〜艱難辛苦〜

 とある清々しい朝のこと。
 その朝の風景とは対照的に暗い表情の青年が我が家を出る。
 出る、と言うよりは抜け出す、という表現の方が正しいだろうか。そっと音を立てないようにして玄関の戸を開ける。さっと抜け出して静かに戸を閉めると青年はほっと溜息をついた。
(なんでこんなことしてるんだろう…自分の家なのに)
 青年はもう一度溜息をつくと歩き始める。が、その瞬間。
「まだまだ修行不足ね…私に気付かれるなんて」
(し…しまった…)
 青年の顔がさっと青くなる。ぎちぎちという音が聞こえそうなほどぎこちない動きで、青年は振り返った。
「は…母上…お早いお目覚めですね…」
 青年は必死で笑顔を作って言う。口の端はぴくぴくと引きつっていた。
「これでもあの人の妻ですもの。それにしてもなあに?まるで私の目を避けるように出ていこうとするなんて」
「そ…そんなことはありませんよ。ただ、母上を起こしてしまっては悪いと思って…」
「お気遣いありがとう。それよりもね、頼みたいことがあるのだけど」
 青年はげっ、と毒づいた。母親からの頼み事といえばあれしかない。
 母親はどこから取り出したのか、人一人がすっぽり入るほどの大きな風呂敷包みをどさっと置いた。
「あ…あのう…もしかして…これを持って行けと?」
 青年は訴えかけるような目で母親を見る。母親はしばし息子の顔を見ていたが、いきなり袖で顔を覆った。
「母の頼みが聞けないと言うの?私、そんな息子に育てた覚えは…」
「ああっ!もうっ!解りました!!」
青年は泣き落としに弱かった。ぜいぜいと肩で息をする息子を見て母親はぺろっと舌を出した。
「私はどうせ仕事中毒の親不孝ものですからね。このくらいしかして差し上げられませんから」
 青年は吐き捨てるように言う。
 瞬間、母親の柔らかい手が青年の手を包んだ。
「母上…?」
「そんなことないわ。あなたは私の自慢の、そして理想の息子よ」
 母親はそう言うと手を放し、にっこりと微笑んだ。青年はなんだか照れくさくなって顔を背けた。 「…行って参ります、母上」
 青年はそう言って風呂敷包みに手をかける。
(回を重ねるごとに重くなっている…もしかしてこれは父上への嫌がらせにとどまらず私への嫌がらせでもあるのでは…?)
 青年は重い足取りで家を後にした。

(母上には勝てないな…)
 青年は溜息をつきながら山道を登る。一歩踏みしめるごとに風呂敷包みの中で何かがかしゃん、かしゃんと金属音を奏でる。
(それにしても毎回増えていってないか?アレ…)  
 風はない。汗が頬を伝ってくるがそれを拭うこともできない。できるのはただひたすら歩くだけ。片手を放そうものならもう片方の手はやられてしまうであろうことは確実だからだ。
(うう…せめて風が吹いてくれれば…)
 青年の祈りが通じたのか、その瞬間、後方から風が吹いてくる。しかし、それはただの風ではなかった。ある『匂い』を運んできたのだ。
(…これは…!!)
 とっさに青年はその場にかがむ。と、今まで頭があったところを銃弾が通り過ぎる。青年は風呂敷包みに身を隠しつつ、銃弾の飛んできた方向に手裏剣を放つ。
 それが合図だった。
 四方八方から飛び出してくる影。
(待ち伏せされた…!?)
 青年は疑問を感じるが、今はそのことを考えている暇はない。咄嗟に、風呂敷包みに手を入れ、中をまさぐる。
 予想通り、『それ』はあった。
 青年は『それ』の入った包みを掴むと、高く、跳んだ。

 今まで青年がいた場所に数人の忍びの刀が集中する。しかしその刀は地面をえぐるだけだった。砂が先ほどからの追い風に舞う。
「――やったかッ!?」
 首領とおぼしき人物が叫ぶ。しかしその瞬間、砂煙の向こうに倒れる部下の姿が目に入った。
「なにッ!?」
 青年は実に手際よく行動していた。跳んだ瞬間にまず『それ』を一つ取り出して戸惑う敵のうちの一人の首筋にあてがう。すっと引くと赤い血飛沫が飛ぶ。『それ』はかなり多く入っていたので、武器に困ることはなかった。  
 首領は自分の甘さを痛感していた。たかが一人、待ち伏せすれば簡単に消せる…そう思った時点で勝負は決まっていた。
「さてと」
 首領は後ろから来る青年の声に顔を引きつらせた。その声は低く、冷たく――首領の心臓は早鐘のようになっていた。
「ろくに戦闘訓練もしていないようなヤツを送り込むなんて、私も甘く見られたものだけど」
 首領の首筋に冷たく鋭いものが触れる。先ほど取り替えたばかりの真新しい『それ』だ。
「どこの差し金だ?」
 青年は『それ』を首領の首筋に押しつける。その時だ。
「ははッ…はははははッ!」
 先ほどまで真っ青になっていた首領がけたたましく笑い出した。
(気が触れた…か?)
 青年は眉をひそめた。
「ドクササコだ!ドクササコの殿様に頼まれた!!今後必ずや障害になるであろうお前を消せと!!
自分が生きるために何十、何百という死体の山を作ったお前を消せと!!!」
「――うるさいッ!!!」
 青年は思わず『それ』を引く。今まで全く汚れていなかった青年の着物に赤い斑点が付いた。
(違う…私は…私は…)
 青年は珍しく取り乱していた。青年は、血にまみれた『それ』を握ったまま、しばしその場に立ちつくしていた…

 頭の中では二つの言葉がぐるぐると回っていた。
『あなたは私の理想の息子よ…』
『自分が生きるために何十、何百の死体の山を作ったお前を…』
(母上…)
 青年は悩んでいた。今まで自分の中にあった『信念』が一気に突き崩されていく。
 ――自分はなんのために忍びとして生きているのか。
 ――自分の行っていることは正しいのか。
 今まで疑問に思ったことなどなかったことが、今まで当然だと思っていたことが…全て疑問符を伴って押し寄せてくる。
(何を…今更)
 青年の脳裏に最前、母が見せた笑顔がよみがえる。無性に辛くなって、青年は顔を上げた。
「…蘿…」
 青年の視線の先には青年の友人、蘿(ひかげ)がいた。
「…またやったのかよ、利吉」
 青年――山田利吉は視線を落として言った。
「…解らなくなったんだ…」
 蘿は黙って利吉を見る。彼は修業時代からの利吉の友人であり、“不殺の忍(ころさずのしのび)”
として“変わり者”のレッテルを貼られている珍しい忍びでもある。
「私は…任務を果たすためなら…他者を切り捨ててでも行くというのが忍びとして当たり前だと思っていた…けど…」
「人としては間違っているのでは、か?」
 蘿は鋭い目つきで利吉を睨む。利吉は身を引きつらせて頷いた。
「俺は…この世には奪って良い命など一つもないと思っている。たとえどんな極悪人であろうと、人間ならきっと変わることができる、と。その信念は変わらない」
「蘿…」
「でもその考えをお前に押しつけるつもりはないし、忍びとしては失格だということも否定しない。お前も自分の信念を貫けばいいだろう?」
 蘿は利吉の手の中の『それ』――もとい、剃刀をそっととった。
「これ、お前のお袋さんが?」
「…あ、ああ」
 利吉は蘿のいきなりの行動に驚く。
「なら、お袋さんは命の恩人って訳だ」
「へ?」
 間抜けな声を出す利吉を見て蘿はわずかに微笑むと、言った。
「…その命の恩人のために生きたらどうだ?」
「…その命の恩人のことで悩んでるんだよ…」
 利吉は肩を落として言った。
「母はね、私を『理想の息子』って言ったんだ。…親は子が人を殺すことをどう思うだろう?…そんなことを望んでいるのだろうか?」
「お前ならどう思う?」
 蘿は利吉の目をじっと見る。
「お前がもし親になって…そしてその子供がそう言うことになったらどう思う?」
「…解らないよ…そんなこと」
 利吉は目を中に泳がせて言う。蘿の視線が痛かった。
「ああ。俺も解らない。実際にそんな立場に立ったことないんだから」
「なら…何故?」
「…親御さんと一度腹を割って話してみたらどうだ?」
「あ…」
 利吉ははっとした。今までそう言えばそんなに深く母と話したことはなかった。悩み事は、男同士、という点からでも父親にうち明けてきた。母親に話すのはなんだか照れくさかったということもある。
「ありがとう、蘿…少し楽になったよ」
「そ、か。なら良かった。早速行けよ…ここの始末してからな。じゃ」
「ああッ!?」
 言うが早いが蘿は草むらに姿を消した。
「――全く…仕事に遅れてしまうじゃないか…」
 そう言いながらてきぱきと作業する利吉は、家で自分の帰りを待つ母に思いを馳せていた。

「母上、ただいま帰りました」
 三日後、無事に仕事を終えた利吉は家の戸を開けた。
「あら、お帰りなさい」
 彼の母親はにこやかに息子を迎える。が、すぐに息子の硬い表情に気付く。
「何かあったの?仕事がうまくいかなかったとか…」
 心配そうに顔をのぞき込む母親の目をまっすぐ見て利吉は言った。
「――お話があります」

「母上…単刀直入にお伺いします。私のことをどう思われますか?」
「え???」
 緊張した面もちで聞いていた母親は、唐突な質問に点目になる。
「あああッ!!そんな意味じゃないですよ…ッ!息子としてどう思うか、ということであって…」
「解ってるわよ、もう」
 母親は息子を叩きつつ言う。
「はっきり言いますが…私は今まで多くの人の命を奪ってきました。母上は…そんな私を息子としてどう思っていらっしゃるのかを知りたいのです」
「利吉…」
 母親はそれだけ言うと黙り込む。しばらく沈黙の時が流れた。
「…もし…」
 その沈黙を破ったのは母親の方だった。
「もし、私があなたを軽蔑すると言ったら…あなたはどうするつもり?」
「…それは…」
 利吉は視線を逸らす。どう答えて良いか解らなかった。
「もし母親に反対されたら忍びをやめるというの!?そんなヤワな意志で忍びになったの!?ふざけるのもいい加減になさい!!」
 いつもは穏やかな母親の口調が急に激しくなる。利吉はそんな母を見るのは初めてだった。
「あなたは今まで自分に誇りを持って忍びの仕事を続けてきたのではなかったの!?今更何を言うのよ!!」
 母親はつかみかからんばかりの勢いで利吉をけなす。利吉はじっとそれを聞いていた。
 瞬間。
 母親は常に携帯している短刀を素早く抜き、利吉に向かってそれを振り下ろす。
「母上…!?」
 利吉はそれを間一髪で避け、短刀を叩き落とす。
 二人は肩で息をしながらしばらくその場に固まっていた。が、急に母親は利吉を見つめ、にっこりと微笑んだ。
「目は覚めましたか?」
 呆然とする利吉を後目に母親は静かにその場に座る。
「伝蔵さんがあなたに忍術をお教えになったのは、今のような状況の時に自分の身を守ることができるようにするためです。解っていますか?」
「…はい」
 利吉はその場に立ったままで言った。
「我が子が人の命を奪うのは確かに、悲しいものです。でも、『親の心子知らず』な時ほど情けないことはありません」
「母上…」
「利吉、人の命を奪うのは確かに罪です。しかし、この戦国の世でそうしなければ生きていけないということを解らない母だとお思いか?」 
 母親のまっすぐな視線が利吉の目をしっかりと捉える。しばらくして、利吉は静かに答えた。
「…いいえ…母上はそれが解っていらっしゃったからこそ父上といっしょになられたのですよね…すみませんでした、こんな事を訊いて…」
 利吉は微笑んでいた。母親はそんな息子の肩に手を触れる。
「いいのよ。それより有り難う、私に相談してくれて」
「母上に相談して良かったと思っています。明日からまた仕事に励めそうです」
 利吉は何気なくそう答える。が、急に母親の顔色が変わった。
「利吉…次こそは伝蔵さんを連れて帰ってらっしゃい。もう…あなたに持たせた荷物の中に手紙を入れておいたのに、無視するなんてなんて非道い人なの!」
「あっ…」
 利吉は思わず声をあげる。あの時…『始末』をするときにもはや原形をとどめていない風呂敷包みを中身を確かめずにその場にうち捨ててきたのだった。
「何?何か問題でも?」
 母親は利吉の顔をのぞき込む。利吉は咄嗟に笑顔を創った。
「いーえー何でも御座いません。お休みなさいませ、母上」
 利吉は逃げるようにして寝間へと入った。おそらく次の休みには恐ろしい光景が繰り広げられるであろうが、利吉はそれでもいいと思った。
(母上には勝てないな…)
 三日前とは全く違う感情でそう思い、利吉は静かに眠りについたのだった。

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