■フェイズ二三「ファイナル・カウントダウン」

 

●硫黄島攻防戦

 全島を強固な地下要塞と化したちっぽけな島、『硫黄島』。この戦争で一躍有名となる島での攻防戦が開始されたのは、サイパン島での血みどろのリターンマッチが再開されてからしばらくたった、一九四五年八月五日の事だった。
 アメリカ軍の上陸当初の本来なら激しく行われるはずの水際攻撃がまったくなく、アメリカ海兵隊は拍子抜けした面持ちで上陸し、この島の陥落は楽観できそうな気配が漂っていた。しかしライフルマン達がいざ飛行場めざして内陸に進撃を開始すると、全島が一斉に火を噴き出したかのごとく、日本兵が彼等に銃火を浴びせかけた。
 「硫黄島攻防戦」の実質的な開幕だ。

 硫黄島は最大長約八キロメートル、総面積二〇平方キロメートルと言う小さな島ながら、飛行場設営に適した平坦な場所が多かった。しかも、日本本土(東京)から約一二〇〇キロメートル、マリアナ諸島から約一〇〇〇キロメートルという非常に都合の良い位置に存在した。しかも近在に、飛行場足りうる島は存在しなかった。このため開戦から四四年に入るまで、日本海軍の航空隊移動の際の絶好の中継地点として機能していた。
 だが戦場が西部太平洋や日本本土近くにくると、にわかに両軍の注目を集め、守る側になる日本軍の手によって強固な地下要塞へと変化を強要されていった。

 この島の守備隊長は、栗林忠道中将。貴下の兵力は戦時編制で老年兵を中心にした増強一個師団(第一〇九師団)。これに加えて、少し遅れてやって来た太田少将麾下の海軍陸戦隊の増強一個連隊規模など合計二万五〇〇〇人であった。
 要するに「寄せ集め」である。
 一方で、この島には小笠原兵団として栗林中将に預けられた兵力の過半が集中されており、将軍がいかにこの島の戦略的重要性を見抜いていたかを示す好例と言えるだろう。小笠原諸島を含めた近在に、飛行場足りうる場所は硫黄島しか存在しないので、米軍は来ないと判断していたからだ。
 また将軍は、今までの様々な島での攻防戦を研究し、アメリカ軍の強力な火力を防ぐには水際防御や撃滅ではなく、洞窟陣地による長期持久しかないと判断して全島をほぼ人力だけでくりぬき、強固な地下要塞と化してこの戦いに挑む。
 栗林中将は、日米の戦力差が安易な反撃を許さないレベルにまで開いていることに早くから気が付いていたのだ。
 そして大本営の方でも、この島をマリアナ諸島防衛、引いては本土防衛の要と見方を変えていた。このため、マリアナでの最初の戦いが終わった頃より、出来うる限りの資材と兵力をこの島に送り届けていた。
 その象徴が島内三箇所設置された航空基地と航空機のための様々な防御施設、兵器の存在だった。この事から大本営側は、航空要塞としての価値をこの島に見いだしていた事が分かる。わざわざなけなしの土木機械すら持ち込んで、熱心に飛行場を建設し、高射砲なども多数設置していた程だ。
 そして、この硫黄島航空要塞構想を打ち出したのが、当時海軍の軍令部総長だった山本五十六だ。既に生ける伝説と化している彼の言葉に押されるまま、陸海双方の兵力がこの小さな島に注ぎ込まれたという背景がある。人が戦争を変えてしまうという言う好例だろう。そして山本総長の方針は一部効果を発揮し、第二次マリアナ攻防戦の半ばまで硫黄島は航空要塞として機能した。

 だが、栗林中将は、アメリカ軍の本格的攻勢がこの小さな島を襲えば航空要塞などという構想は意味をなさないと考えていた。だからこそ、さまざまな防御手段の構築を進めると同時に、そのための兵器・物資の要請を大本営に送り続けていた。
 栗林中将の現地到着は、一九四四年六月だった。島の改造とも言える陣地構築開始は、サイパンからアメリカ軍が駆逐された頃に始まったわけだが、他の地域の日本軍守備隊の奮闘と連合艦隊の活躍によって、陣地構築が取りあえず完了した四五年二月になっても、硫黄島は航空要塞として維持されたままだった。
 本土から快速輸送船で二日足らずという地の利とアメリカ軍側の混乱もあって、物資の輸送も比較的順調だった。懸案とされていた硫黄島を南北に貫く地下道も、一部をコンクリートで補強するだけでなく戦車すら通過できる規模で七月には掘削された。各主要陣地にも、結果的にほぼ要求どおりのコンクリートが届けられたため防御能力も増していった。
 また、半分は沈む予定で運んでいた物資や兵器のかなりが、この時期アメリカ軍を何度か襲った混乱のさなか送り届けられた。このため、結局硫黄島には三万人近い守備兵力(市村少将麾下の航空隊関係者三〇〇〇名含む)が、多数の兵器・物資と共にため込まれた。そして将軍と守備兵にとって幸運だったことは、本土からの増援として強力な重砲部隊(とその砲弾)と戦車部隊を得た事で、これらの兵器はより頑強な抵抗を可能とした。

 いっぽう、この島を七月に攻める予定だった連合国軍だが、日本軍ほど順調ではなかった。進攻部隊総指揮官ホーランド・M・スミス中将のもと、第三、第四、第五海兵師団合計七万五〇〇〇人の兵力を用意して、兵力・物資共に準備万端と言いたいところだったのだが、他の作戦の遅延と損害で、しばらく待機先のマーシャル諸島で空しく時を過ごすことになる。
 第二次マリアナ侵攻作戦での陸と海での戦闘の結果、一ヶ月以内に陥落させろと厳命されていたサイパン島は、陥落どころか未だ島の真ん中あたりで一メートルの土地を争う一進一退の攻防戦が続けられていた。そして強固な地下要塞陣地を前に、日々アメリカ軍兵士の屍の山が積み重ねられている状態だった。しかも、何としてもここを陥落させねばならないアメリカ軍は、太平洋にあるチップ(兵力)をすべてサイパン島に注ぎ込む勢いで増援を続けていた。
 このため、七月十八日に二個師団の増援を受け、この部隊を主力とした死山血河の攻防戦の末にようやくサイパン最大の飛行場アスリートがアメリカ軍の手に落ちた。さらにその翌日の七月二十六日には、遅れていたテニアン作戦が開始される。この一連の作戦だけで十万人近くの兵力がこの二つの小さな島に投入された事になる。当初サイパン島に十万人以上いた日本軍も、戦闘可能な人数は六割近くにまで減少して、島の北半分に構築された要塞地帯に追い込まれてしまう。
 そうした状況のなかテニアン島攻略が開始されたのだが、ここでも日本陸軍創設当時の師団である第六師団を中心にした三万人以上の精鋭部隊が、入念に建設された陣地の中で守備についていた。日本国内でも強兵の一つと言われた兵士で固められた精鋭師団は、重装備と強固な陣地に寄った激しい抵抗を見せた。このためアメリカ軍は、上陸当初に陽動と奇襲上陸に成功したにも関わらず、予想以上の出血を強いられていた。おかげでがっぷり四つに組んでしまった同島攻略にも、一ヶ月以上かかるとスケジュール修正された。
 そして、すべての戦争スケジュールがさらに三ヶ月以上遅延するのではと考えられていた。
 すでに二つのちっぽけな島には約二十四万人の兵士が投入され、さらに七万もの増援が決定された。そしてその逆に、七万人が既に天空の彼方かステイツに去っていた事を思えば、実に妥当な判断と言えるだろう。
 マリアナ諸島は、アメリカ軍のベルタン要塞となっていたのだ。
 そしてアメリカ軍上層部にとって、マリアナ諸島での現実は全く認めたくない事だった。
 何があろうとも八月半ばまでに日本の首都東京を《B29》の有効航続距離内におさめる島の一つを占領せよと、さらなる大統領命令が発せられた。この命令の結果、サイパン全島制圧を待たずしての飛行場建設と、東京での制空権確保のため必要な硫黄島を攻略作戦の発動につながる。
 そして七月二十六日に、日本側の精鋭空挺部隊(義烈部隊)を中心にした大規模破壊工作によって、サイパン最大の飛行場としての整備が終わろうとしていたアスリート飛行場が、既に大規模な進出が始まっていた《B29》多数の破壊を含めた大きな打撃を受けた事で、硫黄島攻略のスケジュールはさらに一週間前倒しされる事になった。
 硫黄島占領のために必要と認められた時間は、わずかに一週間。小さな島一つを占領すると思えば、これでも長すぎるぐらいだったのだが、これまでの日本軍の抵抗を思えば、この程度の時間は必要だろうと大統領側も妥協したのだ。だが、その代わりと言いたげにただちに、作戦を発動させるようにも迫った。
 そして第二次サイパン戦以後、相次ぐ損害により目減りし続ける連合国軍太平洋艦隊全力が護衛する中、三個海兵師団を運んだ大船団が硫黄島近海に姿を現した。
 時に一九四五年八月五日の事だった。

 「デタッチメント」作戦。アメリカ軍の正式名称はこう呼ばれるが、戦争のその後の流れから戦後「ファイナル・カウントダウン」と呼ばれる事が多い。通常「D-day +1」とカウントされるところもプラスのところをマイナス表示して、数字も「10」から逆に日数を減らしていく表記が多く用いられるようになる。
 アメリカ軍の侵攻開始一日目は、支援にあたるアメリカ海軍にとって大きな苦難となった。
 日本本土より多数飛来した「カミカゼ」の大編隊が、アメリカ艦隊を襲撃したからだ。
 襲来したのはのべ二五〇機程度にものぼるが、本土近辺でこれだけの数しか出せないという事は、この頃の日本の航空戦力が枯渇し始めている事を如実に伝える数でしかない。しかし、短時間に攻撃が集中した事とアメリカ軍がいまだ有効な対策が組み上げられない事から、護衛空母三隻が撃沈、正規空母二隻、護衛空母一隻が撃破されるなど甚大な被害が発生した。これにより、六月から始まった第二次サイパン戦前哨戦以後二ヶ月間の損害累計は、正規空母六隻、護衛空母十隻の撃沈もしくは戦線脱落という、基地機からの攻撃だけの損害と考えると、俄に信じられない数字を示していた。「オペレーション・アイスバーグ」当初二〇〇〇機あった艦載機数も、プラットホームの不足から一一〇〇機程度にまで目減りしていた。日本側が今少し戦力を残していたら、アメリカ軍はもう一度これらの地域から撤退しなくてはならないだろうと言う戦史家も多い。
 これは取りも直さず、日本側の飽和攻撃がもたらした効果であり、一般的に信じられているように人間が乗ったまま最初から意図的に体当たりしてくるという攻撃方法の迎撃の難しさを伝えるものではなかった。いかなる攻撃方法だろうとも、ある程度組織だった飽和攻撃こそが、この時の戦果をもたらしたと言えるだろう。
 もちろん、「カミカゼ」がもたらした心理的効果の高さを無視するものではない。「カミカゼ」こそが、その後のアメリカ軍の防空兵器の著しい発達を即す心理面での最大要因となったほどだから、迎撃が難しいのも事実だったと判断できるだろう。
 また、海兵隊の頼みの戦艦による艦砲射撃も、極めて限られていた。六月末のサイパン沖での夜戦で、日本のモンスター三隻にいいように撃破された二つの水上打撃艦隊に属した十一隻の戦艦は、旧式戦艦四隻が辛うじて任務についているだけだった。ライミー(英海軍)は自分の空母が可愛くて新型戦艦を手元から放さず、なけなしの旧式戦艦すら苦戦の続くマリアナ諸島支援に早期に戻らねばならないとされ、八月六日夕刻には硫黄島を離れる事になっていた。
 そうした状態の中、護衛空母に陣取る海兵隊の航空隊が懸命のエアカバーを投げかける中、大東亜戦争最後の大規模強襲上陸が開始される。

 午前九時に硫黄島の海岸に上陸した第三、第四海兵師団は、当初全く迎撃を受けなかった。それまでの島で出会った強固に設置された水際陣地すらほとんど見あたらなかった。それどころか日本兵の姿すら見えない状態に、現地アメリカ軍司令部でも軍上層部の予想通りマリアナなどの防御に力を取られた日本軍の盲点を突いたのではと、楽観論がかわされるほどだった。
 なお、攻撃を受けるまでに歩兵八個大隊、戦車一個大隊が上陸完了して、橋頭堡も十分以上に確保されていたのだから、少しぐらい楽観論が出ても仕方ないだろう。
 だが、第三波の上陸が終わった午前十時四十分頃、危惧を抱いていた司令官スミス将軍の予感は的中した。それまでの楽観論がすべて間違いだった事を、アメリカ軍はその身をもって思い知る事になる。硫黄島全山が火を噴いたかのように、砲火を自分たちに浴びせかけてきたからだ。
 この時の日本軍の砲火は、徹底を極めていた。慌てて近接支援に乗り出した海軍の巡洋艦や駆逐艦に対しても、海軍が持ち込んだ二十センチ砲や十四センチ砲が、擂鉢山の強固なトーチカから火蓋を切って多数の損害を与えるばかりか、適切な支援を妨害する徹底ぶりだった。
 また、サイパン島で思い知った以上の火砲が米海兵隊に降り注いだため、上陸したアメリカ軍は橋頭堡からの前進どころか、吹きさらしの中でボロ切れのように吹き飛ばされるのがその任務になってしまった。この日の攻撃でマリアナ諸島に去る予定だった旧式戦艦部隊が猛烈な艦砲射撃を加えても、日本側の火力は衰えを見せたとは思えなかった。山の形が見た目にも変形するほどとなった擂鉢山からも正確な弾着観測が続けられたほどだ。
 業を煮やした海兵隊は、先に上陸された戦車約一五〇両や水陸両用車両(LVT)などあるだけの装甲車両を先頭に押し立てて狂信的とも言える勇敢さで進撃しようとしたのだが、これも裏目となった。日本軍が巧妙に設置した半地下陣地式の隠匿型トーチカから降り注ぐ十字砲火の前に、おびただしい損害を積み重ねる事となった。
 この日だけで、持ち込んだ戦車の三分の一、LVTは半数以上が破壊されてしまった事からも、日本軍の攻撃の激しさが伺い知れるだろう。
 アメリカ軍の損害を発生させたのは、栗林兵団が大量の火砲を有していた事と、同島に高射砲として大量配備されたものの過半を臨時の対戦車砲として再配置した事に起因していた。適切な砲弾でなくても初速の大きな大口径砲弾の威力は凄まじかった。またアメリカ軍が当初重視した擂鉢山には、海軍陸戦隊が守備隊の半数を占めていた。彼らが持ち込んだ旧式の艦載砲は、小さいものでも八センチ、大きなものだと二十センチもあった。しかも敵艦を撃破する砲弾が大半と言うことは、その砲弾は相手の装甲を貫くための適切な砲弾が多くを占めてと言うことなので、これが地上を走る戦車に向けられればどうなるかは言うまでもないだろう。
 そして日本側の激しい砲火のため橋頭堡から殆ど前進できなかった海兵隊二個師団は、狭い橋頭堡に沿って懸命にタコ壺(簡易塹壕)を掘った。バンザイ・アタックへ最低限対処するためだ。だが、夜になっても、日本軍が襲ってくる事はなかった。まるで欧州での戦場のように、夜は戦わないという不文律がこの小さな島では常態となるルールが戦闘開始初日に日本側から示された。
 ただしたった一日での海兵隊の戦死者は一〇〇〇名を越えており、後送された負傷者を合計すると当日上陸した総員約三一〇〇〇名に対して15%の損害を示していた。
 当然これはこれは、アメリカ軍にとって予想外の展開だった。しかも他の島以上の火力密度で隠密陣地から銃砲撃を受け、いつのまにか火力包囲を受けて動きがとれなくなっていたため、当初予定していた第一次目標線にはほど遠く、進撃は遅々として進まなかった。
 このように、日本軍の射撃は峻烈を極めたが、アメリカ軍の砲爆撃はさらに上回っていた。
 上陸二日目、この日予定を一日延長して硫黄島近海に止まった戦艦部隊は、砲身内筒のすべてが摩耗するまで砲撃を続けた。空母部隊も、のべ五〇〇機が低空まで降りてきて銃爆撃を繰り返して、日本軍の陣地の有無など関係なく島全体の形が文字通り変形するまで攻撃を続けた。
 だが日本軍は、戦闘開始二日目に入ってもほとんど人的損害を受けていなかった。砲台陣地こそ半数近くが破壊されたが、砲撃の間陣地深く待避していた砲自体はまだ三分の二ほどが無事だったため、陣地転換などで復活していた。人的損害は、二日間で兵団全体で二%程度に過ぎなかった。兵団将兵全員が一年以上をかけてわき目もふらず構築し続けた地下要塞は、彼らの鎧として完全に機能していたのだ。
 もっとも地下要塞と言っても、子供心に思い浮かべる巨大な機械仕掛けの秘密基地などではなかった。硫黄ガスを吹き上げる地獄そのもののような島の大地を、一年近くかけてほとんど手だけで掘り抜いたものだった。
 しかも、地熱も場所によっては天然のサウナ状態で、飲料水は天水(雨水)に頼るのが主力で、島全体が硫黄ガスで満ちあふれているため自活のための耕作が効果的に出来る筈もなかった。地下要塞自体も、一部の自然洞窟を除けばもっことつるはしで人力で掘られた蟻の巣のような状態だった。このため、守備兵の健常者の数は日を追って減少し、アメリカ軍上陸時には全体の半数が何らかの体調不良を訴えるほど苛酷な環境だった。
 唯一要塞らしいのは、司令部の存在する一部の区画とトーチカの一部、そして最後の大工事で建設された島の南北を縦断する戦車も通れるように作られた地下通路の一部ぐらいだろう。
 総延長三〇キロ以上の地下道の集合体。これが硫黄島の正体で、アメリカ軍が「バグ・ハウス(蟻の巣・蟻塚)」と呼んだのも当然だった。
 だが栗林兵団は、巧妙な配置でこの地下要塞を構築しており、十字砲火と白兵戦によって敵に出血を強い続けた。
 その後硫黄島での戦闘は、硫黄島以外の激変する世界情勢など無視するかのように、毎日決まった時間の間だけ両軍全力で続けられた。アメリカ軍が一メートル進むために十人の犠牲が必要といわれる壮絶な状況のなか、一進一退の攻防が続けらえた。だが、他の島と同様制空権と制海権がアメリカ軍の手に握られている事、補給の有無などからジリジリと米海兵隊が前進し、戦闘開始九日目の八月十四日にはアメリカ軍が今一歩で主要陣地突破に成功するまでの前進に成功していた。
 なおこの日までに、日本側の損害は甚大なものとなっていた。兵団戦力は戦闘可能な兵士が約二分の一、第一線では約三分の一に低下した。日本陸軍の視点からなら豊富だった火砲・弾薬も三分の一に減少し、上陸七日目まで激しく抵抗していた擂鉢山陣地も、殿軍が縦貫トンネルを爆破しながら後退することで、この時までにアメリカ軍の手に落ちている。戦後有名になった写真が撮られたのも、八月十二日の事だった。
 だが、一方のアメリカ軍の被害もまた著しかった。
 小隊や中隊単位で一人残らず全滅するという、アメリカ軍にあるまじき状態もむしろ日常だった。中には麾下の大隊が丸ごと消え去った連隊も存在したほどだ。死傷者の数も歩兵部隊を中心に一万五千人以上に達し、損害は単なる地上兵力同士の戦いとしては、ペリリュー島と並んで太平洋戦線屈指の数字を示していた。
 このため、アメリカ軍においても戦闘経験のある前線指揮官がひどく欠乏し、大隊や連隊だけでなく師団ごと入れ替えねばならないと真剣に議論されるほど戦闘力が低下する状態となったいた。だが、太平洋中探しても増援できる部隊が存在しないため、そのまま戦い続ける他なかった。
 そうした中、硫黄島の戦いは「逆D-day」を目前にクライマックスを迎える。
 艱難辛苦の前進の末、事実上の中央突破を行おうとしていた第三海兵師団に対して、栗林兵団が最後の予備兵力を投入して反撃に転じたのだ。
 この時反撃の主体となったのは、同兵団唯一の戦車隊である西竹一少佐率いる第二十六戦車連隊だった。同連隊は四個中隊・定数四十八両の部隊として硫黄島に送り込まれたが、その装備の殆どが本土決戦の実験台として有力な対装甲戦闘車両で構成されていた事は、当時の日本軍の中にあって特筆に値するだろう。
 ちなみに、第一中隊は「四式戦車」、第二、第三は「三式戦車」、第四中隊は現地改造型の「一式砲戦車」の現地改造型(一部九九式高射砲搭載型)を変則数で装備していた。
 この日本陸軍としては異常なほど重装備の戦車部隊の中で、いくつかの未確認な情報もあった。この戦車の中には八十八ミリ砲(九九式高射砲)を搭載していた「四式戦車」が数両存在していたと言われる事と、さらにドイツ軍重戦車の「六号重戦車(ティーゲル)」がいたという逸話が存在する事だ。
 前者は、本土で開発中の「五式戦車」のテストベッドとして一部の「四式戦車」が九九式高射砲を搭載したと言う資料が存在するので、員数合わせの際に送り込まれたものと思われる(「四式戦車」の総生産数は各種合計六七両だが九九式装備型の実数は不明)。しかし「ティーゲル」の方は、本土で十数輌が完成しただけの「五式戦車」が現場の判断で一部送り込まれたのを見間違えたのか、一種の戦場伝説だと考えるのが妥当だろう。何しろ目撃証言はアメリカ軍の側に非常に多く、また日本側の証言に迷子になったドイツ潜水艦が戦闘開始三日前に突如硫黄島に現れて、その潜水艦に積載されていたなど信憑性に欠ける話がいくつか聞かれるからだ。もちろん、戦後の調査でも戦場に「ティーゲル」の存在があったという報告は存在しない。また、この頃の日本陸軍の兵器生産は、戦争終末期の混乱によって正確な情報が少なく、こうした戦場伝説を生み出したと思われる。

 話が少し逸れたが、栗林兵団最後の反撃は、それらの残存戦車約三〇両とそれに続く約一個連隊の重武装兵団(ロタ砲などの優先配備を受けた部隊)が先鋒となって開始された。
 戦線突破に成功したとアメリカ軍側が考えていた心理的スキを突く形で、米第三海兵師団所属の戦車大隊を付近伏在の高射砲や対戦車砲との連携攻撃で撃滅後、混乱状態に陥った第三海兵師団の一個連隊をそのまま撃破しつつ旋回運動に入り、第四海兵師団後方への突破を行おうとしていた。
 この時まで、戦闘は日本軍優位に進展する。時間的には攻撃開始が午後五時半頃で、この日、日本軍はそれまでのルールを破りそのまま夜戦へと突入して、状況が分からず混乱を続ける米海兵隊を自らの損害を無視して押し続けた。
 だが、第四海兵師団後方への攻撃が本格的となった八月十五日の深夜零時ちょうど、防戦に当たっていた第四海兵師団所属の戦車大隊がほぼ粉砕された時、突如栗林兵団司令部から作戦中止の命令が発せられた。そして前線にあった部隊の激しい抗議すら封殺して戦闘をうち切り、日本軍はもとの陣地に戻ってしまう。
 またアメリカ軍の側でも、とある報告が舞い込んだためその日の戦闘を中断し、さらにはせっかく獲得した数十メートルを全戦線にわたって後退した。
 そしてこれが、実質的なこの島での戦いのカーテンコールもしくはカウント・ゼロとなった。
 なお、最後の戦闘により壊滅した第三海兵師団を中心に五〇〇〇名以上の死傷者を上積みしたアメリカ軍は、死傷者数合計で現地日本軍を上回った。これが同島での戦闘を戦史上で不動のものとし、この後停戦と共に日米将兵が互いの旗をバックに握手するという、戦後有名になった情景の一つを生み出す事となる。この光景は、後に映画でも再現されたため有名だろう。

 

 

■解説もしくは補修授業「其の弐拾参」 

■フェイズ二四「停戦」