綿裏包針<其の五>
「こちらです。狭いところですが…どうぞ」
少女はかたり、と戸を開けた。利吉は軽く頭を下げて敷居をまたぐ。
「おや、お客さんかい?」
土間では母親と思われる人物が食事の支度をしていた。にっこりと笑うと、利吉に座って待つよう促す。利吉はそれに従った。
「なつ、このお方は」
奥の部屋から父親と思われる人物も顔を出す。どうやらなつ、というのがこの少女の名前らしい。
「先程この荷物を取られそうになって。その時に泥棒を捕まえて下さったんです」
「それはそれは、ありがとうございます」
父親は利吉に向かって頭を下げた。
「そんな、大したことはしていませんよ」
利吉は少し狼狽して言った。それは頭を下げられたことだけに対してでなく――先程からこの家に立ちこめている異様な雰囲気の所為でもあった。
――何だ?村に入ったときといい、この家といい…何が…何が…
「どうかなさいましたか?」
いつしか考え込んでいたらしい。心配そうに母親が自分の顔を覗き込んでいた。
「あ、いえ」
――危ない。
利吉はそこで思考を中断すると、少女の方を見た。
少女は視線を受けて、微笑む。
しかし利吉には、その笑顔が力無いものに見えたのである。
「しかしどういうことでしょうかねえ、山田先生」
「仕方ないでしょう」
目的地に行く道すがら、伝蔵は同僚の言葉に溜息をもらした。
周りの教師が六年生の試験の監督のために出ている中、授業が遅れすぎているからと漸く学園に残って補習授業をする許可を取り付けた矢先だったというのに。
「緊急事態なんですから」
伝蔵は再び溜息をもらす。
「確かに、もとはといえば善法寺の監督は私がするはずでしたが、別の先生が2人分やって下さるという話だったじゃないですか」
「もしも事務手続きのミスでその先生に連絡が回っていなかったら?」
伝蔵の言葉に半助の足が止まる。
半助は見開いた目をゆっくりと閉じると、再び歩き始めた。
「ああ…これでまた休みは返上しなくてはならなくなりそうですねえ、山田先生」
「ああ。これでまた休みには帰れなくなりそうだよ」
伝蔵は三度溜息をつき、母さん、また送ってくる剃刀の量を増やすんだろうな、と小さく呟いた。
伊作は、慎重に、慎重にその男の後を付けていた。
老婆が連れて行かれて暫く後、我に返った伊作はそっとその後をつけていたのだった。
男は喚く老婆を連れてどんどん人気のない方向へと歩いていく。
――どこへ行くんだ?
伊作は男の一挙一動を観察する。と、急に男が角を曲がった。
伊作は慌ててその後を追う。
曲がり角を曲がったとき、既にその先には男はいなかった。
「!!」
伊作が気配に気付いて振り返ったときにはもう遅かった。
彼の記憶はそこでぷっつりと途切れたのだった。