〜 本 遇 寺 の 歴 史 〜 その4
江戸期に書かれた書面を見て見ますと、
初代 道空、道清、道全 と次第相続し、寛文年間(1661〜72)に相続するものが途絶え、
庄屋をしていた同族の辻本小左衛門が俗体で寺を相続していたようです。
その後元文年間(1736〜40)に小左衛門の倅治良兵衛が法体して相続し
それより 恵明、諦了、浄応、雲了(玄了)、了念、法勇と法脈を繋いできたようです。
天保年間の文書に法勇の花押があり、本願寺宛に御開山御影壱幅拝領の願文が残されて
おりますが、当時の本遇寺は貧しく、上納銀子が整わず半礼金にて許していただきたいと
記されています。
安政年中に明瑞が相続し、そのあと慶応元年に死去に伴い養子静圓が本遇寺十六世住職に
就任いたします。静圓は河内国豊安村西光寺浄教の息で、その妻鶴尾も高安郡万願寺村の出と
記されておりますので、夫婦で当寺に入寺したものと思われます。代々総代をお勤めいただき血縁
関係もある辻本家のご親戚が当時河内国におられ、その関係で御縁があったものかもしれませんが
記録にはないので推測の域を出ません。
静圓は精力的に本遇寺の興隆に尽力されたようで、現在蓮如上人御祥月法要で拝読しております
「本遇寺縁起」を著し、什物の購入などを積極的に行ったことが記録に残されています。
明治三年に届け出られた書類によりますと、本堂七坪半、腕木門壱坪、庫裏十六坪、境内地七十五坪
となっております。
明治19年7月に静圓は亡くなりましたが、その葬儀の葬列順の記録が残されています。
先払・先箱・手替・先箱・手替・徒士・御導師・○尺・侍・従僧・路函・傘・曲碌 ・遠見・警固 金棒・麻上下
徒士・南桂寺・四人・侍・従僧・路函・沓・合羽籠・ 講中
白丁・白丁・白丁・丸提灯 白丁・輿・白丁 ・持香僧・当住 ・傘・教圓・西光寺 ・宝円寺・妙琳坊
松明・鞍拭・棒持・丸提灯 白丁 力者11人・ 法服七条・沓・ 裳附五条差貫・遍満寺
となって以下 当時の総代 辻本治郎兵衛、新谷考二郎、吉岡智一 と続いています。
なおその6年前に勤まった姑 妙寂?尼の葬儀には導師に続いて、横超寺の名前もあります。
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