昼寝番
忍術学園の図書室へ足を踏み入れたのは、随分と久しぶりだった。
書物の独特の匂いが鼻をつく静かな室内に、生徒の姿はほとんど見られなかった。確かもう放課後になっていたはずだ、と利吉は内心、首を傾げる。麗らかな天気に誘われ、部屋に篭るより外で遊ぶ生徒の方が多いのだろう。
それでも利用者があれば、仕事もある。受付に座っているのは六年生らしく、なにやら熱心に書き物をしていた。一見してその雰囲気は、仕事というより自習か。確かにこれほど静かな場所であれば、勉強もはかどるだろう。
受付の前に立つと、その気配に勉強中の少年が顔を上げた。仕草にあわせて肩をすべる艶やかな髪。六年生の立花仙蔵であった。
「何の御用でしょう」
利吉の存在は学園でも有名である。いかな利吉と謂えど生徒一人一人の顔など覚えていないが、おそらくは学園中の生徒が山田伝蔵の息子である利吉の顔を見知っている。
利吉は学園長に渡された書類を仙蔵へ手渡した。
「この本を見せてもらいたいんだが」
「……禁帯出資料ですね。ではどうぞ、こちらへ」
身軽に立ち上がり、受付の横の扉へと仙蔵は利吉を案内した。
明かり取りの窓が一つきりの書庫は薄暗く、埃の匂いが充満している。手燭を灯して、仙蔵は先に立つ。
迷うことなくある本棚の前で立ち止まり、件の巻物を利吉へ差し出した。
「室外への持ち出しを禁じられていますので、ここでお読み下さい。念のために矢立をお預かりします」
「写すのもだめなのかい?」
「禁帯出ですから」
非の打ちどころのない作り物じみた少年の笑顔に、利吉はひとつ吐息を漏らすと、素直に矢立を仙蔵へ渡した。
確かに持ち出しを禁じられた資料の中には、曰く付きの物も多いだろう。門外不出の秘書ならば、これほどの警戒も当然か。
手燭を棚に置き、仙蔵は礼儀正しく一礼すると踵を返した。
暗い書庫内を迷いもせず歩く少年を見送って、利吉は巻物を紐解く。
途端に立ち上がった埃に、利吉は盛大に咳き込んだ。
閉館時間だと利吉に告げにきたのも、仙蔵だった。
「もうそんな時間かい?」
床の上に所狭しと巻物や書物を広げ、利吉は埃で汚れるのも構わず床に胡座をかいていた。時間です、と再度繰り返し、仙蔵は書物を拾うとそれぞれ所定の棚へ手際よく戻してゆく。
「ここの蔵書は凄いね。一日中いたって飽きそうもない」
よほど気に入る資料でもあったのだろう。心なしか語調が軽い利吉に、仙蔵は薄く微笑む。
「一日中こんな場所にいらっしゃっては、頭から埃まみれになりますよ」
ぽん、と仙蔵が書物の表紙を叩くと、派手に埃が舞い上がった。口を押さえたものの間に合わず軽く咳き込む利吉に、仙蔵は素直に詫びる。
「申し訳ありません」
「いいよ。さあ、行こうか」
巻物や書類を棚に戻し、利吉と仙蔵は連れ立って書庫から出た。そのままに、利吉は図書室から退出する。
頭を下げる仙蔵の前で、音をたてて戸が閉まる。
遠ざかっていく利吉の気配を確かめて。
――仙蔵は大きく肩を落とし、溜め息をついた。
受付の卓に近寄り、影になっている隅で寝ている男の背を蹴りつける。
「起きろ、長次」
僅かにその人物は身じろぎし、寝返りをうつように仰向けになった。力なく上げられた長次の腕をつかみ、乱暴に上体を起こしてやると、上目遣いに睨みつけられる。
「……痛い」
独り言めいた低い呟き。睨む視線を仙蔵は真っ向から受け止める。
「もう閉館時刻だ。図書委員で、鍵を持っているのは貴様だろう」
告げられた言葉に長次はむくりと立ち上がった。いつもと変わらぬ不機嫌な表情のまま、鍵を取り出し書庫の扉を閉める。
勉強道具を片付け出した仙蔵に、長次は背を向けたまま低く問い掛けた。
「あと何日で終わる?」
「三日もあれば――」
唐突でありながらそのさりげなさに、思わず答えを返しかけて、仙蔵は動きを止める。
驚愕に目を瞠り顔を上げた端整な顔には、はっきりと狼狽の色があった。しかし窓の戸締りを確認して廻る長次の表情は変わらずに感情を否定したままである。
長年の付き合いとはいえ、まったく考えを読ませない横顔に呆れるよりも感心してしまう。
「……いつから、知っていた?」
「ばれてないとでも思っていたのか?」
「そこまで鈍くはない、か」
苦笑の形に口許をほころばせ、仙蔵は卓の上に腰掛けた。長い脚を組み、その膝に頬杖をついて、試すように長次を見つめる。
ここ数日長次に付き添い、柄にもなく図書委員の仕事など手伝っていた自分に、小平太や文次郎は笑っていたが、勿論純粋な善意ではない。
利用者の対応を仙蔵に任せ、とっとと眠ってしまう長次の横で、仙蔵は書庫の秘伝書の写しをとっていた。
門外不出の蔵書の中には、その価値が計り知れない物も多くある。手に入るなら金に糸目をつけない好事家垂涎の書が、埃にまみれて埋もれているのだ。
写本は金になる。書き写す、という過程で、自分の勉強にもなる。
「それで?」
告げ口をするなら、とっくにしているはずだ。出方の読めない長次に、仙蔵は自分から問い掛ける。
「諫言か? 取引か?」
「売るなら卒業してからにしろ。足が付いた場合、疑われるのは俺だ」
「……来年なら、真っ先に疑われるのは鍵を受け継いだヤツ?」
「俺は昼寝が出来るならそれでいい」
感情の読めない声は、純粋な本音。本来ならそこに小ズルさや計算があってもいいのに、他人の損得や駆け引きなど、この男には無縁なのだ。
仙蔵は艶やかな笑みを唇に刷く。
「しばらくは、貴殿の昼寝番なりと仰せ付かろう」
芝居じみた科白は果たして長次の耳に届いていたのか。
「閉めるぞ」
窓の戸締りを終えた長次は、入り口の戸に手をかけていた。慌てて仙蔵は卓から降りる。
戸を閉めた無人の室内に、訪れるは静寂ばかり――。
<終>