綿裏包針<序章>
夜。
静かな部屋の中、ウキヨタケ城主は書き物をしていた。
と、風もないのに灯が揺れる。城主は書き物をした手をふと止めた。
「利吉、か」
城主は書き物に目を落としたままで言った。
「ご依頼の趣は」
声の主はまだ若い。姿そのものは見せず、床板に影を伸ばしている。
「城下に不穏な噂が流れておる」
城主はかたり、と筆を置いた。
「隣のタマゴテングタケ城の密偵――間者が、この城下に紛れておる、というのだ」
「タマゴテングタケ…でございますか?」
城主は初めて身体を声の方に動かし、そして頷いた。
「そちが不思議に思うのも無理はない。何せこの城と、タマゴテングタケとは同盟関係にあるからな」
「はい。わざわざタマゴテングタケが友好関係に波風を立たせるようなことをするとは思えないのですが」
「だからこそそちに頼んだのじゃ」
城主は声を少し落とした。
「よいか。その噂の真偽を確かめ、そしてもしそれが真実であった場合、その間者を捕らえてもらいたい。報酬は――」
「それは仕事を終えてからにして頂きとうございます」
『影』の申し出に、城主は笑みをこぼした。
「そうじゃったな。成果を上げるまでは報酬は期待しない――成る程。『期待』しておるぞ。利吉」
「勿体なきお言葉」
影がゆっくりと頭を下げた。城主は満足そうに頷くと、身体を元に戻した。
そして、次の瞬間には、床板に伸びていた影は跡形もなく消えていたのだった。
「――ふん」
暫くして、城主は再び筆を執った。
「誠に頼もしいのう、利吉――」
小さく呟く城主の口の端が微妙につり上がったのを見た者はいなかった。
同じ頃。
「――ひっく」
少女は静寂の中でひたすら嗚咽が漏れるのを押さえようとしていた。
迫り来る恐怖と孤独。
どうして自分がこんな目に遭うのか?
自分たちが一体何をしたというのか?
父に、母に、何の恨みがあったのか?
次々と押し寄せてくる感情の波。
「おい」
少女は肩をびくりとさせ、ゆっくりと振り返った。自分を見下ろす男女が2人。
「こんな所で何をしている。さっさと戻れ」
威圧的な言葉が降ってくる。その口調は、少女に拒否の余地を与えてはいなかった。
「――解りました」
「足りないねえ」
女の方が少女を睨み付けた。少女は一度俯いて、そして顔をあげて、言う。
「申し訳ありません。今すぐ戻ります――『お父様』、『お母様』」
――『生きていく』為に。