■21世紀初頭の国力・経済力・国家略歴2(※史実と大きく違う国のみ対象)

■東亜連邦(東アジア連邦共和国)

国土面積:
 約140万平方キロメートル
(旧満州国、蒙古聯合自治政府を領土とするも、いまだ未確定地域あり。旧満州国領は1,133,437平方km)
元 首:大統領
総人口:1億1200万人
構成民族:
チャイナ(約7割)、コリア(約2割)、ジャパン(4・5%)、マンチュリア(3%)、
モンゴル(2%)、アメリカ(1・5%)ロシア(1%)、他(1%)
公用語:北京語、英語、日本語
地方語:モンゴル語、コリア語、ロシア語
名目GDP:
  約25490億ドル
 (世界比率4・6%・世界4位)
 一人当たりGDP:22760ドル
 通貨:満州ドル(マンチュリア・ドル=M$)

※満州地域が日本、アメリカとリンクして経済発展しているので、相対的に関係の悪い近隣の韓国、南北中国の発展が遅れている。

 ・東亜連邦(東アジア連邦共和国)
 総括

 通称「イースト・アメリカ」、「イースト・イスラエル」。
 母体となった満州国は、1931年に旧日本軍が引き起こした「満州事変」を契機として建設された人工国家である。もう一つの蒙古聯合自治政府(内蒙古)は、1937年からの「日支事変」中で日本が作り上げた傀儡国家になる。
 しかし第二次世界大戦後、二つの地域はアメリカ主導の連合国による占領統治を受ける。そして占領統治のあと、アメリカ主導で民主国家として再生・独立。以後、西側諸国の一員としての道を歩む。
 本来なら、双方ともに中華民国に再統合される予定で当初は占領統治されていた。だが、中華中央部の内乱激化と中華民国の全体主義的傾向、そして北東アジアでの共産主義の膨張が、同地域の分離独立を促した。
 そして中華戦争中の1951年に独立を宣言し、中華中央から分離して独自の道を歩んでいく事になる。この結果、中華中央部との関係は常に悪く、イスラエルとはまた少し違った意味で外交上の大きな問題ともなった。
 また58年の「長城紛争」により、国民全般で反北中国感情、反中華感情が強まり、民意においても別の国となったとされる。
 国家形成の経緯から、近代社会制度は日本が作り上げたものを土台に、アメリカの良い部分を取り入れた形になる。いっぽうで民衆の生活習慣は、日米文化が深く混ざったチャイナ系が主流になっている。21世紀初頭では、日本との文化的な差異は見かけ上少なくなっている。少なくとも近隣地域以外の民族が見た場合、ほぼ同じに見える。
 社会制度的には、医療制度や年金制度が充実している反面税金が高く、北欧諸国のようにやや社会主義国家的な性格がある。
 公用語は、各種中華系民族の話す北京語(中華語)が最も多数派で、ついで日本語がコリア系もよく使うため普及している。また、都市部での日常語や商業語としての英語(米語)と日本語の存在は大きい。義務教育では、それぞれの地域の言葉と共に英語、日本語の授業があるほどである。ただし、日本語の教育は1956年まで禁じられていた。

 独立の経緯は複雑かつ強引だったが、1980年代には西側世界で先進国首脳会議の末席に名を連ねる経済力を持つ軍事強国となる。だが、国内の豊富な地下資源や広大な耕作地の存もあって、戦後しばらくはアメリカの経済植民地的傾向が強かった。
 また、占領統治中の(日本)企業の解体、日本本土への日本企業、日本資産の撤退のため、経済活動全般が著しく停滞する。これは、占領統治中は社会主義的な統制と、アメリカ企業の進出が抑制されていたため加速した。そしてアメリカの統治も、アメリカが他で行ったのと同様に富裕層を優遇する半植民知的統治が長らく続いたため、経済的低迷も長くなった。
 加えて「中華戦争」と共産主義の最前線という地理条件から、1950年代、60年代は外資の動きが不活発になり、工業国としては停滞期を迎えて西側の資源輸出国として過ごす。また膨大な軍事予算と強い徴兵制が、国家の成長を著しく阻害していた。
 その後1960年代後半から、日本の発展に押される形で急速に膨脹してNIESより早く新興工業国となり、1980年代には完全な工業化・近代化を果たす。90年代に入り、アメリカの債権購入の一角を占めたのも同国だ。
 また、政治、軍事、経済全般にわたりアメリカの影響があまりにも強く、国家自体が人工国家であり、国境の過半を仮想敵で囲まれていたため、最初に紹介した通称で呼ばれる事がある。
 ただし、1980年代以後は日本色が強まり、近隣の日本とのつながりが強くなった。このため21世紀初頭の今日では、「イースト・アメリカ」、「イースト・イスラエル」という俗称はあまり使われなくなっている。それに代わり、「マンチュリア」や「セカンド・ジャパン」という名が出てきている。

 ・軍事
 国境の多くを共産主義陣営に囲まれているため、冷戦期間中は「極東の防波堤」、「共産主義に撃ち込まれた楔」と呼ばれた。冷戦崩壊後の現在でも、周辺に対立する国家が多いため比較的長期の徴兵制度を持つ軍事国家でもあり、精強な陸軍と空軍は世界屈指の戦力を誇る。
 だが、依然としてアメリカ、日本の政治的コントロールが強いため、核兵器の開発・保有は能力があるにも関わらず行われていない。代わりに、日米との共同開発によるミサイル防衛に力が入れられている。
 冷戦最盛時、正規師団20個、常備80万人の陸軍と第一線作戦機700機を抱えた軍備は、アメリカ軍と遜色ない装備を持つ事で質も高い。「八旗兵」と通称で言われる陸軍の精鋭度合いは、機械化装備率の高さと戦力全体の大きさもあって、ロシア(ソ連)、ドイツに次ぐと言われる。実戦経験も豊富で、ベトナム戦争や湾岸戦争、そして北中国との何度かの軍事衝突で培われている。ただし、装備の過半は安全保障と外交の関係から日米からの輸入が多く、一部のみ独自装備となっている。90年代以後は、日本との共同開発や独自開発も増えている。まもなく試作型が完成する第四世代戦車は、完全な自国生産を目指している。
 なお、冷戦時代幕開けと共に独立したため、西側の最前線という意識が高いことも相まって、国民の軍に対する評価は高い。現在も近隣諸国との関係から、他の西側諸国ほど減少していない。ただし現在では、徴兵は選抜制で一年間。陸軍は40万人にまで減少している。そして軍の主力は北中国国境に配備され、国境線を中心に緊張状態が今も続いている。
 なお海軍は、沿岸警備程度の規模しか保持されておらず、最大級の軍艦も大型フリゲートと中古の戦車揚陸艦でしかない。

 ・経済・産業
 日本の影響下時代は、日本からの大量資本投下による強引な経済発展によって、インフラ整備と共に重工業と農業が発展した。鉄道網など、流通の整備も大きく進展している。
 GHQによる占領統治の間は、財閥解体と統制経済により低迷し、工業国として大きな停滞に見舞われる。また占領統治の途中からアメリカ企業の進出が進み、同地に残った日本資本を上回る状態で満州経済を支配した。さらに51年の独立と平行して、アメリカは自国人の移民も行う。半世紀の間に約四十万人のアメリカ国籍者が移民して、経済・金融面で大きな影響力を持つようになった。大連は、イースト・ニューヨークと言われるほどだ。
 また、建国の経緯と地理条件から、産出される鉱産資源の多くが1960年代まで日本の重要な生命線となったため、日本とのつながりが非常に強い。
 1970年代半ばより本格的工業化が再開して80年代半ばには経済力が大きくなったため、国力と軍事力によって影響力を発揮するようになっている。
 冷戦崩壊後は、ソ連(ロシア)の脅威が大きく低下したため、南部国境で接する北中国と南東部の韓国を中心に見ればよくなり、ロシアやモンゴルを始めとして海外に対して活発な動きを見せている。
 そして経済的には、アジアの工場、世界の工場として強い影響力を持つようになり、1990年代からはアメリカ、日本との経済摩擦も数多く発生して問題化している。
 ただし、近年は地下資源の多くで減少傾向が進み、また産業発展により国内消費すらまかなえなくなり、資源高騰の昨今にあっても大きな力は発揮できていない。また、慢性的に続くアメリカ資本による各種原料資源企業の支配には、不満の声が常に存在している。
 なお、経済発展により大衆の生活レベルが大きく向上すると、自らの数歩先を歩むアジア系国家である日本文化の浸透が進む。また、富裕層、上流階層、知識階層のかなりを、建国前からの裕福層となる日系と日系文化を持ったままのコリア系が占めるため、現代日本文化とかなり似た側面を持つようになっている。
 そして、冷戦崩壊頃より欧州同様日本などとの経済統合、最終的には国家の連邦化への動きを見せており、これも中華(思想)地域との軋轢を生んでいる。

 ・民族
 20世紀までは、満州族父祖の地とされ長らく荒野に置かれ移民や流民は強く規制されていた。人口が飛躍的に拡大したのは、華北地域からの移民が大量流入するようになった20世紀に入ってからだ。もっとも、共産中華の成立と中華戦争の混乱時の大量流入を最後に、中華中央部からの移民・流民には歯止めがかけられた。
 しかし、民族分類から見ると、富裕層、支配層はアメリカ合衆国同様にマイノリティーが中心になる。
 この国の上流社会は、現地民族や多数派のチャイナ系、コリア系ではなく、実質的な支配層であるアメリカ移民(企業)と日系移民(+日系企業)により構成されている。この歪んだ構図と強引な建国の経緯によりイスラエルと比較される事が多く、南北中国など一部の国はいまだにこの国を正式承認していない。大連やハルピン、長春に名を戻された旧新京の日米人街及び居住地区は、「租界」と呼ばれるほど。また、日米双方の人々は、互いにマイノリティーを自覚するためか古くから結束は堅い。
 ただし日系の全てが富裕層ではない。
 戦前・戦中に移民した者の多くは開拓移民だったからだ。アメリカの占領統治で辛うじて権利は維持されたが、その後中華系住民からは疎外される事も多く、全てを失う事を受け入れて日本本土に帰った者も多い。また、旧租借地域を中心に日本人の多くが残り、また中華中央や朝鮮から日本本土より満州地域を選んだ者が多く移住し、これらも多くが富裕層とは呼べない存在となった。しかし日本人社会全体が、自らの維持のために可能な限り同胞を援助したため、今日では非常に大きな勢力を持つに至っている。ただし、日本列島に対しては屈折した感情も強く、民意の点で「日本民族」であっても「日本人」だという意識は低い。
 いっぽう、1950年代に大量に移民・流民として渡ってきたコリア系は、単なる貧民層だけでなく、日本列島から流れてきた者、祖国で親日系とされた者、クーデターや政変の度に追われた者から成っている。特に、李承晩政権時代に満州に移住した親日系とされたコリア系の数は非常に多く、1945年から10年間の間に彼らの総人口の三分の一近く(約800万人)にも及ぶ。コリア系で日本語が普及しているのもこのため。そして移民者のかなりが、日本統治時代の知識階層、技術者、官僚、軍人だったため、戦後韓国の発展を著しく阻害したと言われる。戦後、日本本土から直接流れてきたコリア系も多い。
 また満州(東亜連邦)に移ると、他民族と結婚したり家系図を偽造してまでコリア系である事を捨てる者も多い。コリア系の半数以上が日常でも日本語を話し、自らを日本人だと言う事も多い。名前の多くが日本名で、一部が中華名になった。そして、国内の中華系色の希薄化と高価値労働力の確保から多くを受け入れた東亜連邦と韓国の関係は、同じ西側陣営ながらも常に政治的緊張状態が続いている。現在では、冷戦崩壊後の韓国の独自路線もあって政治的断絶状態に近い。
 そして最大勢力となるチャイナ系市民だが、捨ててきた故郷を含む中華中央部と違って豊かで公正な社会を持つこの国と政府を強く支持している状態が建国以来続いている。
 なお、ロシア系はロシア帝国時代から住んでいた者とロシア革命時に亡命してきた者が冷戦期間での過半になる。これに加えて、革命時に世界各地に亡命していたい者が一部合流している。冷戦崩壊後には、ソ連崩壊による混乱で労働者としての移民が増加し、近年は資源高騰を受けて比較的裕福な新規移民が増加し、ハルピンを中心に独自のロシアコミュニティーを形成している。
 なお、ロシア革命からソ連崩壊までは、ロシア正教を正しく守る最重要地域とされ、宗教を求めてロシアからの亡命が続いたほどである。
 しかしソ連崩壊後はロシア本国とも和解し、逆にロシア本国に経済進出して大きな力を持つ。さらにここ5年ほどは資源問題などによるロシアの隆盛が大きなり、太平洋方面の前哨基地としてのハルピンに注目が集まり、ロシアからの移民が増加している。

・その他の国の概況
 ・アジア
  ・中華地域の概況

 1911年の清朝滅亡以後、近代史上では長い分裂と争乱の時代を迎える。そして第二次世界大戦後の中華中央部は、大きく2つの政治勢力に分裂した。周辺地域も分離独立を続け、清朝で達成されていた巨大な中華帝国の復活はなされていない。また、今後も当面はありえないと言うのが国際的な一般常識となっている。
 だが、中華中央部にある二つの国家は、常に中華統合というスローガンを掲げて膨脹外交を取るので、国際問題となる事が多い。
 なお紛争と対立が多く、東亜連邦(満州)以外は経済的に遅れた地域が多い。

  ・南中国(中華民国)
 1912年に成立した「中華民国」が正式名称。
 第二次世界大戦前後の混乱期に、日本の侵略、中華共産党の拡大、自らの内政不備などにより中華地域の統一に失敗する。その後、何とか国家を維持できたのも、冷戦構造の出現とアメリカなど西側諸国の支援があったからだとされる。
 なお政治的には、元首として蒋介石を総統(実質的には永世大統領)として長らく仰いでいた。また、ナチスと共に滅びた筈の全体主義的傾向が強い政府となる。しかし冷戦時代は、共産主義陣営との対抗上西側陣営に属し、現在も北中国との対抗上アメリカ、日本などとの同盟関係を継続している。
 内政的には、年が経つほど官僚が極めて強い勢力を持つようになり、官僚腐敗も年々深刻化している。特に経済の中心である上海を中心とする上海閥と呼ばれるグループの台頭と腐敗が強く問題視されている。
 国土は、華中、華南と呼ばれる緑豊かな地域を占め、稲作の中心地帯を押さえており、総人口7億を抱える農業大国。総人口数も、インドに次ぐ世界第二位にある。
 ただし、北中国(中華人民共和国)との対抗上、分不相応な軍備を維持し続けねばならず、財政状態は常に悪い。しかも、政治的・戦略的環境から外資の投資も不活発だった。
 80年代に入るまで、名目一人当たりGDPは、世界最貧国待遇だった。当時の例外が、租界から発展し経済特区として整備された上海地区と香港に連なる広東の深セン地区だった。上海の旧租界、英領香港を通じて大量の外資が流れ込んで、極めて安価な労働力を使い加工業が発展した。
 一方では、蒋介石没後から始められた限定的な民主化と政治改革と、同時に外資主導の経済発展に力が入れられ、90年代後半より国力も右肩上がりで増大している。
 ただし経済の多くは、21世紀初頭の現在でも外資と沿岸部の一部民族資本家に牛耳られており、市場経済はまだ多くの面で不完全で沿岸部と内陸部を中心に地域格差も激しい。
 また一方で、経済の発展は税収と国庫の拡大をもたらし、必然的に軍備増強へと繋がった。このため、70年代まで北側優位で均衡していた北中国との軍事バランスは80年代には覆す事ができた。21世紀初頭の今日では、南側の軍事力が完全に勝っており、軍事力を背景に強硬外交を展開することが多くなっている。
 なお、北中国への対抗から冷戦時代全般を通じて西側陣営としてのスタイルを強く取る政治姿勢を常に続けた。今日でも、アメリカなど環太平洋西側諸国との外交関係は比較的良好で、隣国韓国よりも日本との関係も良い。ただし、東亜連邦との関係だけは常に悪く、いまだ解決の糸口は見えていない。
 また、今現在に至るも西側中古兵器、廉価兵器の格好の市場となっており、国内には在中アメリカ軍の戦術核が多数存在する。

  ・北中国(中華人民共和国)
 「中華人民共和国」が正式名称。極端な一党独裁の共産主義国。同時に軍(軍閥)の権力も強く、為政者ですら軍部の意向を無視することはできない。
 国土は華北地域を中心にシルクロードやチベットの入り口付近にまで広がり、総人口は5億を数える。ただし、50年代から70年代にかけての無計画な人口増加政策の影響により、無軌道に人口が肥大化している。このため世界有数の小麦生産国であるにも関わらず、かなりの食料輸入国となり国庫を締め上げている。
 政治的には、共産主義国として成立するが、同時に強い民族主義、大国主義を持っていたため、共産主義の盟主であるソビエト連邦との関係は60年代には悪化した。「文革」時期は一時的に断絶して国際的に孤立化したほどだ。しかし、南中国や東亜連邦との関係もあって、東側陣営には属し続けた。核兵器が開発できない限り、単独での対立は国家存亡を意味するからだ。
 しかも、南中国と東亜連邦との紛争は、十年単位での恒例行事となっており、国際評価は常に最低であり続けた。
 ソビエト連邦崩壊後、世界最大の共産主義国となるが、人口が多い事と核(原爆)を保有する以外これといったプレゼンスはない。一般工業力も、せいぜいが60年代までのソ連工業のコピーでしかない。ソ連崩壊以後活発な外交を展開するが、軍事と核関連以外で関係を強めようとする国も少ない。
 1970年代後半から行われた改革解放路線と市場経済導入も、度々起こった政変と軍事プレゼンス、そして近隣諸国との強い対立によってあまり成功していない。近年ようやく経済発展の兆しが見えつつあるが、南中国や東亜連邦など近隣諸国との関係から、外資の参入は依然として不活発なのが現状である。
 また、広い国土を持つが草原や砂漠など乾いた土地が多く、無理な農業生産力増大と過剰な人口が消費する原料資源のせいで、砂漠化などの自然破壊が異常な早さで進むなど数多くの問題も抱えている。
 さらに常態的となっている極端に多い軍事費が財政を圧迫しており、軍事予算に伴う重税が国民生活を困窮させ続けている。
 そして、核兵器を持つ大国のコントロールが通じない独裁国家という事で世界的な評価は低く、常に近隣諸国と深刻な対立を引き起こしている。
 このため、隣国の南中国や東亜連邦、そして日本、アメリカなどと激しく対立し、常に軍事的緊張が続いている。

  ・チベット
 清王朝滅亡以後、中華中央からの独立の動きを見せる。
 第二次世界大戦後に発生した中華戦争時、アメリカ、イギリスなど西側諸国の圧力と、連合国(国連)の支持を取り付けるため中華民国が率先して自治地域として統治を委ね、中華戦争後に国連委任統治となる。これは、チベットへの中華側からの路を持つ共産勢力を現地に入れないためと、インドと中華地域のバッファー・ゾーンを西側が欲したからだった。
 だが、正統な領土の回復を旗印とした中華人民共和国軍は、中華戦争後の1956年に一度チベット侵攻を実施している。この時は、アメリカ軍が空挺部隊を緊急展開。人民解放軍の前に立ちふさがる事で撤退させている。そしてこれにより、チベット問題は一気に政治化した。
 その後も、たびたび共産側の動きがあったが、全て国連やアメリカの動きにより中華人民共和国側の動きは封殺されている。
 そしてチベット自身は、冷戦の間は政治・経済の未熟から国連委任統治領として過ごし、国際的な流れと共に徐々に独立の準備、近代国家としての整備が緩やかに進められる。そして1989年の冷戦崩壊が決定的となった年、南北中国を無視する形で独立にこぎ着ける。
 独立後は、バチカン市国同様、宗教指導者が国の元首となる国家として成立。内政的には、おだやかな状態が続いている。
 ただし、南北中国の対立の影響を受けて、常に脅威にさらされている。近隣の脅威に対して国軍の力もまったく足りず、国連のPKFの駐留が行われることもあるなど、対外環境が安定しているとは言い難い。
 産業面では、地下資源の存在は確認されているが、自然環境が厳しくて採掘には至らず、近代産業も一部繊維産業ぐらいしかない。標高4000メートルを誇るチベット高原に存在するため農業も放牧のみで、観光を重視するしか外貨獲得手段がない。21世紀初頭の現在も、経済的には世界最貧国の待遇を受けている。
 だが民度は高く、内政は安定している。
 なお近年は、ヒマラヤ山脈を挟んだ国々との関係を強めており、国連からの自立を図るろうとするも中華地域との対立を深くしている。

  ・東トルキスタン共和国(ウイグル)
 同地域では、チベット同様、清王朝滅亡以後、一部の勢力が中華中央からの独立独立の動きを見せる。しかし独立には至らず、第二次世界大戦を終えることになる。
 その後は中華民国の一地域として過ごすが、中華戦争と共に変化が訪れる。
 中華戦争時、北中国(中華人民強国)は、援助を受けるソ連側との太い通商路がなかった。アメリカに旧日本軍が支配した満州と内蒙古を抑えられたため、ソ連に依頼して中央アジア側から補給路を開設してもらう事になる。
 しかしソ連側も、鉄道がなく、まともな道もない遠距離での負担の大きい援助に難色を示し、また援助行動の国際政治的危険さから、何らかの見返りを要求する。
 これに対して、北中国側は当初、東トルキスタンのごく一部の割譲を行おうとした。しかしソ連は、領土割譲が援助の見返りという露骨な政治的動きを嫌うと同時に、逆に見返りが少なすぎるとして膨大な援助物資を満載したコンボイに停止を命令。
 当時敗走を続けていた北中国側は、背に腹は代えられないとして、援助の見返りに全域の自治権(自治独立)をソ連に委ね、ソ連は人民軍の協力を仰いだ形で人海戦術で中央アジアから鉄道を短期間で敷設して、中華戦争後半の兵站を支えた。
 そして文明の侵略の先兵ともなるソ連製鉄道の敷設は、同地域を完全にロシア人のものとした。
 そしてソ連は、民意を反映するという表面的な事象を国際政治上で展開して自治政府を設立。1956年に、東トルキスタン人民共和国として正式に独立させる。これは同時に、ソ連が自国の国際的発言権拡大のため行った政策の結果でもあった。またアメリカを中心とする西側も、民族自決による新国家建設に表立って文句を言うことはできず、またソ連との裏取引もあり独立を容認した。
 その後同国は、ソ連との関係が良好とは言いかねる北中国との緩衝地帯としての役割を果たした。そして冷戦崩壊後は、北中国との対立、中央アジア諸国の混乱に苦慮しながら、民主国家としての再編成が進められているが、他の中央アジア諸国にも見られるように事実上の永世大統領による独裁が続いている。
 ただし現在では、中華地域の一つというより、中央アジアの一地域として国際的にも認知されている。
 なお、国内には千年以上前の遺跡が数多く存在するが、一九世紀末頃の欧米の持ち出しと、ソ連時代の発掘により国内に見るべきものは少なく、近年返還運動が盛んになっている。

  ・韓国(大韓民国)
 朝鮮半島地域は、歴史上長らく清国の属国として扱われ、日清戦争によりようやく近代国家的意味での独立を得る。しかし、1910年から45年までの約35年間、日韓併合という形で日本領として併合され、完全に独立を奪われてしまう。しかし大戦後、日本の敗北により環境が激変し、アメリカ軍を中心とする国連の占領統治を経て、1948年にようやく完全独立を果たした。
 もっとも、この歴史的流れで注意すべきなのは、朝鮮半島住民は常に蚊帳の外に置かれていたという事だろう。
 また1945年から中華戦争の終わる53年頃にわたって、北部山岳地帯を中心に共産ゲリラが蔓延し、さらに国内での各派の争いから事実上の内乱状態となり国土が大いに荒廃した。また、主に満州への移民の増大の背景には、この内乱が関係していたのは疑う余地がない。
 なお1948年の独立時、日本の統治時代に作られた、近代制度、産業基盤、社会資本により十分独立できるレベルにあったとされる。極端な話し、日本の総督府の組織を、そのまま政府組織としてしまえばよかったからだ。このため連合国(=GHQ)は、消極的な占領統治しか行わなかった。
 いっぽうで、日韓の協定による日本人、日本資産の一斉引き上げと、国家レベルでの固定資産買い上げにより、建国時から極端に国内資本・資産、人的資源が大きく減少する。
 また初代大統領以後65年まで、反日家大統領が続いた。このため国内では、異常なほどの自国民の親日派弾圧がおこなわれる。弾圧により、初期の段階で統治時代に軍人、官僚、企業家だった者を中心に、総人口の約三分の一が主に満州地方に逃れるように移住した。このため、著しい人的資源の不足に悩んだ。その後政策を一部緩和して移住者の帰国を求めるも、帰った者は少ない。
 また、独立以後必要以上に軍部が権力を握った事から、統制経済と不必要な軍備偏重の予算という二重の足かせによって経済そのものが停滞した。しかも、事実上の軍事独裁という事でアメリカを始め西側諸国が、共産化しない程度の支援や経済活動以外しなかった事がこれに拍車をかけている。旧宗主国だった日本も、条約によって支払った賠償以外は、援助や投資の過半を東亜連邦や東南アジアに向けている。扱いとしては、中南米の一部の国々近いだろう。
 それでも、80年代に民主化の共に、経済と産業も一定の発展を開始する。90年代初頭には新興工業国(NIES)の一国として注目を集めるが、日米や東亜などの外資に頼りな経済の不安定さは否めない。結果、90年代後半には大規模な不景気が到来して、韓国経済は以後低迷した。
 このためか、近年急速に異常なほどの民族主義的な反米・反日傾向を強めており、核軍備問題から両国からの経済制裁にまで至っている。そして、国内の反米・反日感情の強さから、東アジア条約機構脱退も時間の問題とすら言われる。
 そして、建国の経緯とその後の状況から、最も近隣の日本、東亜連邦との関係が悪い事が多い。また、アメリカの対韓国政策もおざなりな事が多いため、核実験疑惑を引き起こしたり、政治的にも親ソ、親北中国傾向を見せるなど、国際的にもアジアの問題児の一人と見られている。
 総人口は約5500万人で、80年代に軽工業が発達したが90年代後半から経済低迷が続き、その後遺症のため失業率は高い。また、不要なほどの学歴社会が民衆の生活を圧迫している。

(※アメリカの極東防衛には満州、日本があれば十分で、朝鮮半島は満州防衛のための後方地にすぎない。または、日満の中間地点にすぎない。このため、共産化さえしなければ、あとはどうなっても良いと考えられていた。また、域内に有望な資源もなく、人口流出も続いたため、長い間市場価値も低いと判断され、軍事統制もあって外資の流れがなかった。これが朝鮮半島全体の経済成長を阻んだとされている。)

・インドシナ地域
 ・ベトナム
 フランスによる植民地統治とそれに続くに日本の占領の後に、大戦後再びフランス軍が入り込んだ。だがすぐにも紛争状態となり、最終的には親西側系の南ベトナムと民族的共産主義政権の北ベトナムに分裂する。両者は、60年代に激しく戦い、東西の代理戦争となって両者の外国軍が大量に入り込み国土が荒廃する。しかし東西陣営双方共に決定打に欠けたため戦線は完全に膠着。75年に国連仲介で停戦合意が成立する。以後四半世紀以上にわたり、冷戦の象徴として睨み合い状態が続いた。
 だが、北ベトナムは同じ主義の共産主義国家ソ連から遠いため、キューバ同様孤立無援状態に置かれ、戦災もあって経済的には低迷する。しかし冷戦崩壊後は西側各国とも妥協、国内にも市場経済を導入し近年急速に経済力を伸ばしつつある。
 いっぽう南ベトナムは、戦争後にアメリカなど西側の援助により何とか国を立て直した。特に日本や東亜連邦の援助と支援は欠かせなかった。80年代後半には限定的ながら政治の民主化にも成功し、90年代半ば頃より相応の経済発展を開始する。
 奇妙と言うべきか、両国の天敵は中華国家である南北中国で、どちらの国も二つの中華系国家との関係は悪い。
 なお、国連を仲介した二国間での会談が毎年決まった時期に行われるが、冷戦崩壊後は空気が一変し、いかにして平和的に民族再統合を行うかが命題となった。
 そして、経済協力などが進められる中、両者の境界線に近い旧都フエでの統合会談は徐々に現実味を帯びたものになってきている。
 最終的には平和統合し、二つの政治制度を持った連邦国家になるのではと言われている。

 ・ラオス・カンボジア
 ラオスは、フランス統治下の頃から二つの王朝が存続していた。間接統治の一種のためだっだ。その方が、植民地統治に都合が良かったからだ。その後第二次世界大戦で日本の占領を受け、その中で片方の王朝を母胎にラオス王国が建国される。
 第二次世界大戦後、ベトナムとの戦争の中でフランスの都合で正式に独立する。
 その後国内は、右派、左派、中道派に分かれて対立し、これに南北分裂したベトナムの状況が影響して、激しい対立状態となった。そしてラオスの混乱に一応の終止符が打たれたのも、1975年のベトナム停戦となった。
 ベトナム戦争の停戦で、ようやくラオスの混乱も収まり、西側優位のベトナム停戦の影響を受けて統一王国として再出発する。しかし、北ベトナムの支援を受ける民族主義的左派は勢力を減退させるも国内に存続し続け、以後冷戦崩壊まで混乱と事実上の内乱が断続的に続く事になる。
 混乱が収まるのは、冷戦崩壊から数年を待たねばならず、その後は南ベトナムに一歩遅れる形で緩やかな発展が続いている。

 一方カンボジアは、他のインドシナ諸国同様の混乱に見舞われるも、1949年に独立を勝ち取る。
 その後ベトナム戦争では反米的行動を取ったため、アメリカがバックに付いた右翼革命が発生。右翼革命政府は、左派弾圧を行った。
 ベトナム戦争後も、軍事力とアメリカなど西側諸国の支援を背景にした親米右翼政権が続く事になる。だが事実上の軍部独裁の政府は民衆の支持を徐々に無くし、冷戦崩壊後の1992年右翼革命で追放された王族のシアヌークが復権。その後は立憲君主国として安定して今日に至っている。
 なお、北中国(毛沢東)の影響を受けた原始共産主義を掲げたポル・ポト派は、左派弾圧の折りに最も危険なイデオロギー勢力として徹底的に弾圧・殲滅されており、残余のごく一部がタイ国境で長らく小規模なゲリラ戦に終始した後に降伏して消滅した。

・中東
  ・イラク

 イラクは、イラン・イラク戦争までは、イスラム社会で最も西欧化が進められた国と言われた。しかし、戦争によりバース党による軍事独裁、正確にはフセイン大統領を中心とする独裁が進んだ。またその統治と戦争姿勢も、少数民族を弾圧したり毒ガスを使うなど酷かった。
 そして1990年、勝手な主張により隣国クェートを侵略。極めて強い国際非難を浴びる。結果国連軍が編成され、湾岸戦争勃発により世界の敵とされた。そして世界はイラクの行動を諫めるるが、強硬姿勢を崩さないフセイン政権は国連の要求を受け入れず。侵攻を開始した国連軍は、91年2月にクェート奪回とほぼ同時にイラク中枢部にまで侵攻。バクダッド占領と同時に、フセイン政権は電撃的倒された。
 その後イラクでは、国連主導による民主化政策が推し進められ、各地域の民族情勢に対応した連邦化を前提とした国家建設が行われている。そしてフセイン政権打倒後続いていた混乱も、5年の時を経た頃からそれなりの安定を見せるようになっている。
 ただし、民主化=西欧化(アメリカ化)という図式はどうしてもぬぐい去れず、近隣には旧時代的な王権国家(一族独裁)も多いため軋轢も多い。
 そして最大の問題は、年を経るごとにイスラム原理主義勢力との衝突が絶えないことだろう。
 特に、隣国イランとの対立が再燃化している。

  ・イラン
 イランは、1979年の原理主義革命により親米王朝が打倒され、宗教的な独裁体制が敷かれた。その後イラン=イラク戦争では、被害射的立場に晒される事もあったため、原理主義であっても日本など一部西側から同情的に見られた。
 その後1989年に革命の指導者ホメイニが死亡してからは、反米政策を軟化。内政的にも今のところは改革派が優位を占めている。アメリカ以外の西側諸国とも、徐々に相応の交流を行うようになっている。
 しかしアメリカ自身の伝統的な反イラン政策もあって、対立状態が続いている。


 ・欧州
  ・ドイツ(ドイツ連邦共和国)

 ドイツは、第二次世界大戦でからくも無条件降伏という名の滅亡を免れた。だが戦後数年間は、ナチス解体と民主化監視のため進駐してきた連合軍(米英仏)による強い指導が行われ、事実上の独立が奪われた形になった。特に、徹底したナチス撲滅と民主化、軍の解体・再編成が進められる。
 しかし、アメリカとソ連の対立つまり冷戦構造の出現で、中部ヨーロッパの核として再建が進む。その後、「マルクの奇蹟」と呼ばれた経済復興によって、西側屈指の産業国家として再生。戦後のドイツは、平和外交を基本として欧州随一の大国の地位を築いている。近隣に対しても協調外交が基本路線であり、湾岸戦争までは軍隊の海外派遣も憲法で否定されていた。
 国土は、欧州ではフランス、スウェーデンに次ぐ面積を持つ。大戦末期に東プロイセン地域をソビエト連邦軍に占領され失うも、国土の過半は第一次世界大戦後のベルサイユ会議で定められた地域をほぼ保った。また、ソ連軍占領地内に取り残され飛び地状態になったケーニヒスベルクは、戦後一時期封鎖(「ケーニヒスベルク封鎖」)されるなど冷戦の象徴として有名となった。
 また、国土に比例して人口も欧州では最も多く約8800万人を数え、ロシアに単独で対抗できる唯一の欧州国家といえる。
 その経済力は、名目GDPでアメリカ、日本に次ぐ世界第三位で(約3・2兆$)、人口の多さもあって英仏の五割り増し近い数字を持つ。
 このため、ヨーロッパ連合(EU)随一の大国として中心的役割を果たし、また単独でも強い影響力を保持している。また、近年EU及びNATO東進による地位向上が目立っている。
 一方産業は、古くから工業大国として有名だった。化学工業、機械工業など高価値の加工産業が盛ん。また、高い工業力が生み出した兵器と軍隊もドイツの特徴の一つで、歴史上の経緯もあって世界屈指の陸軍国家としても知られている。欧州の戦車の過半数がドイツ製なほどだ。しかし、核戦力は保持せず、外征も湾岸戦争が初めての例となった。
 なお冷戦時代は、正規師団16個を中心に常備軍80万人を数える陸軍大国で、この西側有数の陸軍力こそがソ連赤軍主導による第三次世界大戦抑止に大きく貢献したと言われた。

  ・ポーランド
 ポーランドは地理的歴史的に、ドイツとロシアという二大勢力にはさまれた地理環境にあるため、絶えず民族存亡の危機にさらされている。
 第二次世界大戦でも、ドイツとソ連の侵略で独立を奪われた。さらに終戦時から始まったとされる米ソの対立により、東西分裂を余儀なくされた。その後冷戦時代を通じても、分断国家としてまた東西の最前線としての半世紀を過ごすことになる。
 この象徴が、東西両国に多数駐留した外国軍ということになるだろう。その数は、最盛時に東西合計して100万人を優に超えていた。
 またドイツが大戦を耐え抜いた事で西から圧迫を受けたままで、また東側はソ連の大幅な領土割譲(ソ連は返還としている)を受けたため、東西両ポーランドの領土は小さなもので甘んじた。しかも東側ではソ連による強制移民も多く、民族大移動に近い強制的な移住が実行された。
 だが、苦渋に満ちた状態が続いただけに強い民族意識を持っており、冷戦崩壊の象徴になると共に、いち早く平和統合に成功している。
 しかし、東西分裂中に西ポーランドがある程度発展した事から、東西格差による経済的苦境が続くなど、統合後の問題が皆無ではない。

  ・バルト三国
 冷戦構造の出現と共に、西側との緩衝地帯を欲したソビエト連邦の意思を受けて独立復帰するも、地理的環境からソ連の衛星国としての地位に長い間甘んじる。政府も当然とばかりに、共産党一党独裁だった。しかもソ連の支配力と監視が強く、骨抜きにされた無気力な政府が続いたため民衆の不満は常に強かった。
 この象徴が五十六年のバルト動乱で、これらバルト三国が真に独立・自由化するには、冷戦崩壊を待たねばならなかった。
 現在では、他の東欧諸国共々民主化・資本主義化が推し進められ、小さくとも確固たる国造りが進められている。ただし、冷戦中に行われたロシア人移民問題が各国の悩みとなっている。

  ・チェコスロヴァキア
 第二次世界大戦末期のドイツ停戦の最中に、米軍と自由政府が進駐する事で、冷戦時代を通じて欧州で最も東側の西側諸国として過ごした。
 領土も、第一次世界大戦後のものからソ連に「統治」された東部スロバキアを除いた地域を保持。
 またチェコ地方を中心に、戦前からの東欧随一の工業国としてその存在感を示していた。
 だが、冷戦崩壊による東欧全域での民族主義の台頭により、チェコとスロヴァキアに国家は分裂、再編成されている。また各地方ごとにドイツ系、ハンガリー系などの民族を抱えるため、内政的に必ずしも安定しているとは言えない。近年では、ドイツのネオナチ(極右勢力)によるスデーデン地方問題が浮上している。
 なお、チェコ地方のガラス工芸品など加工業が主産業で、陸戦兵器がこの末席に名を連ねており、ドイツとの兵器販売競争は欧州経済圏ではかなり知られている。
 また、長い間西側最前線だった事もあって、小ぶりながら精強な陸軍を有していた。

  ・ハンガリー
 第二次世界大戦後、地理的要因から西側陣営の最前線の一角とされ続けた。また、それまで不在だった国王も擁立され、立憲君主国として冷戦時代から今日にかけて過ごしている。
 なお冷戦中は、民族的対立のあったルーマニアとの対立以外で、軍事的には特に存在感を示すことはなかった。また国境の半分以上を共産主義国と接していたが、ユーゴスラビアと接する国境が多くまた主戦場とされた場所から離れているため、ソ連の圧力は低かった事が影響していると言われる。西側諸国も、あえてほとんど駐留していなかった。
 冷戦崩壊後は、歴史と伝統に裏打ちされた東欧経済の重心の一つとして存在感を示している。
 

■二〇世紀末の日本軍