■フェイズ三〇「そして現代へ」02(続き)

●国際連合
 国際連合(国連)の歴史は、第二次世界大戦中にさかのぼる。
 一九四五年四月二十五日、ドイツまたは日本に宣戦している連合国五十ヶ国の代表がサンフランシスコに集まった。国際連合設立のための、サンフランシスコ会議を開くためだ。
 だがその前に、開催されたダンバートン=オークス会議で作成された国際連合憲章原案に基づいて、国際連合憲章が採択された。
 もっとも「United Nations」を日本語に直訳すれば、「連合国」もしくは「連合国家」であり、もともとは枢軸国とされた陣営に対する軍事的な国家連合だった。しかしこれを、戦後の国際的な平和組織の名称として用いることが提案され、そのまま会議の出席者全員によって合意された経緯がある。
 なお日本における「国際連合」という名称は、連合国という「敵」そのままの名称では、日本国民一般には受け入れられないとして、外務省において語呂合わせ的に作られた造語である。
 そして「国連」の目的は「国際的な「共通の課題」の達成 」、「平和と安全の維持(中心的な目的)」、「人権の保護」などを「そのために諸国の行動の調整をすること(国際協力)」にあるとされた。そして、これを達成する手段として、特に軍事的な問題を議論するためにソ連が強く設置を望んだ「常任理事国」に強い権限が与えられた。もちろん、当初常任理事国という国際的にも責任ある地域には、第二次世界大戦中に連合国側で主要な役割を果たした大国が選ばれる予定となっていた。
 だが、四五年八月の停戦とその後の流れにより、四五年秋に三年以内に総会で常任理事国を正式に選出するという方針が、米英を中心にして決議される。
 第二次世界大戦が土壇場でドローに終わり、悪い形で米ソの対立が表面化した事と、戦争そのものが連合国の中でアメリカの圧倒的優位で終了したため起こった混乱だった。
 これに対して、総会決議までの仮の常任理事国とされてしまったソ連と中華民国が「拒否権」を発動する。このため安保理は度々機能麻痺に陥り、翌年の総会で平和のための結集決議が採択される。ここで安全保障に対する一定の権限が総会にも付与され、この初めての例として、常任理事国選出の選挙が行われる事が正式に決定した。
 加えて、常任理事国の正式選出と同時に、不備な点も確認された国連憲章の改訂も行われる事になった。この事件は、第二次世界大戦中に引かれたレールの、初めての大きな分岐点だったと言えるだろう。
 第二次世界大戦が、勝者無き戦争と言われる所以の一つがここにある。
 しかも選挙のため、旧枢軸国で独立状態の国家全ては暫定的であっても国際連盟に加盟することが認められ、選挙権ばかりか被選挙権も与える事で、国連の公平さが強調された。

 正式な常任理事国には、立候補と推薦の双方が認められた。ただし、常任理事国が果たすべき責任の性格上、国民総生産、人口、軍事力のどれか一つがある一定量に達していないと立候補も推薦もできない事が最初から規定されていた。そしてこれをクリアした国々が、次々に立候補もしくは推薦されていく。
 期限とされた四八年十二月までに立候補したのは、アメリカ合衆国、ソヴィエト連邦、イギリス連合王国、フランス共和国、中華民国、インド共和国、ブラジル連邦共和国で、推薦されたのが唯一日本国だけだった。
 日本を推薦したのは、四八年に入ってようやくオランダからの独立を勝ち取ったインドネシアやNATO加盟を目指していたトルコなど、感情的親日国家の数カ国だった。この他、東欧諸国の一部を中心にドイツ連邦共和国を推す声も強かった。しかしこちらは、ナチスや親衛隊の蛮行の記憶、過去二度の世界大戦を起こした事などを理由に欧州近隣諸国から猛反対があって、推薦しようとしていた国も推薦を取り消しており、ドイツ政府もその意志がない事を表明していた。
 一方推薦を受けた日本も、当初は自らの経済の弱体などを表面的な理由として推薦を辞退する方向で動いていた。一部の近隣諸国も強く反対していた。だが、推薦した国々以外からも支持する声が強い事などから、推薦国の立場を尊重するとして、選挙に出ることを表明する。
 もっとも、日本がそのまま推薦を受け入れた背景には、水面下でのアメリカの働きかけがあったと言われている。これがもし真実なら、アメリカがアジアの安全保障のためには、中華民国よりも日本が適当だと判断した証だ。そして、このための常任理事国改訂の動きだったと見ることもできるだろう。
 なお、常任理事国のイスの数は、もともと5つだった。だが、俄に増えだした独立国と国連加盟国の増加を踏まえて(選挙時点の一九四九年で約七十カ国)、一時期7つに増やそうという意見があった。しかし大国間の思惑もあり、時代に応じて議論するという一文を加えただけで結局5つのままとされ、選挙総会での投票に雪崩れ込んでいる。
 つまり特権を享受できるのは、一部の特別な国家だけで十分という事だろう。日本の推薦が許された背景にも、アメリカのコントロールを受けやすい国という枠でそのまま通った印象が強い。
 なお一国当たり3つとされた投票の結果、トップ当選は当然と言うべきか中米と欧州諸国から圧倒的支持を得たアメリカだった。以下、それぞれの影響圏から手堅く票を固めたソ連、イギリス、フランスも無難に当選を果たした。そして残る5つ目の椅子には、アメリカに次いで得票数を集めた日本が選出された。
 日本は、アジア諸国の多くと南米大陸の一部の国から支持を受けていた。非白人国、非キリスト教国と言うことで、イスラム圏からの支持も強かった。要するにそれまでと変わりなく、非白人国家群の御輿として担がれたという事になるだろう。
 いっぽう対照的だったのは、同じ東アジア地域に存在する非白人国家の中華民国だった。この国を支持した国は、自ら以外には韓国などごく一部の国だけで得票数は少なかった。このため、日本政府が特に当選のための運動をしなかったにも関わらず、日本の運動と妨害があったと強く非難する姿勢を示し、一時期政治的パフォーマンスとして国連脱退すら発言するに至っていた。
 そしてその後、そして規定変更のための総会が行われ、選出された五カ国は新たな常任理事国として認定され、改訂された国連憲章ともども、新国連体制が形作られる事になった。
 もっとも常任理事国に選ばれた日本としては、国連や世界の事よりも今は自国の国家体制と経済の再建こそが急務だと考えていた。それが、ようやく国内が固まりかけたところで急に檜舞台へ押し出された事は、悪く言えば迷惑でしかなかった。だが結局は、日本人的生真面目さを見せつつも、愚直に国際舞台の中心を歩んでいく事になる。

●新たなる対立の時代へ
 「鋼の川」演説。
 これは、第二次世界大戦中英国宰相を務めたチャーチルの有名な演説の歴史的な表題とされた。一九四六年三月、遊説先のアメリカでの演説に於いてチャーチルは、「バルト海にそそぐヴィスワ川とオホーツク海に流れ込むアムール川には鋼が満ちあふれている」と強調した。
 まさに慧眼と言える発言でだった。
 この後欧州においては、「トルーマン・ドクトリン」(ギリシア、トルコに対する援助)、 「マーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)」発表、 コミンフォルム(欧州共産党情報局)設置、ポーランド分裂、 NATO(北太平洋条約)調印という流れで、自由資本主義と共産主義という近代的イデオロギー対立へと雪崩れ込んでいた。アジアにおいても、GHQの満州統治、国共内戦再発、フィリピン内戦、ベトナム内戦、東南アジア各地での独立闘争激化、という流れを経て様々なイデオロギーによる植民地独立と中華分裂が決定的となりつつあった。
 また、これらとは少し違っていたが、中東においてはイスラエルと言うユダヤ人による国家が誕生して、一九四八年にはイスラエルと近隣イスラム国家すべてによる戦争にまで発展し、今日まで続く中東の争乱が幕開けしていた。
 そして、東西対立が最初に激発したのが、中華大陸だった。

 一九五〇年六月二五日、前年北京で独立を高らかに宣言した中華人民共和国は、突如中華民国に対して宣戦を布告。奇襲攻撃によって二〇〇万人もの人民解放軍が両者の分割ラインを突破。一路南京、上海目指しての進撃を開始した。
 これに対して国連安保理は、 同日中華人民共和国を名乗る団体に対して、敵対行為の即時中止を要求する。だが、この安保理にソ連は欠席しており、ここに新たな時代がいかに困難なものであるかが見て取れるだろう。
 そして国連・安保理の一国となった日本は、アメリカが中心となった国連軍への参加を真っ先に表明し、この困難な時代への新たな旅立ちへと歩み出すことになる。
 それは、日本が何度目かの坂の上の雲を目指した、始まりの一歩だった。

 そして約四十年後、一つの絶頂へと至る事になる。

 了

 

 

■解説もしくは補修授業「其の参拾」 

■あとがきもしくはいいわけ