あるひるさがりのはなし。<前編>


 ある昼下がり。
「暇だねえ、乱太郎」
「そうですねえ、先輩」
 随分のほほんとした声が、暖かい空気の中を伝わっていく。声の主は保健委員長の善法寺伊作とその後輩、猪名寺乱太郎であった。
 2人は保健室当番であったのだが、このうららかな放課後に暴れまわろうとする輩なぞ少ないらしく、保健室への来訪者は全くない。暇をもてあました2人は縁側へ出て、茶などすすりながらひなたぼっこを決め込んでいた。
 2人の手が同時にそれぞれの湯飲みへと伸び、同時にそれぞれの口元に運ぶ。『不運委員』の十字架をともに背負う者同士であるからこそなせる、見事な息の合いようであった。
 ずずず。
「ふー」
「はー」
 一口茶を口に含み、2人同時に溜息をつく。
「平和だねえ」
「そーですねー」
 すっかり2人はくつろぎモードに入っていた。周りに花模様が見えるほど、2人の周りの空気は和みきっている。平和な時間は何時までも続くかに思えた。


 しかしそれはあまり長くは続かなかった。
「?」
 先に気づいたのは伊作の方だった。たん、と音を立てて湯飲みを置き、真剣な表情で保健室の入り口のほうに歩き始める。湯飲みを置く音で我に返った乱太郎は、慌ててその背中を追った。
「どうしたんですか、先輩」
「呼ばれた気がした」
 伊作はきっぱりと答えた。やや拍子抜けしたような表情で、乱太郎は問い返す。
「なんですかそれ」
「6年間保健委員をやっていると、一町先の怪我人でも察知できるようになるものさ」
「はあ…」
 なんだか遠い目をしている伊作を見上げながら、乱太郎は曖昧な返事をした。この先輩は時々訳の解らないことを言う。しかし、彼の勘は確かだということもまた、乱太郎は知っていた。
 実際、伊作の勘は当たっていた。保健室前の廊下を、猛烈な勢いで走ってくる人影がある。
「あれは…」
 乱太郎は目を細めた。影はどんどん大きくなってきて…そして自分の目の前にやってくる。
「きりま…ふぎゃ!!」
 呼び止めるまもなく、影――もといきり丸は、自分に猛烈な勢いをそのままぶつけてきた。抗う力もなく、乱太郎はきり丸とともに倒れ込む。目を回す乱太郎の上で、きり丸は頭を起こした。
「何でいきなり俺の前に立つんだよ!?おかげでぶつかっただろ!!」
「大きな声出さないでよ」
 理不尽な言い分に、乱太郎はきり丸をじっと睨んだ。先ほどぶつかられたのと、耳元で大きな声を出されたのとで、頭がガンガン痛んでいる。もう1つ文句を言ってやろうと乱太郎が息巻いたとき、目の前を、大きな手がすっと遮った。
「2人とも、大丈夫かい?」
 穏やかに語りかけるその声は、伊作のものだった。乱太郎は喉元まで出掛かっていた文句をぐっと飲み込む。一方のきり丸は、ふと我に返ったようだった。
「そ、そうだ!伊作先輩!!」
 きり丸は急に顔色を変えた。先ほど走ってきたときのような、少し青ざめた表情だ。
「中在家先輩が呼んでます。図書室にすぐ来てくれ、って。怪我人が出るかもしれないから、って」
「何だって!?」
 伊作の目つきが変わった。深刻そうな表情をきり丸に向ける。
「きり丸、今なんて言った?」
「中在家先輩が呼んでます」
「その少し後だ」
「図書室に」
 古典的な展開になりかけたのを察知した伊作は、軽く溜息をついた。仕切りなおすように、きり丸の言葉を遮る。
「聞き方が悪かった。長次は『怪我人が出るかもしれない』と――そう言ったんだな?」
「はい!」
 伊作はきり丸の頭に手を置き、まっすぐに瞳を見つめた。
「事情を説明してくれないか?」


 きり丸が説明した事情はこうだった。
 図書委員のきり丸、長次、雷蔵が当番活動をしていたときのことだ。それまで黙々と本の整理をしていた長次が、ふと顔を上げた。直後、壁の方で物音がしたと言う。
「中在家先輩はすぐに縄標を構えたんスけど、急に構えを解いて、俺を呼んで」
「僕を呼んで来るよう、言ったんだね」
 伊作が問うと、きり丸は黙って頷いた。伊作は、きり丸の頭の上に置いていた手を、肩の上に移した。
「知らせてくれて、ありがとう。今すぐ行くよ。2人はここに残ってて」
「いいえ!私も行きます!」
 伊作の言葉を、大声で遮ったのは乱太郎だった。何時取りに行ったのか、救急箱を抱えている。
「私にもお手伝いさせて下さい!!」
「じゃあ俺も行きます!」
 乱太郎に続き、きり丸も声を上げた。伊作は頭痛を感じた。
「乱太郎…危険かもしれないんだぞ?それにきり丸、『じゃあ』はないだろう」
 伊作の言葉に、乱太郎ときり丸は顔を見合わせた。そして再び、顔を伊作の方に向ける。
「先輩が駄目って言っても行きます!!」
「行きます!!」
 伊作の脳裏に、彼らの胃痛もちの担任がふと浮かんだ。ああ、いつもこんな苦労をしてるんだな。そう思い、心の中でそっと手を合わせる。
 伊作は溜息をついた。
「仕方がないなあ…来るな、って言ってもついて来る気なんだね」
 乱太郎ときり丸は、強い眼差しで伊作を見つめ、こくこくと頷いて見せた。伊作はあきらめたように、再び溜息をつく。
「わかったよ。ついておいで。ただし」
 伊作は2人の目の前で人差し指を立てた。
「絶対に僕から離れないこと。いいね?」
 乱太郎ときり丸は、唇をきゅっと結んで、力強く頷いた。


●次へ      ●戻る