綿裏包針<其の三>

「ここ…か」
 伊作は手にした地図に目を落とし、ついで目の前の家に視線を移した。
 袈裟に身を包んで学園を出たのが今日の朝。今では太陽が傾いて、辺りが橙色に染まっていた。
「すみません、いらっしゃいますか」
 伊作は戸をどんどんと叩きながら言った。
 しかし、返事は帰ってこない。
「おかしいな」
 伊作は首を傾げ、おそるおそる戸に手をかけた。
 からり、と戸を開く。しかし、中には人の気配はない。
「留守…?まさか」
 伊作は呟いた。普通、こういった課題の時には相手側にも連絡が行く。このように留守になっている、などということはないはずなのだ。
 もしかしたら、家の中にひそんでいるのを探すのも課題のうちかも知れない。
 そう考えた伊作は、家の中をあちこち見て回った。
 最終的には竃の中まで覗いたが、やはり誰もいない。
 半ば諦めかけた伊作の視界に、一枚の無造作に置かれた紙が入った。
「これは…?」
 伊作はその紙を開いた。それはおおまかな町の地図で、所々に書き込みがしてあった。
「この地図…ウキヨタケ領の…」
 伊作は暫くそれを眺めた後、そっと畳んで元の位置に置き、その小屋を後にしたのだった。

 ――なにか…変だ…
 町に入ったとき、伊作はそう思った。理由などない。直感だった。
 しかし、ほんの半日ほど前にごくごく身近な者が、図らずも同じ事を考えたことを伊作は知る由もない。伊作もまた、首を傾げつつ、その町を歩いた。
 暫く町の中を歩き、町の中の構造が漸くつかみかけてきた頃、それはやって来た。伊作が気配を感じて振り返ると同時に、絞り出されたしわがれた声。
「お坊様…助けて下され…」
「え?」
 声の主は、伊作の袈裟を掴んで、文字通り『すがりついて』きた。伊作はあまりに突然の出来事に、言葉を失う。
「助けて下され…もう…もう駄目じゃあ…」
 目に涙を浮かべ、声の主――老婆は繰り返す。伊作は我に返ると、そっと目線を老婆に会わせた。
「ご婦人、どうかなさいましたか」
 伊作は根っからのお人好しだった。こういった場合、何とかしてその場を去ろうとするのが普通なのだろうが、伊作は気がつくと、反射的にそうしていたのだ。
「ま、町が…わしらの町が…」
「落ち着いて下さい。町が、どうかしたのですか?」
 伊作はあくまで落ち着いた声で、尋ねた。老婆がほっとした表情を浮かべ、口を開きかけたその瞬間。
「ばーちゃん!!」
 伊作の眼前に、男が早足で歩み寄った。目を丸くする老婆の手を乱暴に掴むと、伊作と老婆の間に割って入る。
「何をするか!!放せ、放さんか!」
「はいはい、静かにしててね」
 抵抗する老婆を軽くあしらうと、男は伊作の方に顔を向けた。
 合わされる、視線。
 何気ない仕草だったが、伊作は自分の背を、冷や汗がつたっているのに気がついた。
「すみませんね」
 男は微笑んで言った。そして、伊作の耳元に顔を近づけ、囁く。
「うちの祖母、少しぼけてましてね。ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
「あ、いえ――」
 伊作はそう答えるのがやっとだった。ただただぼんやりと、老婆が男に連れて行かれるのを見送るばかり…老婆が視界から消えても、伊作はその場に立ちつくしていた。
 ――何だ?何なんだ?この恐怖感…
 伊作はその疑問の答えを探すかのごとく、ずっと老婆の連れて行かれた先を見ていた…

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