■フェイズ三〇「そして現代へ」

●新たな対立
 「戦後」、「現代」。
 二十一世紀に入った今日においても、第二次世界大戦もしくは太平洋戦争と呼ばれる大規模な戦いが終わって以後の時代は、日本一般においてはこう呼ばれている。これに異論を挟む方は、ほとんどいないだろう。
 だが「現代」という時代は、今の日本人一般が漠然と思っているように、自由と平和と尊厳と豊かさに満ちた時代ではなかった。そのようなものが存在するのは、欧米諸国と日本などごく一部の国と地域、20世紀の後半の特に冷戦時代全般において世界の富の8割以上を占めた国々、いわゆる「先進国倶楽部」の中だけだった。
 二十一世紀初頭の近年は、加えてインド、ブラジル、ロシア、メキシコなど急速に隆盛する一部の新興国を含める場合もあるが、それまでの様々な蓄積の差と様々な内政問題から理想とはほど遠い状態にあるのが現状だ。ロシアやインドなどは、紛争多発地帯ですらある。
 そして「戦後世界」と日本で言われたモノは、その初期においては冷戦や東西対立という言葉で代表されるように、第二次世界大戦の延長とも言えるイデオロギー対立の時代だった。冷戦の幻想が破れた後は、それまで豊かな側の人々があえて見てこなかった、持つ国と持たざる国の対立の構図を強く作り上げていた。さらに今日においては、グローバル化という名の個人レベルでの持てる者と持たざる者の格差や対立へと進みつつある。冷戦崩壊以降については、情報の世界規模での広範な普及が大きく貢献していた。
 誰だって、自分たちの粗末でつつましい家と、アメリカ国内にあるビル街やプール付き大邸宅の連なる町を見て、何かを思うのは仕方のない事だろう。自分たちもあれぐらい豊かになってやろうと思い実行できる国家や民族は、ごく僅かだ。なりたくても、足がかりすらないのが現実なのだ。
 加えて一九八〇年頃からは、宗教問題がイデオロギー化して各地で対立するようになっていた。
 つまり世界中に戦いの火種と、火種で終わらなかった戦いが満ちあふれており、日本もその例外ではなかった。
 日本国民一般が日本、そして世界が平和だと勘違いしているのは、日本国内で軍事的事件が極端に少なく、また日本政府が自らの国軍を先進国列強の中でも国防軍としての位置づけを強く持たせる宣伝に務めているからだ。そして軍の活動も、実戦においては一部の海外に限られていた事も影響しているだろう。さらには、日本が引き起こした戦争や紛争がなく、世界史レベルで見た場合の大規模戦争が一度もなかったからに過ぎない。
 またある側面から見ると、日本人の向かうべきエネルギーやイデオロギー的なものをそれまでとは別の方向に向けさせた事も原因している。
 それまでの「富国強兵」や「一等国日本」から、戦争の実質的敗北の屈辱をバネとして経済的発展や豊かな生活だけに向けさせた末の結果と言うことだ。
 「経済は一流、軍備は二流、外交は三流」とされる、現代日本の一般的な国際評価を如実に揶揄する言葉がその象徴だ。
 もっとも軍備が一流なのは、冷戦崩壊後アメリカ一国なので、アメリカを例外とすると日本の軍備は十分一流と言える。
 そして今日、在外邦人を含め一億四千万人に達する人口を抱える世界第二位のGDPを誇る経済大国。核戦力を含む、世界第三位の軍事大国という事象は、その結果の一側面に過ぎない。
 『小市民大国』という言葉が、その多くを物語っている。

 話が先に進みすぎたので一旦戻そう。
 大東亞戦争において日本は、軍民合わせて約八〇万人の死者を出し(支那事変を含めると約一〇〇万人)、国庫の数十倍〜数百倍もの国費を乱費した。
 ある統計資料によれば、日本が戦時中に乱費した総額は五六〇億ドルとさている。これは、当時の平時の国家予算が日支事変に入る前の一〇億ドル程度で、ここでの交換レートは戦争末期の実質レートである1$=四〜十円程度の換算と思われる。
 いっぽう日本側の統計資料から満州事変以後の十五年間の総軍事費を合計すると、約七六〇〇億円の戦費が使われた。公債の未償還額累計は、約一四四〇億円に達している。そして通常時(平時)の国家予算が二〇〜三〇億円台の時代における出来事だと考えると、どれほど異常かが理解できるだろう。大東亞戦争において日本は、GDPの総額を大きく上回る戦費を使用したのだ。一説には、国内総資産額すら上回る戦費が使われたとも言われている。その結果が、戦争の敗北と大日本帝国の事実上の解体と再編成であり、父祖が得た利権の多くの喪失だった。
 そして、連合国との停戦が成立した時、日本は自らの力では立つことすら難しくなっていた。
 だからこそ、戦争で唯一豊かな国となったアメリカ合衆国に対して、政治的、軍事的屈服のみならず、経済的な全面敗北を意味する莫大な財政支援とドル借款、さらには無償による食料援助すら申し込ませるに至ったのだ。また見返りとして、すべての日本市場のアメリカ資本への全面的な解放が行われ、憲法改定に連動する各種の「民主的」法整備の改革に繋がるだろう。
 「憲法改定(新憲法発布)」に伴う「男女同権」、「総選挙の実施」、「独占禁止法制定」、「農地改革」、「各種労働法の整備」、「人身売買の禁止」、「学制改革」など戦前から改革が進められたり議論が始められていた様々な法制度改革が、ここぞとばかりに日本の政府・官僚団によって断行された。いっぽうで、戦中から始まっていた急加速のインフレを何とか抑制すべく、様々な経済政策が打ち出された。
 しかし経済政策の方は、日支事変の頃から始まっていたインフレを何とか押さえ込むため、戦争終了と共に極度の緊縮財政を実施したので、『停戦恐慌』と呼ばれる大規模な不景気が到来した。さらには、戦前の統制経済状態を数年間続けざるをえず、これとアメリカからの支援を加えても戦中の不均衡を是正すべく経済が動き続けた。そして国内の極度のインフレは進行し、同時に国際通貨としての円の価値下落も続いた。
 もっとも極度のインフレそのものは、日本政府自身が抱えた膨大な債務を消化するため、各種の経済政策を意図的に操作する事で半ば人為的に行われた側面も持っていると言われる。
 とにかく、結局物価が安定した一九四八年頃までに、円の価値は二十年前の二十分の一以下にも下落させてしまう。そして通貨の価値下落により、約千五百億円もあった国の借金が、それまでの百億円分の価値もなくなった。もちろん、すべての日本円による貨幣価値も同様に下落し、戦前・戦中政府が押し進めた膨大な国民の預金が紙屑になったとも言われた。
 この分かりやすい経済的事象が円ドル交換レートだ。一九四八年に正式に決められたドルとの固定交換レートは、1ドル=三十六円となった。
 十五年ほど前、日本がまだ未曾有の戦争に入る前の交換レートが、純金による兌換を基本とした延長の一対二〜三・五だった事を思えば、国際的価値下落の凄まじさを見る事ができるだろう。そして今日においても、一対十近くで推移するレートもこの時決められたのだ。
 なお、国内におけるインフレは、戦時統制が一時的に消滅した四五年秋からにわかに悪化した。停戦から一年ほどは、戦時のリバウンドからかなり悪い数字を示した。だが、その後一年ほどで持ち直して、最終的には民衆の生活を辛うじて圧迫しないレベルのインフレで止まっている。
 これは、講和会議などにより残った日本の海外領土と、日本人の手に帰属した海外資産の存在が企業や国民を安堵させた事が強く影響していた。またこの頃より、満州開発のための拠点としてアメリカが、近在の日本の工業施設を必要とするようになった事が大きな原因だとされた。
 なお、満州の大きな工業生産力が日本のものを必要にするようになった背景には、戦後乗り込んだマッカーサーとその部下たちが満州で行った極端な財閥解体と統制経済の影響だった。占領統治間の政策が、戦後の満州発展を阻害した最大の要因だったのだ。故にGHQの政策が、もし日本本土で行われていたら、日本の通貨価値はさらに十倍は下落しただろうと言われている。
 話が少し逸れたが、講和会議後の各種の経済改革の成果が発揮されるようになる四八年以降、日本経済の持ち直し機運が高まるようになる。そして、その後の日本全土でのインフラ整備のための大規模公共投資経済、護送船団方式の経済拡大へと繋がっている。
 また、一九四六年一月時点で七九〇〇万人(台湾含む)だった日本国の総人口は、戦後すぐに始まったベビーブームにより一九五〇年には八九〇〇万人(年率二・五%の増加)にまで膨れあがっていた。これは、満州を中心に居住する海外在留邦人約二〇〇万人(約半数が満州に帰化中)を考えない数字だった。
 この一つの事象からも、停戦から五年という時間が、日本に新たなレールの上を走らせる準備期間として有効に機能していた事がうかがえる。

 そしてこの間の日本の民主化の一環として、様々な改革が行われた。連合国側から日本ファシズムの槍玉に上げられた「治安維持法」は、「破壊活動防止法」と名前だけ衣替えした。前後して、内務省も大幅改変される事になった。
 内務省管轄の警保局は再編成で警察庁と改名され、悪名高き「特別高等警察」、「高等警察」は「公安警察」と一部を法務省に管轄を移し「公安調査庁」という名称と共に情報収集と防諜のための組織に組み替えられた。「憲兵」の勢力も大幅に縮小され、純粋な軍内部の小さな警備組織になった。ただし連合国側が求めた内務省の「解体」は中途半端なものとなった。名称こそ総務省と名前を変えたが、大きくは労働部門(労働省)と建設部門(建設省)を分離したに留められた。
 これは、一部から新しい革袋にワインを詰め直すに等しい行為だと言われた通り、日本国内の反共産主義的な政治姿勢にほとんど変化がなかった事の現れだ。ただし、後の大規模な政治改革でやり玉に挙げられ、かえって地方分権を押し進める事になる皮肉ももたらしている。
 なお、それまで治安維持法によって逮捕された政治犯は、連合国側の法務関係者との協議と公平な再調査によってかなりが釈放や減刑されるも、政党の自由が新憲法上で確立された後も共産党(+極端な社会主義政党)は戦後すぐのごく一時期を除いて長い間違法とされ続けた。関連する社会活動についても同様だった。
 戦後作られた社会党系政党も、労働政党として以外には強い勢力を持つ事は難しかった。もちろん、共産主義的、社会主義的な活動は、法律で抑制もしくは禁止されているので、主要政党となるほど強い力を持つことはできなかった。
 このため、政友会と立憲民政党から再編成された後継政党(自由党(外交重視)と民主党(内政重視))が緩やかな二大保守政党を作り上げ、随時政権を担うという状態に大きな変化はなかった。
 また「新憲法」では、すでに取り決めが存在したイデオロギー面よりも、連合国側の強い「要請」により天皇制軍国主義を阻止すべく政教分離が強く打ち出された。これにより、近年に入るも影響力の強い宗教勢力の政治参加は許されていない。
 この点、奇妙な仏教勢力とキリスト教政治勢力の存在する韓国や満州とは対照的と言えるだろう。
 つまり日本国内の政治的安定は、この時引かれた新たなレールによって維持されたと言うことになるが、この五年の間に世界はさらなる激変を迎えていた。順に見ておこう。

 まず見なければならないのが、アメリカ、ソ連、ドイツを中心とした欧州情勢だ。
 日本より少しだけ早く連合国と停戦し、日本より少し遅くまでソ連と戦っていたドイツだが、「ニュルンベルグ講和会議」は「極東講和会議」以上に厳しいものとなった。それだけドイツが、日本以上に世界を揺るがしたからだ。
 当然、連合国から突きつけられた要求も、かつてのパリ講和会議以上のものとなった。
 箇条書きで取り上げると、非ナチス化、民主化、非軍事化、財閥解体、軍事裁判の開催、連合国軍の全面進駐を連合国は当初要求した。だがその後の政治環境の変化により、ナチス党の解体、全占領地からの即時撤退、一方的な軍縮、交戦国に対する戦時賠償、戦争犯罪人の処断、人道的犯罪人の処断、各種民主制度の改革、以上の実行・監視のための連合国軍の進駐という多少ソフトな議題にすり替えられる。
 ソ連(軍)による東プロイセン地方での蛮行と、「カチンの森事件」に象徴される非道が様々な方法により公になると、これがさらにソフトなものとなった。そして、東欧各地で睨み合いに近い状態で握手した連合国各国の状態が、徹底的に叩かれ解体される筈だったドイツの立場を中途半端なものとしてしまった。
 けっきょく非ナチス化、民主化が連合国監視下であるも、あくまで新生ドイツ政府主導で行われることが決まる。そしてそれ以外は、それまでの戦後処理の範疇に止まっている。例外だったのは「非人道的犯罪人の処断」、つまりナチス党と一般親衛隊、秘密警察が行ったユダヤ人を始めとする人々への行いに対する処罰だろう。
 「ホロコースト」などが、今日でも重大な歴史的犯罪とされているのがその名残だ。
 これに関しては、新生ドイツ政府も積極的に協力する姿勢を示した。また、国家賠償には遂に応じなかったのに、ユダヤ人に対する天文学的な賠償には無条件で応じた。このため、ドイツ国内と停戦時ドイツが勢力を保っていた地域では、魔女狩りよろしくのナチス狩り、一般親衛隊狩り、秘密警察狩りが行われる。
 そして、ヒトラーとナチスとその一党に戦争責任すべてをなすりつけたドイツは、日本よりも素早く共産主義の防波堤としての役割を果たす重要なポジションへと衣替えしてしまう。

 なお、東欧でソ連軍が解放(占領)した地域は、ドイツ東部のごく一部、ポーランドの東半分、スロバキア地方の一部、ルーマニアの過半、ブルガリアの過半となる。それ以外については、ドイツが去った後米英を主力とする連合国が入り込んで、そのままなし崩しに両者の進撃停止線及び占領統治地域となっていた。マルタ島での話し合いでは、占領担当地域が決められていたのだが、多くが履行されなかった。
 ソ連がドイツから奪った領土も、半ば陸の孤島と化したケーニヒスベルグを例外とする、東プロイセン東部の一部にとどまった。
 そして停戦会議の少し前、国家ごとの統治区分が決めなおされた。これにより、ルーマニアとブルガリアがソ連の行政担当となる。また、当初アメリカが進駐したユーゴスラヴィアは、チトーを中心とするユーゴ共産党が支配権を握っていたが、米ソとはそれぞれ一定の距離を置いたため、どちらかと言えば緩衝地帯としての役割を果たすようになる。
 だが、問題が解決しなかった地域も多数あった。首都ワルシャワを含むヴィスワ川で東西に分かれたままのポーランドとソ連が併合したバルト三国、ソ連が占領を続けたままの東プロイセン東部、スロバキア地方の一部地方がこれに当たる。戦後の一時期、共産側の封鎖にあったケーニヒスベルグ(ケーニヒスベルグ封鎖事件)も政治的には重要だろう。
 これらの問題に対してソ連は、ドイツ占領はドイツから最も多くの被害を受けたソ連の当然の権利だとして、今更ドイツの無条件降伏とドイツ全土の分割占領を持ち出したりするなど、まともな会話が成立しなかった。
 ポーランドに関しても、ソ連が全土を解放統治するのがあらゆる点において当然だとしてこちらも譲らず、バルト三国に至っては本戦争とは別問題だとして議論にすらならなかった。
 当然ながら、ソ連の言動は欧米各国の不信を増大させた。
 ソ連側がバルト三国については順次独立復帰させると態度を軟化させても、ポーランド、東プロイセン東部の統治問題が解決しなければ何の問題解決にもなっていないとしてソ連に譲る姿勢を示さなかった。
 結局、ワルシャワの中心を流れるヴィスワ川を挟んで両軍が対陣したまま、ポーランド連邦共和国とポーランド民主共和国の独立へと続く。そして、一九四九年四月の「北大西洋条約機構」と一九五二年六月の「ブカレスト条約機構」というややアンバランスな二つの陣営の対立へと繋がっている。
 なお、ドイツが独立国家としてそのまま存続できた大きな理由の一つに、彼らが持っていた先進的な科学技術の存在があった。
 連合国(米英)側が実質的な戦争賠償として、ドイツに様々な技術の無償供与とパテントの譲与を持ちかけたのだ。さらにはドイツも、先端技術を米英の対抗者には渡さないと密約したことが、ドイツの国家としての継続的存続につながったとする説が非常に強い。
 実際、弾道弾、ジェット戦闘機、戦車、潜水艦など様々な軍事技術を中心にした、ドイツが大戦中に生み出した新技術は米英を中心に花開いており、この後のアメリカの強気を呼び込んだと言われている。また、米英が莫大な利益を生み出した、各種パテント料については言うまでもないだろう。ただし、当時アメリカ国内にあった共産主義シンパやスパイにより、多くがソ連の手に渡ったことも忘れるべきではないだろう。

 そして欧州がアメリカ・ソ連を中心とした東西対立という形で固定化しつつある中、日本の近隣地域でも大きな政治的地図の変更が進んでいた。
 具体的に言えば、支那大陸での国共内戦と、日本が占領した東南アジア地域での独立運動だ。
 インドネシア、ビルマを中心に東南アジア各地では、日本が戦中作り上げた現地住民による独立準備組織、もしくは既に独立国家として成立したとされる組織が、停戦後に日本軍が育てた組織と残した装備を使い独立戦争を始めた。
 ベトナムでは、ホーチミン率いる共産党が勢力を増しつつあって事態を複雑化させた。フィリピンでも、旧勢力を中心にした既存独立派とフクバラハップを中心にした新独立派が激しい抗争を続けていた。このためベトナムとフィリピンでは、旧宗主国を深く巻き込んで出口のない独立戦争もしくは内戦状態に入りつつあった。
 そして最大規模の内戦が、支那大陸中央で行われていた。
 この頃、支那大陸内で安定していたのは、マッカーサーがタイクーンとして君臨する満州と内蒙古(王国)、そしてイギリスが何があろうと維持する決意を固めていた香港ぐらいだった。それ以外は、どれ程言葉柔らかく表現しても無茶苦茶だった。列強の支那経済支配の象徴だった上海ですら例外ではなかった程だ。古典的表現を用いるなら、五胡十六国直前と表現できただろう。いっそ日支事変当時の方が、日本だけを敵としていただけに安定していたほどだった。
 なお、支那大陸での中華国民党と中華共産党の対立は、日支事変とは関係なくそのはるか前から始まっていた。
 そして一九二八年、北伐を完了して蒋介石が支那大陸でのいちおうの支配者となったとき、彼の国民党政府は当初から二つの強敵を国内に抱えていた。内に抱える共産党と外からの大日本帝国だ。そしてさらに第二次世界大戦中、蒋介石の立場はとりわけ難しくなった。
 支那事変では、国土の多くが日本軍に席捲された。しかも、日本がうち立てた傀儡国家満州国と、日本をバックとした汪兆銘(精衛)の南京政府に統治された形の沿岸部と、 延安を拠点とし共産党に支配された北西部、臨時首都重慶を拠点とし国民政府に支配された西部および南西部、そして支配の及ばない少数民族の辺境とに分断された。
 そして一九四五年夏、日本軍が突如華南や華中から立ち去り始めた事で大きな変化が訪れる。それまでの状況を考えれば、横滑りで国民党政府がすべての地域を回復し、後は中華共産党の勢力を封じ込めるだけだと考えられていた。少なくともアメリカは、そう考えていたと思われる。実際、大戦終盤頃は予測された通りだった。アメリカは国民党にそれだけの力がつくように援助していたのだ。加えて、アメリカ主導による話し合いすら行わせていた。
 だが、戦争における国民政府の支持層の変化が、その後の支那情勢に強い影響を与えていた。
 これまで国民党(蒋介石)は、保守的な地主層と沿岸部の大実業家から支援されてきた、いわゆる旧時代的な政府だった。だが、日支事変の間に東部沿岸地方の大実業家勢力は日本によってほぼ一掃され、 内陸の利己的で近視眼的な地主層しか頼れなくなる。これに加えて、中華世界的な官僚の腐敗行為のはなはだしい蒋政権自体が、戦争の被害を受け農奴的支配に対して自覚し始めた農民層の要求に答えられる政権にはほど遠かった。さらに彼らの軍隊も、直属部隊の一部や米軍の訓練を受けた部隊を除けば強盗やゴロツキの群の延長でしかなく、まるでドイツ三十年戦争での傭兵達のような蛮行を、祖国の各地で重ねるだけの存在でしかなかった。
 しかも国民政府は、相変わらず無茶な紙幣の乱発や税金徴収を行うなどして、民衆からの支持を下げ続けていた。紙幣では、地下通貨となったドルばかりか、日本の円の方が信用度が高かったほどだ。
 しかも強権的な傾向の強い蒋介石は、刃向かう者は力づくで押さえつける以外の方策を採らず、これも民衆支持を下げる大きな要因となっていた。
 これに対して中華共産党は、農村根拠地での共産主義的土地改革によって農民大衆の支持を得ていた。明確な政治指針を示すことで、民衆からの支持も高くなった。また、よく訓練された能率的組織を持つことによって、 支配地域に秩序と相応の公平さをもたらしていた。
 しかも 中華共産党は、外敵の侵入を防ぎ国家再統一のために献身する愛国者というイメージを一般的に与えた点で、 人気度合いは国民党の比ではなかったといってよいだろう。国民党は、主要地域では逃げてばかりだったから尚更だ。このままなら、民衆の支持を得た中華共産党が国家を統一しても良いぐらいだ。ただし停戦時は、中華共産党が優位に立っていたわけではない。
 停戦間際の現地日本軍は、ソ連との戦争を恐れ、ソ連を手引きするであろう中華共産党の拠点と実戦部隊を、予防攻撃の形で激しく攻撃した。特に戦争終末期、支那派遣軍の主力(比較的戦闘力の高い部隊)が華北地方に移動していたことは、大きな効果を発揮していた。
 また、停戦とその後の連合国の進駐によって、モンゴルを経由してソ連に続く道をアメリカに押さえられ、ソ連からの援助が得にくくなった事も中華共産党にとっては大きな痛手だった。武力や武器、資金が不足しては大規模な武力闘争を起こすには至らず、華北地方での地道な活動以外当面活発な活動に出る事はできなかった。
 しかも米軍装備の国民党軍が、日本停戦とほぼ同時に蓄えていた圧倒的物量で北進を開始し、共産党軍は支持基盤である華北地域の農村部や奥地へと落ち延びるしかなかった。
 しかし国民党軍の栄光は、彼らが北平(北京)を制圧し満州の米軍と握手した時が最高潮となった。奪還した地域でも繰り返された国民党の無茶苦茶な民衆統治が、急速に国民党から民心を切り離していったからだ。しかも国民党瓦解の速度は早かった。農村部に落ち延び勢力を減退させたと思われていた共産党軍は、兵糧責めでまずは地方の都市部を包囲し、華北内陸部での地図は急速に塗り変わっていった。
 そして北京に落ち着いた蒋介石は、新京にいるマッカーサーがアメリカとの交渉相手となったが、反共産主義的なマッカーサーと、なぜか社会主義的な政策を推し進める彼の配下に板挟みにされる。しかもアメリカ(マッカーサー)は援助の見返りとして新たな顧問団を押しつけ、さらには民主的改革を行うことが援助の条件として強く干渉してきた。
 その間にも共産党の勢力拡大と、国民党内の腐敗を原因とする民心の喪失は続き、蒋介石は場当たり的な強権支配で対応してさらに勢力を縮小させていった。そうして蒋介石は、彼なりに苦慮した末に一つの政策を打ち出すに至る。
 それは極論すれば、保守地主層に対して共産主義者によってすべてを失うか、今我々の「指導」を受けて生き残りを図るかと問いかけ、実行した事だった。これはマッカーサーの配下により作られた民主化プログラムを取りれたもので、「民主主義的」農地改革の断行と、そこから出た資本を元にした実業家勢力の再建を目指したものだった。無論、最低限の公平さを持つ安定した租税徴収のための基盤づくりでもある。とにかく、政府や軍が水滸伝状態では、国が立ちゆかない事にようやく気づいたと言うべきだろう。また後援者であるアメリカの意向を受け入れなければ、今後の援助が得られなくなるかもしれないという恐怖が行動を加速させた。
 なお、新たな政策が実行され始めた四七年三月には各地で大きな反発が起き、国民党支配地域の半分近くでかつての北閥時のような内乱状態が発生した。内乱状態は、国民党の指示に従わない軍閥や地方に対して強権や軍事力を用いたことで拡大した。そして混乱につけ込んだ共産党が、大規模な攻勢に打って出てもきた。共産党になびいた軍閥も多数出た。しかし政策断行のおかげでアメリカの支援を取り付けることができ、万里の長城の北側には常に師団規模の米軍部隊が展開して、不測の事態に備えて共産党軍主力を牽制していた。
 そして全ての問題に対して国民党政府は、アメリカ軍軍事顧問団と米軍装備を持つ国民党精鋭部隊を用いて、華北を中心に共産党の動きを押さえる部隊と討伐軍に分かれるとこの鎮圧に乗り出す。
 改革開始から約三年後、国民党政府は何とか華中、華南地域での権力を掌握し、資本主義的農村社会を再構築し、中央政府のある程度の清浄化を断行することにも成功する。ただし共産党勢力の強い華北と内陸奥地では、それまでの反撃もあって各地で共産党軍に敗退し、二年以内に北京・天津の一帯と青島など沿岸部の大都市以外はほとんど切り捨てられてしまう。
 しかもその間に、華北地域や内陸北部での共産党勢力は拡大した。当初は沿岸都市部だけでも守ろうとしたが、共産党の農村包囲による兵糧責めにあい、けっきょく都市ごと陥落していった。満州のすぐ側で、兵站線が維持しやすかった北京、天津がだけが例外だった。
 だがその北京も農村から包囲される。かつての日本軍同様に米軍の顧問団も為す術がなく、飢餓の街となって無人の都となって遂に陥落。ルールの違う戦争に満州の米軍が半ば呆然する中、華北一帯の殆どが共産主義者の手に落ちた。そして一九四九年二月には、北京での独立宣言までも許してしまう。
 北京・紫禁城から膨大な美術品を持って逃げ出す国民党軍が、国民党敗北の象徴だった。
 しかし暫定的に南京に首都を戻していた中華民国(国民党)が、このまま敗北を認め共産主義政権を認める筈もなかった。共産党の側も勢いのまま勝ち進む積もりだった。
 だがソ連を含めた連合国各国は、中華中央部の内乱拡大を懸念して、ついに調停へと乗り出す。そして無軌道な戦闘と殺戮を防止するとして両者の間に期限付きの暫定境界ラインを設定し、国民党の保護にはいった。後のインドシナと似た処置である。
 一方の共産党は、内実息切れしかけていたため、実際には調停と一時的な戦闘停止は渡りに船であった。また自分たちの存在が国際的に認められた事で当座の勝利を確信。調停を受け入れた。ソ連も息切れした中華共産党のてこ入れのために、調停に乗り出したと言えるだろう。
 だが当時多くを失い欠けていた蒋介石は、強硬な姿勢を全く崩さなかった。共産党を認めないのは当然として、挙げ句に満州国や内蒙古、日本の手に残った台湾も中華民国と合邦して中華民国を中心にした統一中華となるべきだと強い論調を張り、世界中から失笑と失望を買ってしまう。
 日本が白人達の軍門に下った今、欧米のルールで動く世界に異を唱えればどうなるか、理解が及ばなかっただろうか。
 それでも恫喝に屈する形で国民党も調停に乗り、取りあえずは中華地域の内乱は収まった。
 しかし、中華民国に対する欧米特にアメリカの不信が残ってしまう。それまで上海を中心に中華民国にあったアメリカなどの各種顧問団は、一九四九年中に過半が本国か満州、もしくは上海租界内に引き上げてしまう。アメリカ政府も、アメリカの最終防衛ラインは日本の領域と満州にあると発言し、中華民国を除外してしまう。満州に逃げ延びた国民党側のほとんど全ても、「帰国事業」と国民党が求めた防衛再構築の一環として華中・華南地域へと早急に追い返した。
 停戦すぐから極秘裏に活動していた日本軍の軍事顧問団も、国際問題を嫌って本国や満州に多くが引き上げた。当然と言うべきか、GHQ管理下の満州政府と中華民国の関係は冷却化していた。
 これが、そのすぐ後に発生した、『中華動乱』を呼び込んだのであり、一九五二年四月の東アジア連邦共和国成立につながったと言えるだろう。


 

 

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