明らかに防空専門艦としての改装を受けて、それに邪魔された急降下爆撃の成績も芳しくなかった。そればかりか、高い防空能力を持つ艦をまず潰すべく艦載機が集中してしまい、アメリカ軍のドクトリンと言える、まんべんなく攻撃して敵全体の戦闘力を低下させるという状況にはならなかった。
 なお、攻撃が集中した艦艇は、アメリカ軍パイロットに邪魔と映った《信濃》《長門》《比叡》《鳥海》《摩耶》の五隻で、午後に入ってからの攻撃は、もっぱらこの五隻とパイロットに大きなインパクトを与える《大和型》戦艦に向けられる事になる。このため艦隊全体の損害は、最小限に抑えられた。

 米艦載機による空襲はその後第五次攻撃隊まで続けられるが、第三、第四次攻撃隊は大きな規模で送り出せなかったため結果はアメリカ軍側にとって芳しいものではなかった。大きな艦橋を持つ防空専門艦一隻(《摩耶》)を魚雷により脱落させ、《大和型》戦艦二隻に命中弾数発を得ていただけだった。
 これは、日本側の防空戦闘が成功している何よりの証拠であり、事前の回避運動に関する変更がうまく機能したからこその結果だった。《長門》などは、至近弾すら受けていなかった。
 このため戦艦一隻の撃沈を厳命するハルゼーの決意を見せるかのごとく、約一〇〇機の大攻撃隊が午後三時を回ろうとしていた頃に襲来する。また日没と翌日の日本機動部隊との対決を考えれば、これが今日西村艦隊に出しうる最後の攻撃隊でもあった。
 だが、朝の戦闘で戦闘機の傘をかけていた「戦闘三〇一」が、アメリカ軍機が襲来するのとほぼ時を同じくして、再び艦隊上空に舞い戻ってきていた。この時西村艦隊上空に展開した二十六機の戦闘機は、そのまま増速すると一斉に米編隊の護衛についていた《F6F》《F4U》戦闘機との空中戦に突入した。
 そして、日本軍戦闘機隊を自軍戦闘機隊が押し止めている間、約八十機の攻撃隊が主に第一群目指して攻撃を開始する。
 標的となったのは、すでに被弾して最高速力が少し落ちていた《信濃》《武蔵》だ。一部がその側にいる《大和》《長門》と一部の護衛艦艇に向かったが、攻撃隊の八割以上が艦隊の中心にいる先の二隻に対して集中するという異常な戦闘へと発展する。
 そしてこの戦闘では、攻撃を受けた日本側にとっても大きな試練だったが、艦隊中心部だけを狙ったアメリカ軍にとっても犠牲を強いる事になる。特に多連装ロケット砲の網の中に突っ込まねばならない雷撃隊の損害は大きなものとなった。このロケット砲は、雷撃を直接的に阻止するのは難しいが、的確に雷撃した機体はすぐ後に炎の網に捕らわれる覚悟が必要だったからだ。
 しかも、一部の日本軍戦闘機は米戦闘機隊を振り切ると、自軍の弾幕をものともせず輪形陣の中に入り込んでアメリカ軍機を追い回すなどした。このため、射点につけず魚雷や爆弾を投棄して待避する機体や、その逆に射点から外れる事のできない機体の多くが犠牲になっていた。なお、最も新しい防空システムを持っていた《信濃》は、この攻撃下において防空駆逐艦数隻分と言われる能力を発揮し、自艦、他艦の防空に活躍している。

 アメリカ軍の激しい攻撃は約二十分間続き、アメリカ軍編隊が去ろうとしていた午後三時三十分、西村提督は艦隊に一斉反転を命令した。
 この反転は、損傷艦艇の応急復帰のための時間を稼ぐ事と、海峡突破時刻の調整のためだった。だが、煙をあげ傾いた戦艦を抱えた日本艦隊の反転を後退と判断した米機動部隊は、本命の北の空母部隊への突撃を開始し、総数二九六機に及んだ長時間にわたる空襲はここに幕を閉じる。
 ちなみに、この海域での戦闘総決算は、アメリカ側が攻撃機の約25%、全体の約9%にあたる約七十機の艦載機を損失したのに対して、日本側は前日の潜水艦による損失を合わせると重巡三(《愛宕》《高雄》《摩耶》)、駆逐艦二の突入戦力を喪失した。うち重巡《愛宕》が完全損失だ。
 また、アメリカ軍編隊から集中攻撃を受けた各《大和型》戦艦だが、日本海軍としては破格の防空弾幕と適切な回避運動により、膨大な数の至近弾こそ出したが損害は最小限に止まっていた。前日に潜水艦の魚雷二本を受けていた《信濃》が直撃爆弾二発、《武蔵》は航空魚雷二本、爆弾直撃一発、《大和》は爆弾直撃一発という、襲来機数から考えれば少ない犠牲で切り抜けていた。《長門》や各《金剛型》戦艦に至っては、至近弾のみですべての攻撃を切り抜けていた。
 命中率で言えばせいぜい5%程度だ。
 そして、戦線離脱を余儀なくされた《摩耶》と護衛の駆逐艦に見送られながら午後五時十四分に再反転すると、艦隊主力は太平洋の玄関口となるサンベルナルジノ海峡へ突入。そこで念のため待機していた米戦艦部隊との、激しい夜間戦闘へと発展する。
 日本艦隊の海峡突破予定時刻は、二十五日午前零時だった。

 

 

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