■フェイズ十八「オペレーション・V1」(続き)

 この時アメリカ軍は、戦艦七、重巡四、軽巡四、駆逐艦十九、魚雷艇三十九隻という構成で、日本側の戦艦七、重巡九、軽巡二、駆逐艦十九と比較すると、数字の上ではほぼ互角の戦力と言えた。ただし波の荒い外洋を越えることが難しかった魚雷艇は、多くが戦場に間に合っていなかった。
 一方日本側は、損傷しているとは言え《大和型》戦艦三隻が含まれており、艦隊を構成する部隊のほとんどは水上戦闘においては日本海軍の最精鋭だった。対する米艦隊は、どちらかと言えば二線級の支援艦隊であり、陣形と技量的なアドバンテージ以外アメリカ軍には不利なファクターの方が多いと判断されている。
 そして、狭隘な海峡で今大戦最大級の艦隊決戦が、夜戦という形で発生した。

 先手を打ったのは日本側だった。
 弾着、照明弾投下任務の機体を含む多くの水上機を放ち、さらには海峡および出口付近一帯の広範な偵察を行ったのが戦闘の始まりとなったからだ。
 この時日本側は、自らの手元にある情報の少なさから、米主力艦隊の存在は予測というより予想の段階に過ぎなかった。そこで、とにかく海峡出口とその近辺に何がいるのかを確認するため、危険を冒して手持ちの水上観測機、水上偵察機、新鋭の水上爆撃機の多くを放ち、電探搭載機もあった事から水面をくまなく捜索した。そして一部は潜伏する潜水艦を警戒して低空を飛行しており、これがアメリカ軍が伏せて配置していた魚雷艇群を確認する。
 そしてここからは、日本軍水上機が照明弾を投下して、見つけた魚雷艇に機銃を撃ち込むという奇妙な夜間戦闘が各所で発生した。その後これを支援するため先行していた日本側の水雷戦隊や巡洋艦がさらに星弾(照明弾)を発射。その灯りにより、海峡の向こう側に展開する駆逐艦の存在も確認する。アメリカ側の待ち伏せは、完全に失敗だった。
 なお、この奇妙な戦闘で、一部の巡洋艦(第七、第八戦隊)に搭載されていた水上爆撃機《瑞雲》が持ち前の攻撃力の大きさを見せて活躍している。

 この時点で日本側は、第一群、第二群ごとに戦艦、巡洋艦の隊列と水雷戦隊の隊列に分かれて単縦陣を組んでおり、都合四つの隊列が順に狭い海峡に入ろうとしていた。その眼前には、海峡内側とその付近に伏在していた魚雷艇、海峡出口すぐに布陣する駆逐艦、海峡沖合から頭を押さえ込むように陣形を組んでいた巡洋艦、戦艦という幾重にもわたる鉄壁の布陣を引いた米艦隊が、日本艦隊を待ちかまえている状態になっていた。
 もっとも、海峡出口は艦橋から見たら手が届きそうだと言われるほど狭かった(最少狭隘部は五キロメートルほどしかない)。また、出口付近もV字状に広がってそれ程広い海面が確保できないため、アメリカ軍は海峡出口で十分なT字を描くことはできなかった。主力部隊は、海峡からやや外に位置して、海峡付近からの偵察報告をジリジリと待つことになる。
 そして、アメリカ軍の意図したよりも三十分近く早く艦隊は発見された上に、夜間を飛び回る非常識な日本軍機(※最後までアメリカ軍は詳細を掴めなかった)によって前衛の魚雷艇部隊は何もしないまま大混乱に陥りつつあった。しかも頻繁に打たれる無電、飛び交う照明弾によって自らの存在はすべて暴露されてしまい、予定より早く総攻撃の開始を命令しなくてはならなくなっていた。つまり、主力艦隊は完全に出遅れてしまったと言うことだ。
 なお、海峡の出口を押さえて圧倒的に優位な陣形をとった筈の米艦隊だったが、双方の位置関係から島影に隠れた形で狭い海峡を突破しつつある日本側の偶然の状況によって、遠距離から得意のレーダー射撃を行うには、接近するか日本艦隊が海峡から離れるのを待つしかなく、これも予想外の誤算となった。
 つまり砲撃戦は、日本側が海峡を飛び出してから開始されると言うことになる。
 そうした状況の中、アメリカ軍の砲火と日本側の水上機が間断なく落とす照明弾に導かれた日本艦隊の砲撃が開始された。
 時間にして二十四日の午後十一時四十五分の事だった。

 日本艦隊は、三隻ずつある《大和型》と《金剛型》戦艦が、それぞれ位置関係から一番前と一番後ろの敵戦艦を最初に狙う事になっており、《長門》だけ単艦で他の敵を相手取るという形で砲撃が開始される予定だった。
 戦艦同士による砲撃開始は、日本艦隊が海峡を突破し照明弾が多数煌めいた頃から開始されたため日米ほぼ同時で、距離二万五〇〇〇近い距離があったため最初の数度の砲撃は双方とも有効なものとはならなかった。そして砲撃開始から約五分経過したとき、アメリカ軍戦艦部隊の先頭を進んでいた《ニュージャージ》に合計二十七発、約四十トンもの鉄量が降り注いだ。
 《大和型》戦艦三隻による統制射撃の弾着の瞬間だった。
 この砲撃は、この戦闘が始まって彼女達にとって三度目の砲撃であり、日本最高峰の砲術の専門家がそれまでの修正を加え自信をもって送り出した砲弾であるだけに的確で、圧倒的な破壊力を遺憾なく発揮させた。それまでの実戦経験と、リンガでの激しい訓練の成果とも言えるだろう。
 しかも《ニュージャージ》にとって間が悪い事に、この砲撃を受ける三秒前に自らも四斉射目となる砲撃を送り出し、同艦の持つショック吸収機能は自らの砲撃時の爆圧を受け止めるので精一杯という時に、先端部を灼熱化させた約一・五トンもの鋼鉄のかたまりが二十七個も降り注いだ。
 この時命中したのは、三隻のうちどれかは全く不明だが三発だったのだけは確かだった。この海戦に生き残り肉眼でこれを見た多くの者が証言すると共に、アメリカ軍のレーダーも全く同じ科学現象をとらえている。
 そして三発の一四六〇kgの砲弾がもたらした膨大な運動エネルギーは、就役して一年少しの艦体の艦橋基部、第一煙突の直下、三番砲塔付近へと着弾した。距離二三〇〇〇メートルという夜間としては遠距離で降り注いだ砲弾は、彼女の分厚いはずの鎧を容易く貫くと、それぞれ体内奥深くでその破壊力を発揮した。さらには多数の至近弾によって船体が激しく叩かれて一部では浸水すら発生し、この至近弾の爆圧によって強引な進路変更すら強要された。
 『巨人の手が海中から掴みあげた』という表現は、この状況をうまく揶揄しているといえるだろう。
 この戦争において最も新しく、しかも最新装備で身を固めた《ニュージャージ》だったが、史上最大級の運動エネルギーの前にはアメリカの誇る科学技術も全く無力だった。指揮中枢を艦隊司令部ごと吹き飛ばされ、機関の半分が破壊され、三番砲塔が使用不能になっていた。しかし、この時三番砲塔が誘爆を起こして爆沈に至らなかったのは、アメリカ軍のダメージ・コントロール技術の高さを示している。
 そして、《ニュージャージ》の戦闘力・指揮能力喪失は、この戦闘を初期の段階で決定づける一手になった。

 被弾当時アメリカ側隊列の先頭を進んでいた《ニュージャージ》は、突然速力が落ちて砲撃・通信が沈黙したため、後ろを走っていた他艦が相次いで避けるため勝手に進路変更する事態となった。当然双方とも砲撃のためのデータを再調整しなくてはならなくなり、この間に日本側の《大和型》三隻は次の目標を探す際、大きく混乱している戦艦隊列よりも手近にあって隊列を組みつつ接近中だった巡洋艦群に砲撃を向ける。
 距離約一万五千前後で四分間、五斉射だけ集中射撃を実施し、それぞれ一隻ずつを爆沈に追いやる頃には、すべての艦艇が海峡を突破しつつあった。そしてこの段階で、日本艦隊の後ろを進んでいた《金剛型》三隻が統制射撃を開始し、いまだ混乱から完全に回復できていない米戦艦の隊列に日本側の戦艦七隻が集中射撃する形ができあがってしまう。
 しかも、頻繁に落とされる照明弾とそこら中で燃え盛る艦艇のため、レーダーがあろうが無かろうが狭い海域出口での戦闘に関係はなくなっていた。しかも当日の当海域は風も強かったため、一部の艦が展開を始めた煙幕もほとんど意味が無かった。
 この時、米戦艦の隊列と《大和型》、《長門》の隊列は、最短で距離一八〇〇〇まで接近しており、この五分ほどの砲撃は日本側の切り札である四十六センチ砲にとっては水平射撃に等しい射撃となった。近距離から飛来した四十六センチ砲弾は、米戦艦のバイタルパートをいとも簡単に、それこそパチンコでボール紙を打ち抜くように貫いていった。日本側に激しい砲火を浴びせていた筈の米戦艦群は、次々に不本意な沈黙を強いられた。日本側の最後尾を進んでいた《金剛型》三隻が完全に外洋に躍り出る頃には、アメリカ軍の戦艦すべてが火焔に包まれていた。
 弾薬庫に直撃を受けて爆沈したものや、ボイラー被弾による水蒸気爆発を起こしてそのまま大誘爆を起こした戦艦は、既に水面下に没しているか艦底をさらして転覆していた。不利な陣形のまま突破する側のワンサイドゲームという極めて珍しい戦闘結果が残される事になったのだ。
 このため、練度と運不運の差が勝敗を決したと言われることも多い。
 なお、日本側に戦艦損失や重大な損傷がないのは、アメリカ側が日本艦隊の先頭を二十四ノットの速度で突進してくる《大和型》戦艦三隻に集中射撃したからでもあった。アメリカ軍はかなりの数の命中弾を得るも、《大和型》戦艦の圧倒的防御力の前に、その多くが効果を発揮したかったという純粋にハードの問題に起因している。
 距離二万メートルで四十六センチ砲に耐える《大和型》の強固な鎧は、距離一万五千近くで打ち込まれた14インチ砲弾にすら見事耐えたのだった。
 また、アメリカ側の旧式戦艦に訓練度の低い乗員が多く配されていた事が、とっさの判断が必要な状況で暴露され、さらには短時間のダメージコントロールを失敗させたという一因も無視してはいけないだろう。ある意味彼らは、真珠湾での傷を引きずり続けていたのだ。

 いっぽう戦艦以外の戦いだが、戦闘開始当初でさえ数で劣勢な米巡洋艦部隊は、戦闘半ばの《大和型》戦艦三隻による不意の砲撃により戦力が半減したところに、二倍以上の戦力差となった日本側巡洋艦が突撃してきて、二隻が一隻の巡洋艦を集中攻撃するという状態になった。当日は月暦9・9で明るさは程々だったが、日本軍の照明弾と燃えさかる多数の艦艇のため、もはや夜の闇はほとんど関係なかった。
 当然と言うべきか戦艦部隊の隊列同様に戦列を崩壊させ、独自の判断で戦場を離脱した損傷艦を除いてすべて大破炎上するという凄惨な状況を見せていた。
 そして、初期の混乱から立ち直れないまま戦闘に突入した米水雷戦隊は、海峡出口での包囲攻撃を行うため、四つのグループに分かれていたのだが、これが自軍大型艦艇の不振によってかえって仇となった。日本側駆逐艦だけでなく、戦艦、巡洋艦からも各個撃破の形で激しい砲火を浴びせられ、混乱したところに日本海軍ご自慢の酸素魚雷が殺到し、半数が為す術もなく壊滅して残りも壊乱していた。なお、未確認情報が多いが、水上機の銃撃が魚雷に命中し爆沈した米駆逐艦もあったとされる。練度の低い艦隊が大規模な夜間戦闘をした事も、この時の戦闘に影響していたことは間違いないだろう。
 なお、最初に戦闘力を喪失した新鋭戦艦《ニュージャージ》は、駆逐艦群を撃破した日本軍巡洋艦戦隊(恐らく第八戦隊)が近距離から放った魚雷のうち五発が命中し、これが致命傷となって朝日を見る間もなく、就役から一年半で波間に没した。
 なお猛威を振るった《大和型》戦艦三隻は、合計で四隻の戦艦と三隻の重巡洋艦、一隻の駆逐艦を撃沈している。これは、同じ新鋭戦艦同士ながら、単純な個体戦闘力の差がもたらしさ結果だと言えるだろう。

 そして、二十五日すぐに第一遊撃部隊が海峡を突破して南下していた頃、唯一阻止できるハルゼーの高速空母部隊は、全く身動き出来ない状態だった。
 日本艦隊の戦力を過小評価したアメリカ軍は、日本側の正面からの空襲により大混乱に陥っていたからだ。
 二十四日未明から開始された日米最後の空母同士の戦いは、当初は距離が離れていた事もあって、お互いの姿を探す事に終始した。ハルゼー提督が西村艦隊を攻撃したのも、日本空母の姿が見えなかったからだ。だが日本側が先にアメリカ艦隊を見付け、昼前に温存していた稼働機の過半である三二四機を叩きつけた、小沢・山口の両提督による攻撃によって一気にボルテージはあがった。
 四つの群に分かれた二波にわたる攻撃隊は、一番北に位置して日本側空母部隊を待ちかまえていたTF38の第三群に殺到。他の空母群からの増援を含め、二〇〇機以上展開されていた防空隊を強引に突破した攻撃機が米空母を襲った。そして自爆機二機を含む十発近い命中弾によって第三群を構成していた三隻すべてのエセックス級大型空母は被弾・損傷し、うち《ランドルフ》は自らの腹の中にあった準備中の艦載機と燃料、弾薬のため誘爆を引き起こして艦載機の過半を失う。一時は全艦が炎に包まれ、数百名の戦死者を出すほどの大損害を受けた。
 だがこれは、一種の飽和攻撃となったからこその成功だった。未熟な搭乗員が過半だった事を考えれば、日本側搭乗員の健闘は特筆に値するだろう。もっとも、日本側攻撃隊の七割はこの戦闘の間に米戦闘機に追い回されて失われ、さらに艦載機の一部はルソン島に向かったため、艦隊に戻ってこれた機体はたったの六十機程度に過ぎなかった。
 いっぽう突然殴りかかられたような形の米機動部隊だが、この時損失した米空母は皆無だった。だが、戦闘で損傷した三隻のうち、その後運用できたのが応急修理が成功した空母は《サラトガ二世》一隻のみで、第三群所属空母の格納庫にあった二〇〇機以上の艦載機は戦力価値を大きく減少させていた。これに怒り狂ったハルゼー提督は、麾下全戦力を日本空母部隊に指向させる。
 しかしこの日は、互いに距離が離れており、日本側の攻撃も午後を大きく回った時点だった事、米機動部隊が日本軍戦艦部隊を攻撃していた事から、アメリカ軍の復讐は翌日へと持ち越された。
 そしてこの小沢艦隊の攻撃は、ハルゼー提督が西村艦隊に最後の大規模な航空攻撃を送り出した後に行われたもので、これ以後の西村艦隊への攻撃がなかったのは、すでにそれどころでなかったと言う理由が大きい。
 北上を続けた米機動部隊は、三群すべてが「主力」である日本側空母機動艦隊を追いかけた。二十五日黎明から積極的な索敵を開始し、早くも午前七時には二〇〇機以上の大編隊で日本側空母部隊への攻撃を開始する。
 ハルゼー機動部隊が焦ったような行動に出たのは、この日の夜明け前にオンデンドルフの艦隊が一旦は反転後退した筈の西村艦隊に大敗を喫し、その西村艦隊の所在がその後不明となっていたからだ。どうしても午前中に日本空母部隊を撃滅しなければ、米侵攻船団全体はもちろんだが、自らの空母部隊すら挟み撃ちになるのではという恐怖があったのだ。
 だが、この時小沢・山口両提督に残されていた機体は戦闘機一一六機、他四三機に過ぎなかった。これに対してアメリカ側はいまだ四七七機という大戦力を有しており、のべ三五〇機が三波に分かれて日本艦隊の頭上に襲来した。一方では、半壊した第三群から集成した水上打撃艦隊を編成してレイテ島方面に派遣して、西村艦隊撃滅に向ける姿勢を見せていた。後世一般的に言われているほど、ハルゼー提督が小沢艦隊にかかりっきりだったワケではない。単に日本艦隊の戦力を過小評価しすぎ、身動きが取れなくなっていただけなのだ。
 だが、現代においては、日本軍機動部隊がもたらした災厄がハルゼー艦隊をすべて北方に集めさせる事になったと言う意見が一般的で、日本側の戦略的勝利と判断している。
 そしてそれを象徴するような血の饗宴が、この日の黎明からレイテ近辺で開始される。

 二十五日午前六時三十八分、第一遊撃部隊が偵察に出していた水上偵察機により、付近を遊弋していた米護衛空母群クリフトン・AF・スプレイグ少将指揮)を発見した。そして発見されたスプレイグ少将からの、悲鳴とも言える無電が全天を覆い尽くした時、ハルゼー提督の高速空母部隊は夜間の北進によって全く戦場に間に合わない場所に位置していた。しかも、いまだ健在な日本軍空母部隊による圧力が存在していたため、今の戦場を離れることもできなかった。慌てて水上艦隊だけを北進させたからと言っても、世界最強の艦隊は戦略的には「独活の大木」として世界中の笑いぐさとなる汚名を被ることになった。
 『全世界は知らんと欲す』という有名な電文が、そのすべてを物語っているだろう。
 なお、日米空母部隊同士のその後の戦闘だが、アメリカ側は着艦時を含め約八十機の損失、《ベロー・ウッド》の損害と引き替えに、空母《天城》《龍鳳》《千代田》、軽巡一隻、駆逐艦二隻を大破もしくは撃沈し(その後すべての大破した艦は友軍により処分)、真珠湾以来の仇敵だった空母《赤城》《飛龍》も大きく損傷させて、日本海軍の空母部隊に実質的な引導を渡している。だが、艦隊旗艦となった空母《瑞鶴》他数隻の空母は、大きく損傷する事もなく健在なままで、その後も米空母部隊に圧力を加え続けて西村艦隊を間接的に支援し、この海戦以後もアメリカ軍に強い疑心暗鬼をもたらすようになる。しかも小沢、山口両提督は、艦隊内の戦艦など有力艦を抽出して前進させ、ハルゼー艦隊へのさらなる圧力をかけている。

 いっぽう、敵主力艦隊に続いて恨み昔年の空母部隊すら目視で捕捉した西村艦隊は、司令部から一般将兵にいたるまでお祭り騒ぎと表現してよい興奮ぶりだった。旗艦《武蔵》に座乗する西村提督からの命令が発せられると、その興奮は最高潮に達した。
『全艦隊ハ最大戦速ニテ敵ヲ速ヤカニ撃滅セヨ』
 この命令は、レイテ突入までの時間を少しでも短縮し、弾薬消費も抑えたいという司令部の意向を最大限に反映したものだった。だが、この場合は猟犬を獲物にけしかけるに等しい命令となった。速度に勝る巡洋艦、駆逐艦は戦隊ごとに隊列を組むのももどかしげに、規定を無視した文字通り最大速度で敵艦隊への肉薄を開始した。付近の偵察のため敵艦隊上空に数機舞っていた観測機や偵察機は、敵空母の詳細(低速の軽空母(=護衛空母)であること)を艦隊司令部に伝えると共に一部が艦載機発進の行動をとろうとすると豆鉄砲のような搭載機関銃で妨害した。挙げ句に巡洋艦の一部は残っていた水上爆撃機すら発進させ、フロート付きの水上機が空母を空襲すると言う、信じられないほど勇敢な行為が各所で見られる事になる。
 これは、一方向に向かって突き進んでしまいがちな日本人の性格が強く出た戦闘と言えるだろう。
 ただし、戦艦部隊は少し例外だった。これは、偵察機の報告から、敵勢力が当初正規空母と巡洋艦を含んだ高速空母部隊ではなく、小型空母と駆逐艦の支援艦隊と分かったため、戦艦の持つ主砲弾(九一式徹甲弾)では威力がありすぎるとして砲弾の交換が行われる。そしてこの時、第一戦隊司令部からの意見具申で対空用にも使用される三式弾が最も有効と判断したたのだが、ずんぐりした砲弾であるだけに射程は短く、砲弾交換で時間と取られたうえに距離二万五〇〇〇メートルまでは射撃を控えねばならなかった。
 しかも《金剛型》戦艦三隻は、いまだ無傷に近いため三〇ノットの快速で接近できたからよかったものの、度重なる損傷により二十二ノットにまで速力が低下していた《武蔵》《信濃》を抱える第一戦隊は接近に手間取っていた。第一戦隊が主砲の射程圏内に目標を捉えたとき、すでに護衛艦はけなげにも護衛空母を守ろうとしたため袋叩きの形で一隻残らず殲滅されていた。空母のうち二隻は、沈没は時間の問題の火だるま状態で、残り四隻が鉄屑に分解されつつも絶妙のコースを取って待避している状況だった。そしてその残り四隻に対しても他の戦隊が競うように襲撃運動を繰り返しており、大きく外洋寄りに包囲運動を続けていた第七、第八戦隊(重巡六隻)は、偵察機の情報によってさらに別の空母群を発見して、これに襲いかかっている有様だった。
 そして七時十三分、ついに第一戦隊すべてがそれぞれの目標に向けていきなり斉射を放ち、ノロノロと逃げまどう米護衛空母に総量五十トン近い砲弾を叩きつけた。
 そしてその殆どがきれいに敵艦を囲むように、ちょうど海水面上約三十〜五十メートル付近で次々に爆発して、巨大な花火のように中身の物を飛散させると、その中心部に位置する空母を文字通り焼き払ってしまう。
 その後語りぐさとなった、第一戦隊全艦初弾命中、全艦撃破の瞬間だった。

 この砲撃により、原型となった貨物船と同程度の装甲(とすら呼べない外板)しかない護衛空母は、四方八方から飛び込んでくる焼夷弾や可燃性の高い物質、金属片に全身を貫かれた。そして艦内のありとあらゆるものに引火し、直後に搭載弾薬とガソリン、ボイラーが大爆発を起こして爆沈。全艦生存者皆無という、壮絶な最後を遂げる。
 そして、近在にある空母すべての撃滅を確認した司令部は、ただちに集合と突撃隊形への陣形変更を指令し、午前八時四十一分レイテ湾に向けての最後の進撃を開始する。
 なお、第七、第八戦隊(の偵察機)が発見した別の護衛空母群は、両戦隊の統制砲撃により護衛空母一隻(《セント・ロー》)と駆逐艦二隻を撃沈するに止まり、戦後の研究でどうすべきだったのかという議論を呼ぶことになる。
 また早朝から、フィリピン一帯で生き残っていた第二航空艦隊の各部隊が、各所で小規模な五月雨式の空襲を開始していた。これは第七、第八戦隊が取り逃がした形になった護衛空母群を含む残り二群の護衛空母群の行動を束縛した。このため西村艦隊は、護衛空母艦載機からの空襲をほとんど受けることが無かった。
 さらにレイテ湾を攻撃した一部の航空隊により偵察情報がもたらされ、アメリカ軍の行動が阻害されるなど、通常なら対処可能なレベルの妨害に過ぎない小さな積み重なりだった。だが、敵の大艦隊が上陸地点に殴り込んでくるという状況では、すべてが致命的とも言える相乗効果を発揮していた。
 そしてついに、すべての防衛線を突破した史上最強の戦艦に率いられた艦隊は、レイテ湾へとさしかかった。
 「殴り込み」と野蛮な言い方をされる、聯合艦隊の突入成功の瞬間だった。

 これに対して、レイテ湾口で最後の抵抗を試みようとしていたのは、第七艦隊司令長官キンケイド提督率いる火力支援艦隊だった。本来なら上陸作戦時の近接艦砲射撃と船団護衛を行うのが任務で、さらに損傷艦も出ている事からCG1隻、CL2隻 、 DD13隻が出しうる水上打撃艦艇のすべてだった。だが、これすら散発的な空襲により一部が拘束され、他はまともな対艦用火砲を持たない護衛駆逐艦、高速輸送船に改装された旧式駆逐艦、ロケット砲を全身に背負った中型揚陸艦を改造した火力支援艦やアンテナの化け物のような指揮艦が、支援艦隊の後方を個々について来ているだけだった。それ以外の船は、何とか突然地獄と化そうとしている場所から逃れようともがいていた。
 彼らは大天使としてフィリピンを解放しに来た筈が、実はサタン率いる悪魔の大軍団に蹂躙される者達と同列だった事をこの時思い知らされたのだ。
 なおこの時レイテ湾には、二個軍団十二万人もの陸兵が押し寄せていた。湾内には四十隻以上の大型輸送船が碇を降ろし、多数の兵士を含む様々な荷物を抱えたまま揚陸の順番を待っている状態で、七〇〇隻と言われた大船団の中核もいまだ在泊していた。しかも膨大な物資と共に丸々一個師団(第二十四師団)は船の中で、他の部隊の多くも海岸部にさらけ出されているという有様だった。しかも船団は混乱によって統制は乱れ、友軍船同士の衝突騒動すら起きる有様で、当然一つしかない湾の入口からの効果的な脱出など出来る筈もなく、まさに蹂躙してくださいと言わんばかりの状態だった。
 そして最後の盾となった、アメリカ側の巡洋艦を中心とする小規模な支援艦隊は、回避するのも難しい海面で巡洋艦が戦艦、駆逐艦が巡洋艦、火砲を積んだだけの支援艦が駆逐艦の砲撃を受けるという、屠殺と表現できる状態の戦闘を挑む。しかしその抵抗も、僅かに煙幕を展開する事で任務を遂行しようとするのが実質的な限界だった。
 西村提督は、角田提督率いる第二部隊に西側から包囲するように指示を出すと、自らは第一部隊を率いてそのまま突撃し、戦力差のあまり逃走を開始した一部の米艦艇を追いかけるようにレイテ湾奥地へと進む。そしてついに午前十一時二十分、すべての防衛線を突破した西村艦隊は、眼前に広がる大船団を前に最後の電文をすべての通信帯に向けて発信した。
『天佑マサニ我等ノ手ニ有リ、全艦突撃セヨ』

 その後のレイテ湾は、日本艦隊による一方的な虐殺の場だった。
 弾薬やガソリンを満載した船が一発の命中弾によって周囲を巻き込む大爆発や大火災を起こした。兵隊を満載したまま火焔をあげる輸送船からは、何とか脱出しようとする陸軍兵士が燃えながらポロポロと海面に落ちた。そのすぐ側を、駆逐艦が全身から火砲を放ちながら高速で通過し、海面に血と肉片の赤黒い帯を作り出した。上陸できれば日本軍を苦しめたであろう戦車を満載した特殊な揚陸艦(LST)などは、船団内部にまで突っ込んできた《武蔵》の艦首に引き裂かれてそのまま海に没するなど、まさに通常の戦闘では考えられない地獄を生み出していた。
 また、海上での殺戮に飽きた戦艦部隊は、残敵の掃討を中小の艦艇に任せると、自らの腹の中にまだ半分以上残る砲弾を、大量の物資と逃げまどう兵隊でひしめき合う海岸とその近辺のジャングルめがけて叩きつけた。 
 このため地獄は地上にまで広がった。日本軍を蹂躙する筈だったアメリカン・ボーイズは、海の悪魔の軍団長たるリヴァイアサンに食い尽くされる生け贄に任務を転属させていくだけの存在に成り下がっていた。
 そして戦艦七隻、斉射あたりの総量六十トンを越える艦砲射撃は壮絶の一言に尽き、二〇〇〇トン以上の砲弾によって海岸もジャングルも例外なくすべてのものを吹き飛ばしていった。

 このような破滅的な攻撃のため、アメリカ軍の戦死者数は日本艦隊の攻撃開始からたった三時間の間に数万人の単位に達した。この攻撃は核兵器を用いる以外で行われた、戦闘部隊に対する攻撃としては史上最悪のものと言われた。血に酔った第一遊撃部隊が去った時残されたのは、生者より死者の数の方が多いという敗軍の群でしかなかった。
 だから、この時もし日本側がレイテ島に十分な地上兵力を配置していたら、残りのアメリカ軍すべてがタクロバンの町に待避していたマッカーサー将軍ともども撃滅されるか、そうでなくても集団投降せざるをえなくなったのは確実と言われた。これが後に強く悔やまれたほどの日本側の一方的な勝利と言われたほどだ。
 なお、三時間にも及ぶ一方的な砲撃を行った西村艦隊は、殺戮に飽きたかのように隊列を整えると、いまだ激しく燃え盛るレイテ湾を後にスリガオ海峡方面を経由して、支援艦艇の待つブルネイへの遁走を開始した。
 翌日に行われた米陸軍航空隊(B24が主力)による攻撃も、フィリピン・ルソン島に進出していた三四三空などの献身的努力もあって被害を最小限に止めた。それ以外のアメリカ側航空機は、第二航空艦隊の五月雨式空襲の前に追撃どころではなかった。先に引き返した艦艇も含めると、出撃時の七割近い艦艇が出発点のブルネイへと無事帰投した(先に引き返したのは、全体の約一割にあたる四隻)。
 これは、「殴り込み」や「艦隊特攻」とすら言われ、潜水艦襲撃、空母艦載機の空襲、艦隊決戦、空母との遭遇戦、船団攻撃、艦砲射撃、基地機襲来という考え得るすべての水上戦闘をこなしての帰投という事実を考えると、非常に高い生還率と考えるべきだろう。
 なお、米太平洋艦隊総司令部からの電文により、無理矢理小澤艦隊から反転したハルゼー艦隊だったが、結局、戦艦四隻を抱えてプレッシャーをかけ続ける小澤艦隊を完全に無視する事ができなかった。そこでの時間ロスもあって、反転時既に帰路に就いていた西村艦隊の捕捉は適わず、『ブルズ・ラン』として米海軍史上最悪の戦例にされ、現代にまで語り継がれる事になったのは有名だろう。もちろんハルゼー提督以下、第38任務部隊の幕僚の過半がここで前線を離れることになり、第七艦隊の文字通りの全滅もあって、アメリカ軍の人材枯渇は司令部の面で深刻な影響を与える事になる。

 そして第七艦隊と共に侵攻船団の主力を失ったアメリカは、新たな攻略船団を仕立てない限りレイテに築いた橋頭堡以外にフィリピン侵攻は不可能となった。しかも侵攻した艦隊も半壊しており、制空権の獲得も完全では無くなっていた。
 このため、先に上陸して難を逃れたマッカーサー将軍は、十月二十七日、ちょうどレイテを蹂躙した日本軍艦隊がブルネイへ帰還した日、全軍のレイテ島からの退却を命令し、ここにレイテ島沖海戦は終幕を迎える。
 なお、マッカーサー将軍がレイテからの全面撤退を指示したのは、フィリピン全域にはルソン島を中心に四十万人を越える日本陸軍の精鋭部隊が犇めいており、これを相手にするには今手元にある敗残兵五万の兵力と、後方で即時待機するもう五万の第二波兵力では全く足りず、しかも上陸支援部隊を欠く状態では苦戦は避けられなかったからでもあった。また、これ以上の損害を許容できないアメリカ政府中央の強い意向により、海軍の体制が再構築されるまで無用な損害を避けるという極秘命令を受けたためと言われている。
 なお、この一連の戦闘での総決算だが、レイテからアメリカ軍が去り、日本艦隊が一端ブルネイに帰還し、そこから無事内地などに帰りついた状況を加味すれば以下のようになる。

日本側
 沈没(総量:約十三万トン)
空母:《天城》《龍鳳》《千代田》
重巡:四隻 軽巡:二隻 駆逐艦:八隻
 損傷(大破)
空母:《飛龍》
戦艦:《信濃》(ただし、戦闘航行可能)
重巡:二隻 駆逐艦:二隻
 損傷(中・小破)
空母:《赤城》《隼鷹》《千歳》
戦艦:《大和》《武蔵》《長門》
   《金剛》《比叡》《榛名》
重巡:八隻 軽巡:二隻 駆逐艦:十一隻
航空機損失(陸上機含む):五七〇機

人的損害(戦死・行方不明)
 :約一・四万人(陸軍含む)

アメリカ側(数が多すぎるため、固有名詞は割愛)
 沈没(総量:約八五万トン)
戦艦:七隻
護衛空母:八隻
重巡:四隻 軽巡:五隻 駆逐艦:二十五隻
揚陸艦艇、輸送船、その他:約四十万トン
 損傷(大・中破)(小破は多すぎるため除外)
大型空母:三隻 軽空母:一隻 護衛空母:二隻
重巡:一隻 軽巡:一隻 駆逐艦:四隻
航空機損失(陸上機含む):五五〇機
遺棄・消失物資:全体の約八〇%

人的損害(戦死・行方不明)
 海軍:約三万五〇〇〇人
 陸軍:約八万五〇〇〇人
 総数:約十二万人
 負傷者(重度患者のみ):約三万人

 損害だけを見れば、数字の上では間違いなく日本軍の大勝利だ。敵に与えた損害量だけを見るなら、歴史上空前の勝利と言っても過言ではない。そしてこれが、たった二日間の間に発生した損害だと言うことを思えば、目眩すら感じるほどの規模だ。もしこれが一九四二年夏までの出来事だったら、戦争の帰趨を決しただろう。
 だがこの時点でアメリカ軍の軍事力と生産力は、損害を十分回復できる能力を持っていた。対する日本側は、上記されたすべての艦艇を短期間で修理する能力は既に存在せず、これは事実上の聯合艦隊壊滅だった。また空母から発着できるパイロットの枯渇は、二度とこのような大規模作戦ができない事を物語っていた。
 だが、作戦当初から『聯合艦隊をすり潰してでも、海上交通確保のため米侵攻部隊を撃滅する』と了解して作戦決行されたのだから、米攻略船団と差し違えたと思えば、十分戦略目的は達成されたと考えるべきだろう。
 ただし、やはり問題なのは海上での大規模機動戦ができないという事で、これ以後日本は防戦以外できる能力を無くし、いよいよ徹底抗戦か降伏を考えなくなったとも解釈できる。

 そして考えられる限り最悪の損害を受けたアメリカ軍だが、総トン数八十万トンを越える多数の艦船の損失や数百機の航空機の損害(台湾沖から数えると七〇〇機に達する)はもとより、死者、行方不明者、捕虜の総数が十万人以上に達するという未曾有の大損害は、主に内政レベルで到底許容できるものではなかった。また侵攻艦隊そのものの損害も甚大であり、以後半年は大規模渡洋侵攻作戦は不可能と判断された。
 また、マリアナ沖海戦以降からの度重なる損害を合わせると、今後渡洋侵攻作戦に使用できる機動戦力をあまりにも消耗したため、この点からも今後半年は大規模な作戦実施が事実上不可能になり、対日侵攻スケジュールが根底から揺らぐこととなった。
 日本、いや日本海軍実戦部隊たる聯合艦隊は、文字通り肉を切らせて骨を絶つ戦闘を、この戦いにおいて行ったのだ。
 これは、戦史上極めて稀な戦例と言えるだろう。

 

 

■解説もしくは補修授業「其の拾八」 

■フェイズ十九「デスペレート・フロント」