不似合いなひと<前編>

「ぷはぁ」
 少年は顔を上げ、息を思い切り吸い込んだ。同時に、歓声が上がる。少年が横を見ると、手ぬぐいを巻いた頭がまだ桶の中に半分隠れていた。
「負けましたよ、重さん」
 未だ乱れている呼吸を整えながら、少年は横の人物に話しかけた。少年の赤みを帯びた髪が、水にぬれて額に張り付いている。話しかけられて、重は桶から頭を上げた。
「へへ、俺の勝ち」
 重は軽く顔を振った。ぬれた前髪から雫が飛び散る。あれだけ長く顔をつけていたのに、彼の息は全く乱れていない。放っておけば、軽く倍の時間は顔をつけていたことだろう。
「阿呆」
 嬉しそうにする重の後頭部を、同僚の舳丸が小突いた。なにすんだ、と重は悪態をつきながら舳丸を見る。
「お前水練だろう?勝って当たり前だ」
 舳丸はさらりと言う。頬を膨らませて何か言おうとする重の頭を、舳丸は掴んだ。
「すみませんね、コイツまだガキなもんで」
 言いながら、重の頭を無理矢理下げさせる。表情には出ないが、相当の力がこもっているらしい。痛い痛いとわめきながら、重は必死にその手をどけようとしていた。
「いえ、お気になさらないで下さい」
 その様子を見ながら、少年は微笑んだ。ふと別の方向に目をやると、無邪気な表情でこちらに手を振る水夫――網問の姿が目に入る。
「伊作さーん!!今度はこっちで一緒にお相撲しませんかー?」
 よく見れば、その後ろには間切や航といった他の水夫連中もいる。これは断れそうにないな、と小さく呟いて、少年――もとい、伊作はそちらへ足を向けたのだった。


 伊作が海に来ることになったのは、例によって例のごとく学園長の思いつきのためであった。
 たまたま保健委員会の活動報告に学園長室に行ったとき、学園長がふと伊作の顔を見たのがきっかけだった。
「――どうした?少し疲れておるようじゃな」
「大したことはありません。少し報告書のまとめに手間取っただけです」
 学園長の問いかけに、伊作は『疲れた』笑みを浮かべてそう返した。実際は『少し』手間取ったどころではない。その報告書をまとめるのに伊作は3日ほど徹夜する羽目になったのだ。
 そんな伊作の気持ちを知ってか知らずか、学園長はにやりと笑ってこう言った。
「そうか。疲れには気分転換が一番じゃ。海へ行ってきなさい」


 海へ行って来い、と言ったといえど、遊びに行けと言ったわけではない。どうやら、臨海学校の打ち合わせの書状を誰に届けさせようかと、考えあぐねていたところだったようなのだ。
 ――僕を気遣ってくれているのか、たまたま僕がいたからなのかわかりやしない。
 伊作は心の中で溜息をついた。
 初めは良かった。久々に潮の匂いを嗅いで、新鮮な気分になることができた。
 しかし海に着くなり、この珍しい来訪者に水軍連中が大いに盛り上がり、かなり手荒な歓迎を受けることになってしまったのだ。この日はたまたま、お頭である第三共栄丸や四功の連中が上乗りなどの計画の打ち合わせをしていたため、それを待つ間、という名目でかなりの時間、付き合わされてしまっている。
 ――彼らに悪気はないんだろうけど。
 伊作は網問の足払いを避けながら思いをめぐらせていた。水練の重との『どちらのほうが息が長く続くか競争』を終えたかと思えば、今は水夫連中との相撲対決になっている。
 網問は見た目によらず、やたらガタイがいい。しかし力で押してくるかと思えば、小技を連続して繰り出してくる。
 ――厄介だな。
 流石は精鋭、と伊作は舌を巻いた。正直、ここまで苦戦するとは思っていなかったのである。
「――ッ!!」
 伊作の口から、思わず声が出た。考え事に気をとられていて、砂地に足を取られてしまったのだ。気づいたときには、網問の足が、伊作の足元を救っていた。
「隙ありッ!」
 網問の声と同時に、伊作の背が地面についた。伊作の真上に、網問の顔がある。
「勝っちゃった」
 網問がぽそりと呟く。首をひねりながら、伊作は身体を起こす。網問はゆっくりとした動作で両の手を握り、胸の前に持ってきた。何をするのかと皆が覗き込もうとしたその刹那、網問はその手を一気に上に突き出した。
「やったーッ!!」
 急に網問が大きな声を上げたもので、周りにいた面々は思わずあとずさった。網問は一人、頬を紅潮させ、興奮状態に陥っている。
「やった!!勝った!!勝ったよ!!ねえ見てた!?」
 網問は周りにいた連中の肩をだれかれかまわず掴み、がくがくと揺さぶる。揺さぶられた者はただただその勢いに気おされ、頷くのみである。
「伊作さん!!」
「はいっ!」
 網問が急にこちらを向いたので、伊作は思わず背筋を伸ばした。網問はぱたぱたと走り寄って来たかと思うと、伊作の手をとった。
「勝負してくれてありがとう!!その健闘を称えて、いいトコに連れてってあげる!!」
「え…ちょっ…」
 待って下さい。
 そう言う間も与えず、網問は伊作の手を引いて――というか、半ば掻っ攫うようにしてその場を後にした。あとに残されたものは、しばし呆然とするしかなかった。
「よお、どうしたんだ皆」
 固まっていた皆は、賑やかな声に引き寄せられてやってきた義丸の声で、漸く我に返った。
「あ、義丸兄さん」
 航が真っ先に振り返った。
「実は網問が相撲に勝って伊作さんが連れ去られたんです」
「はあ?」
 義丸は眉を吊り上げた。何のことやらさっぱり解らない。
「――なんだかよく解らんが」
 義丸はぽりぽりと頭をかきながら言った。
「伊作君がとことん運がない、ってのは確かなようだ」


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