■フェイズ二〇「ストラテジー・ウォー」

●日本本土空襲

 一九四四(昭和一九)年十二月七日、三重県沖を震源地とした大地震が発生した。この地震は「東南海地震」と呼称され、マグニチュード 八・〇で、関東大震災のマグニチュード 七・九を超 える大地震だった。
 地震による被害地は、静岡・愛知・三重の東海三県をはじめ、長野・山梨・岐阜 ・和歌山・大阪・兵庫などの各府県にまで及び、地震後に発生した津波による被害も大きく、一二二三人の死者・行方不明者など大きな被害が出た。だが、戦時中のため情報が公開される事はなく、多くの悲劇を生む事になる。
 そしてこの当時の日本にとって特に大きなダメージだったのは、当時濃尾平野一帯は三菱を中心とする航空産業のメッカであり、航空機生産に重大な支障をきたした事と、海軍の造兵廠も濃尾平野に存在した事だった。
 これは、本大戦における決戦兵器と言って間違いない航空機の供給面で、致命的とも言えるダメージとなった。地震以後三菱製の機体を多く使用していた海軍航空隊の活躍が減少し、新型機の登場がひどく遅れた事からもよく分かるだろう。海軍は、自然の脅威によって翼を奪われたのだ。
 そしてそれより少し前、政府・軍など日本のすべての組織が恐れていた事態が遂に訪れていた。
 一九四四年六月十五日、連合国軍のサイパン上陸に合わせ、支那大陸の成都から六十三機(出発時は七五機)のB29が北九州八幡を空襲したのだ。

 「戦略爆撃」
 連合国がドイツに対して猛威を振るっている非人道だが効果的な戦法であり、今までは距離という最大の防壁が弧状列島をこの攻撃から守ってくれていた。だが、アメリカの圧倒的国力と新兵器が、この城壁すら乗り越えることに成功した。
 この時編隊を構成していたのは、《ボーイングB29 スーパーフォートレス》と呼ばれる総重量約五十トンの超大型戦略爆撃機だった。当時最新鋭の技術を用いたため、高い基礎工業力を誇りシステマティックな事を得意とするアメリカ軍が運用しても、兵器としての稼働率は初期の時点で極めて低いなど技術的問題も多かった。だが、革新的な性能のため戦域が非常に広く、進撃の遅れている太平洋戦線に、製造された過半の機体が送り込まれる事になっていた。これは、同機が長大な航続距離と大きな爆弾積載量、そして類い希なる高々度飛行性能を誇っていたためだ。
 搭載弾薬六トンで行動半径が三〇〇〇キロ近い事は、当時としては脅威以上の事象だった。

 なお、この時九州に飛来したB29の編隊は、本土空襲を予想して構築された日本側防空網に見事に捕らえられた。そして支那大陸での初期迎撃こそ失敗したが、事前に情報を得た北九州地区から《屠龍》《三式戦》などが大挙迎撃し、爆撃後も支那各地で迎撃を受けた事から、日本側は撃墜七機、撃破三機を報告した(アメリカ軍の報告もほぼ同様)。
 しかもアメリカ軍の練度不足もあって、まともに爆撃成功した《B29》はほぼ皆無であり、迎撃は完全に成功したと評価してよかった。帰投中に墜落もしくは不時着した機体も出た。
 しかし日本側は、この時の迎撃は失敗だと考えた。公平に判定すれば、この時の日本側防空隊は実力以上の能力を発揮したと言えるのだが、米新型機の能力を侮っていたと言えるのかもしれない。
 当然、来襲した機種が問題になり、その後墜落した機体の調査でこの機種不明機がかねてから噂されていた新型爆撃機「XB29」と判明し、憂慮されていた新型爆撃機による本土空襲が現実のものになった事を日本人達に教えた。
 本土爆撃に対して日本側も、《B29》基地を攻撃するために急遽臨時の《九九式爆撃機》装備部隊などを、支那戦線奥地の策源地である成都に投入した。だが現地の配備機数が少なく、かろうじて数機が少量の爆弾を落としただけで被害をあたえるまでには至らず、また繰り返し攻撃を続ける余裕もなかった。
 いっぽう支那大陸では、陸路南方との交通路開設と、両シナ海の交通線を狙う航空基地そのものを破壊も狙った、「打通作戦」とも呼ばれる大規模な地上作戦が発起された。
 本作戦は、日本軍の電撃戦と中華民国軍のあまりにも不甲斐ない対応によって大成功を納めるも、B29の拠点はさらに奥地だったため爆撃を止めるには至らなかった。しかし副次的効果として、日本軍の攻撃にまともに応戦しない中華民国軍(正確には国民党軍)にアメリカが愛想を尽かし、台湾侵攻を中止しただけでなく、戦後の国際政治を揺り動かしたことを思えば、大いなる皮肉を感じる事件と言えるだろう。ある意味アメリカ軍の戦略爆撃が、歴史を動かしてしまったのだ。

 そして爆撃を受けて後の日本は、《B29》の迎撃に心血を注ぐようになる。いや、日本人なりに狂奔したと言ってもよいだろう。
 だが、肝心の防空戦闘機が、数、能力共に足りなかった。それでも陸軍は《二式単戦(鍾馗)》《二式複戦(屠龍)》《三式戦(五式戦(飛燕))》《四式戦闘機(疾風)》など多数の機材、機数を持っていた。しかし海軍は、損害の回復を図りつつマリアナ諸島やフィリピンを固めるのに懸命で、《月光》《雷電》など一部の戦闘機を当面の脅威がある北九州方面に送り込むのが精一杯だった。
 そしてどちらにしても高度一万メートルでの戦闘は、運よく好位置についた機による一撃のみの攻撃しかできなかった。「体当たりしても落とせ」と命令されても、体当たりすらままならいのが日本の実状だった。これは日本側の戦果の大半が、一部のベテランパイロットによるものと言う点からも明らかだろう。当時の日本にとって高度一万メートルは、神の領域だったのだ。
 いっぽう地上の対空火器は、陸軍は主力の「八八式高射砲」(有効射高=約七〇〇〇メートル)と、新型の「九九式高射砲」(有効射高=約八〇〇〇メートル)、「三式十二センチ高射砲」(有効射高=約一万一〇〇〇メートル)を有していた。だが、高射砲の絶対数が不足していたため、取りあえずありったけの高性能砲を北九州への進撃予測路に配備した。その他の地域には、生産が簡単な一番旧式の八八式高射砲を大量に増産して員数を合わせした。しかし高々度から飛来する《B29》に有効な三式十二センチ高射砲は、この当時日本中探しても数門しかなく、新開発されつつあるという十五センチ高射砲など、いまだ影も形もなかった。このため海軍の新型砲が、若干数陸上基地用として艦艇用のものから転用された。一〇〇ミリメートル口径の艦艇用の高射砲に付いていた半自動装填装置など、量産の妨げとなるものを取り外した簡易型として配備された。これらは、三式よりややマシという程度の配備数ながら同地域の守護神として活躍し、アメリカ軍からも恐れられるようになる。八幡製鉄所と大村航空廠に対する小規模爆撃が減少したのはこのためだ。
 その後しばらくアメリカ軍は、爆撃の精度を上げるために高度六〇〇〇〜八〇〇〇メートル位から爆撃が行われる事が多くなり、高々度が苦手な日本側の戦闘機・高射砲でも十分迎撃が可能となった。このため、常に飛来機数の一割前後に損害を与え、少なくとも昼間中高度では十分以上な防空戦が展開された。電探など新型装備に劣る夜間戦闘機も、北九州地区上空で奮闘を重ねた。
 なおこの頃アメリカ軍が主に狙った日本本土近辺の目標は、航続距離の関係から北九州の八幡製鉄所、海軍の大村航空廠や台湾の各基地だった。それ以外では日本軍占領下の支那地域、満州の各都市が無差別爆撃された。さらに、象徴的な意味合いから十二月七〜八日にかけて、爆弾搭載量を減らしてその分燃料を増加させた各一個編隊が呉と廣島を空襲したが、この事はむしろ例外的だった。爆撃自体も、無理な作戦だったためほとんど失敗した。
 一九四五年三月にパラオのペリリュー島に中規模の専用基地が設営されるまで、北九州・台湾での限られた地域で防空戦が続けられる事になる。

 なお、支那奥地の成都を拠点とする連合国の爆撃は、有り余る物量を持つアメリカ軍を以てしても艱難辛苦の連続だった。ユーラシア大陸奥地に、一機あたり二十三トンの物資を必要とする怪鳥を多数出撃させるには膨大なコストがかかった。しかも海上補給路の終点となるインド東部のカルカッタは、一九四四年に入っても近隣のチッタゴンが日本の勢力圏にあるため、安全とは言い切れなかった。その上ベンガル湾には、日本海軍が跳梁していて小規模な船団では不用意に航行できなかった。
 何とか無事にカルカッタに到着しても、そこから空輸先の成都の間には世界最高峰のヒマラヤ山脈が横たわっていた。けっきょくアメリカ軍は、この距離と自然の前に大きな作戦行動に出る事はできなかった。一機あたりの出撃回数は、一ヶ月あたり二回がやっとだった。大規模爆撃(約五十機・投下爆撃量三〇〇トン)など、月一回も行うことができず、しかも損害は出撃するたびに約一割が日本近辺で撃墜するか撃破によって墜落した。さらに帰投するまでに一割程度が撃破され、とてもではないが人命の面からもコストが合うものではなかった。
 だが、一九四五年春に入ると、にわかに状況に変化が訪れる。

 爆撃照準機の性能向上がその一つだったが、最も大きい変化は、比較的大規模な飛行場が建設可能なパラオ諸島のペリリュー島が、四五年二月一日ちょうどに陥落した事だ。一月半ばあたりからは米軍のシービーズ(工兵隊、設営隊)が大挙押し寄せて地面の造成を開始し、三月初旬には重爆撃機用の飛行場として機能開始したからだ。
 しかし、島の形状から埋め立てなどの無理をしても八〇〇〇フィート(二四〇〇メートル)の重滑走路(大型の《B29》にはこれぐらいの規模が最低必要)を一本設けるのが限界だった。フィリピンからの日本側の攻撃に備えて設置されたシェルター付きの駐機スペースも、島の平地の規模からどれほど努力しても五〇機分程度しかなかった。燃料や爆弾の備蓄場所にも事欠いた。
 しかも近在のパラオ本島はいまだ日本軍の手にあり、そこには一万人近い日本兵が半地下の洞窟陣地に籠もっていると見られた。時折ペリリュー島に奇襲攻撃部隊や偵察隊が上陸すらしているため、安全とは言い切れなかった。実際、飛行場や機体の破壊工作も行われた。ミンダナオ島などからは、航空機による夜間爆撃や奇襲攻撃、そして航空偵察が断続的に続き、ペリリュー島の動きも筒抜けという有様だった。
 また、距離的に日本本土を爆撃できるギリギリの航続距離(高度3000メートル飛行・爆弾5・4トン搭載。成層圏飛行の場合は積載量約2トンが限界)では、九州、四国地域の爆撃が精一杯だった。中高度(高度3000メートル)を飛び積載量を大幅に減らして(約2トン)ようやく関東一円が射程圏内であった。しかもどの場合でも、偵察任務以外で成層圏に駆け上って関東に到達することは難しかった。このため日本本土上空にあるジェット気流は、長らく謎の自然現象とされていた。
 加えて、ペリリュー島から日本本土の間に適当な中継ポイントは、関東地方を爆撃するとした場合のみ日本軍機が大量に展開する硫黄島ぐらいな上に、ランドマークが殆どなくてナビゲーションが難しかった。しかも途中で損傷や故障をしても不時着する基地は設置できず、格段に補給のための兵站・輸送コストが下がるからと言って、手放しに喜べる新拠点ではなかった。
 そう、《B29》はとは革新的な性能を持つだけに、非常に高価な機体であり、パイロット共々損害を無視できなかったからだ。これは成都を拠点とした半年間の無茶な戦いで、約七十機の機体と約五〇〇名の熟練したクルーが失われた事によってなおさら安易な作戦はできなくなっていた。
 なお、四五年三月十日に政治的に意味合いによって行われた本大戦二度目の東京空襲は、アメリカ軍のルメー少将が提唱した夜間低高度無差別爆撃が実験的な意味も込めて選択された。だが、ペリリュー島からの爆撃は数回の偵察以外始めてであり、無事に目的地である東京上空に到達できたのは、出撃機数の五分の一の一個編隊十二機に過ぎなかった。当然と言うべきか日本側の激しい迎撃(主に高射砲によるもの)に合い、不用意に少ない機数で敵の心臓部に押し入ったため損害も大きかった(ナビゲーションを誤った機体が、主に燃料切れで多数失われた)。
 それでいて偵察不十分だった事もあり、物理的に大きな効果がなかった。敵首都に与えた損害は、爆撃量七十トン、一般居住区の一部が焼夷弾による大火災で焼失し、死傷者数千人を出すという惨事を引き起こした程度だ。被害程度は、投入された戦力とマンパワーに比べて貧弱で、現状での戦略的価値は皆無とすら判定された。
 この爆撃を教訓としたアメリカ軍は、その後しばらくは既に偵察の済んでいる九州地区を中心に、一個大隊程度の爆撃を何度か行いデータ収集に努めた。だが、やはり数が少ないので編隊の防御砲火の密度が低くなり、反対に既に北九州地区に集中している日本側の反撃密度は大きくなるので損害が大きかった。損害レベルでは、大陸奥地から爆撃するのと何ら変わりない状況に追い込まれたのだ。特にランドマークのない長距離海上飛行、特に帰路で失われる機体が多く、パイロットの士気低下すら起こすほどだった。しかも、救難用の潜水艦を多数配備せねばならず、通商破壊の効率を大きく引き落としていた。
 このため、ペリリュー基地からの大規模爆撃開始から一月半近く経過した四月半ば、総司令部より以後十分な偵察と訓練を兼ねたような高々度昼間爆撃をする以外、ストロング・ポイントへの飛行・爆撃は禁止すると言う命令が出る事態に陥っていた。爆撃ポイントとして例外だったのは、航空機関連工場に対してのみだった。

 いっぽう日本側は、3月に再び首都が爆撃されたと事に大きなショックを受けた。このため、いまだ保持されているフィリピン方面から、約六十機の攻撃機を使用してペリリュー基地を強襲した。そして多数の機体の破壊に成功するも攻撃隊も壊滅し、以後日本側は夜襲や単機による空襲、さらには潜水艦を用いた砲撃、パラオに篭もる部隊で挺身隊を編成して奇襲攻撃をするなど行って破壊活動もしくは妨害に務める。
 もっとも、同地域を奪回する力もなければ、長期的に基地機能を奪うほど決定的な損害を与える事はできず、反対に自らの戦力消耗を招いていた。
 だがこの攻撃は、アメリカ軍にとっても厄介だった。ペリリュー島の防空のため戦闘機の駐留を余儀なくされ、尚更《B29》の配備数を減らさざるを得なかった。そして安全な基地が確保できるまで、大規模な日本本土爆撃は不可能と判断せざるをえなくなっていく。
 そしてこれらのファクターにより、せっかく東京を射程圏内におさめたにも関わらず、その後ペリリュー島とその後方の西部ニューギニア各地の基地にたむろする多数の《B29》の活動は低調なまま推移した。後方のいくつかの基地に多数の部隊を展開して、ローテーションを組んで日本各地の航空機工場を中規模の編隊で高々度爆撃を行うか、それ以外の日本の拠点を爆撃するか、そうでなければ日本本土近海などに機雷をばらまくという、ある種贅沢な使い方をされるのが主任務となっていた。
 アメリカ軍の力を持ってしても、島の面積という物理的な限界からペリリュー基地からでは数百機単位による効果的な都市無差別爆撃は不可能だったのだ。

 そして、一九四五年に入るとB29の量産体制が整って前線にも多数の機体が配備されるようになり、当初真っ青になるほどだった稼働率も前線においてすら50%を越えるようになっていたのだが、肝心の日本本土を有効射程圏におさめる巨大航空基地が存在しないことは重大な問題だった。さらにできうるなら、《B29》の緊急不時着拠点と護衛戦闘機のための基地確保が急務だった。これらすべての条件を満たすのが、爆撃拠点としてのサイパン島、テニアン島、グァム島であり、中継ポイントの硫黄島だった(台湾、沖縄は、侵攻するにはまだ危険が大きすぎると判断されていた。)。
 そしてここに再度マリアナ諸島へ侵攻する作戦が発起されると共に、夏までに硫黄島をも占領する厳命が連合国総司令部から下されるに至った。
 このため、フィリピンでの失敗以後、戦力の回復まで太平洋方面での大規模な侵攻作戦は行わないという方針は覆され、ギリギリの調整の結果一九四五年六月二十五日を以て第二次サイパン島攻略を開始し、さらに日本軍の抵抗度合いを見つつ、七月半ばに硫黄島攻略作戦が発動される事となった。
 作戦名称は「オペレーション・アイスバーグ」。この作戦には、太平洋に存在するすべての連合国戦力が充当されることが決まる。

 

●日本の飢餓(一九四四年〜四五年)

 日本は、マリアナ、レイテでの大規模な戦術的勝利を、一時的な戦略的勝利にまで結びつけた。だが、強大な連合国の前衛戦力を撃破し、一時的に歩みを遅らせたからと言って、連合国が締め付けを強めている通商破壊がその程度で長期的に緩くなる筈もなかった。
 日本軍はトーナメント戦には勝てたのだが、リーグ戦では完全な劣勢だったのだ。
 しかも実質的な国力差は、既に三十対一以上。これだけ基礎体力(国力)に差が開いてしまうと、少々戦場で勝利を重ねようとも時間稼ぎが関の山だった。開戦以来常に大規模な海上戦闘で勝利を重ねてきた連合艦隊にとって、この三年あまりの戦いは、まるで賽の河原で水子の霊が石積みをしては鬼に崩されているのに似た思いだったと言われている。
 始める前から分かり切っていた事ではあったが、最初から限界を越えた戦いだったのだ。
 だが連合国はカイロ宣言以降「無条件降伏」などという、それまでの国際常識を無視した文明国にあるまじき戦争目的を掲げている以上、民族存亡を避けるためにも安易な屈服など許される筈もなかった。日本は、目の前の岩にぶち当たる波のような戦いを続けざるを得なくなっていたのだ。
 しかし、一九四五年一月のフィリピンでの戦いで勝利した頃、僅かな希望もまだいくつか存在していた。
 一つは、当然ではあるがマリアナ、レイテでの勝利でアメリカ軍の進撃を半年は阻止したであろうと言うこと。二つめは、四四年暮れにドイツが西部戦線で勝利し、四五年に入ってもソ連軍は自らの国土を奪回しきっていないということ。三つめは、総力戦研究所の予想に反して、いまだ南方との通商路が辛うじて保持されているという事だった。
 このため、まだ戦争継続が可能で、日本に有利な講和の可能性は残されていると考えられた。そして次の決戦を最後のターニングポイントと設定しての、戦争継続と講和双方に対する努力が強く行われるようになる。

 レイテでの大敗で混乱に陥ったアメリカ軍を後目に、聯合艦隊の過半の残存艦艇まで投入して、海上護衛総司令部の総力を挙げた輸送船運航作戦が四五年一月末から実施された。
 大勝利の後で気が大きいだけに、聯合艦隊も大盤振る舞いだった。陸軍も、フィリピン決戦のため集めていた輸送船の多くを資源輸送に振り向けた。
 そして一連の輸送作戦では、本土に無事たどり着いた約六十隻のタンカーによって五十五万トンもの各種石油精製物が本土に運び込まれたのを始め、多数の戦略資源(鉄鉱石、ボーキサイト、生ゴム、錫、ジルコン、砂糖、米、硫黄、各種レアメタルなど)が南方よりもたらされ。これら百数十万トンの物資は、この時の日本にとって何よりもありがたい慈雨となった。
 そしてアメリカ軍の混乱を後目に、連合艦隊所属の残存大型艦艇すら動員した大規模な輸送作戦が、一九四五年六月まで何度も実施された。時には大型空母や戦艦すら投入して、連合国軍の執拗な襲撃をはね除けつつ輸送作戦は継続された。もはや、形振り構っている場合ではなかったのだ。
 だがこれは、実に日本海軍らしくない「戦い」だった。

 そもそも聯合艦隊、いや日本海軍に本来の意味での「海上護衛」と言う要素はなかった。これは近代海洋国家としては、もはや異常と言って間違いない状況だった。
 だが、日本海軍において海上護衛専門の部隊が組織されたのは開戦後しばらくしてからだった。重要性が指摘されるようになったのが、ミッドウェー、ポートモレスビー占領後の本格的占領時に発生した補給作戦においてだった。
 なお、二カ所の戦略拠点への補給は、好対照を示した。積極的作戦展開のため、大艦隊を用いて補給作戦を積極的におこなったポートモレスビーは、危険度がより高いにも関わらず、むしろ危険であるが故に大艦隊が護衛についたため大きな問題もなく補給が行われた。だが、小さな島の維持だとして軽んじて考えられていた節のあるミッドウェーは、太平洋最大の戦略拠点ハワイに近いという事もあり、毎回のように大きな試練に立たされていた。
 独航、小規模な護送船団、高速軍用艦艇、潜水艦、輸送機・飛行艇、これらのうち成功するのは、初期の何度かの補給を除けば潜水艦か航空機を用いた場合だけと言ってよかった。遠路はるばるハワイから飛来する重爆撃機と、水中に多数潜伏する潜水艦群は、定期的にミッドウェー近海の偵察と攻撃を行い、ミッドウェーを日本軍の拠点として機能させない事に腐心していた。水上艦隊もハワイとミッドウェーの中間海域に展開している事もあった。
 このため占領からわずか半年の間に、輸送作戦だけで十隻以上の高速優秀船舶、三隻の駆逐艦、一隻の軽巡洋艦、一隻の潜水艦を失っていた。
 特に深刻だったのは高速優秀船舶の損失だった。ここで失われた約八万トンの優秀商船は、日本軍の前線での海上輸送そのものを揺るがす損失だった。しかも、翌四三年二月に同方面での局地攻勢を計画した聯合艦隊の肝いりで行われた大規模な輸送作戦も大失敗に終わった。
 六隻の輸送船を六隻の精鋭駆逐艦で編成した護送船団は、たどり着くまでは潜水艦に、ミッドウェー島に取りつく前後には一〇〇機以上の大型機の爆撃を受け、島の近辺に敷設された磁気機雷によってトドメをさされて輸送船は全滅した。さらに、護衛の駆逐艦三隻の損失という致命的なダメージを受けた事で作戦そのものも中止され、海軍全体を揺るがす事態となった。これを「海軍M事件」という。
 この影響により「い号」作戦が持ち上がり、一九四三年四月に『海上護衛総司令部』が計画を前倒しして設立された。そして今までのような小規模ではなく、膨大な数の護衛艦艇の建造にも着手した。
 もっともそれまで組織、運用方法などの研究が一切なく、艦艇も当面は旧式艦で数も限られ、兵員も二線級という組織では到底質量共に勝る連合国軍に対抗できる筈もなかった。加えて、海軍の実働部隊である聯合艦隊は、海上護衛に対して基本的に無理解で、敵との決戦以外ほとんど何も考えていなかった。
 これは四三年暮れ頃から連合国側の攻撃が熾烈になると深刻化し、日本側の態勢が整い始めた事とマリアナでの勝利によるアメリカ軍の混乱で四四年中頃の損害は低下した。そして再び連合国側が押し始めた四四年暮れから破滅的に損害が増大し、レイテ戦直前の艦載機の襲撃、レイテ戦後の大輸送作戦、連合国重爆による日本本土への機雷投下という大きな流れで推移した。
 一九四五年の夏を迎えようとしている頃、日本の持つ船舶保有量は、懸命の建造と護衛にも関わらず、日本国の生存に最低限必要とされる三〇〇万トンに限りなく近づきつつあった。

 話を戻すが、レイテでの戦いの混乱が落ち着くと、アメリカ軍の活動が後方で再び活発化した。通信や暗号などから、アメリカ軍の大規模な攻勢が近いと判断した大本営の方針により、聯合艦隊に属する多くの艦艇の輸送路からの引き上げが決まる。
 それまでに、驚くべき事に四五年に入ってからの四ヶ月間で、四四年の総量を上回る石油など南方資源の輸送に成功するという、護衛を預かる人などはレイテでの勝利より偉大な成功だと広言するほどの結果を残す。
 なお、アメリカ軍の圧力が再びマリアナ方面に向けられた事もあって、一九四五年夏を迎えようとしている頃、いまだに南方からの強行輸送作戦は継続されていた。一九四四年暮れからようやく数が揃いだした護衛艦艇を総動員して編成した、より規模の大きなコンボイも、船舶損失率六〇%という損害を出しながらも日本列島への輸血を続けていた。対潜航空隊の活躍もあって、少なくとも一九四五年内の正面決戦と一九四六年夏までの国家の存続は可能だとするレポートを総力戦研究所に書かせる成果を残している。
 だが、この一連の作戦により、レイテの戦いを生き残った大型駆逐艦の三分の一が失われ、商船改装の護衛空母も過半が失われるなど犠牲は小さくなく、このままではじり貧なのは明らかだった。
 しかも一九四五年五月初旬にスプルアンス提督の大機動部隊が、再び台湾、フィリピン近海を荒らし回った折り、各地の港湾にあった輸送船が大量に撃破・撃沈され、航空隊も大きな損害を出していた。また、ちょうど南方からの帰路にあった護送船団が、丸々一つ失われるという悲劇に代表されるように、支那大陸奥地からの大型爆撃機による空襲も頻繁になった。さらには四五年六月中頃から始まった、連合国の東部インドネシア地域やフィリピン南部・ミンダナオ島侵攻によって、同年八月頃には同地域から南方航路に対しての空襲が恒常化。ついに南方との通商路は途絶の危機に立たされる事になる。

 なお、海軍の主要艦艇を使用した強行輸送作戦は四五年七月二日にシンガポールを発った高速船団が最後となった。志摩支隊、松田支隊とされたそれぞれ旧式戦艦二隻を中心とする、それまで空母を護衛していた艦隊の主要艦艇が、空母部隊の壊滅によりその任務を解かれ南方警備となり、本土帰投に際してこの強行輸送任務に投入されたものだ。今までは商船を護衛するのが任務だったのだが、すでに一般商船の速度での突破は非常に難しいと判断されたため、高速艦艇と一部優秀高速商船のみで突破船団を編成した。艦艇の中には、一部修理が放置されたままの空母《隼鷹》など、物資輸送能力の高い高速艦艇が数隻含まれており、かなりの量の物資を持ち帰ってきたりもして、わずかに日本人の溜飲を下げさせた。
 また、アメリカ軍による西日本地域での機雷投下と潜水艦による無制限通商破壊作戦のため、日本最後の生命線である満州とのつながりも四五年夏には危機的状況に陥りつつあった(機雷散布により、日本各地の港湾が次々に機能停止に追いやられつつあった)。比較的安全な日本海を利用して辛うじて維持されている満州航路が閉ざされた時点で、日本国内の食料・燃料不足は決定的となり、飢餓による国家崩壊が待っているという事態になると見らていた。
 そしてそれは、パラオ諸島を策源地としたアメリカ軍の重爆撃機が西日本・東海道地域一帯に機雷投下を開始する事で急速に悪化しつつあった。

 だが日本では、政府首脳を始めとして軍、官僚などの多くは、いまだ可能な限り有利な停戦条件でなくてはならないとして、英米との即時停戦には消極的だった。日本唯一の国際条約である中立条約を結んでいるソ連を介した停戦仲介や、中立国やローマ法王庁への橋渡し依頼などしていたが、対日参戦を狙っているソ連は言を左右にするばかりで要領を得なかった。その他の工作も、大きく進展するにはほど遠く、空しく時間だけが過ぎていく事になる。

 

 

■解説もしくは補修授業「其の弐拾」 

■フェイズ二一「ラストバトル」