内偵<前編> 「…航が、ですか?」 水軍館の一室にて、鬼蜘蛛丸の口から出た意外な名前に、舳丸は眉を寄せた。 「ああ」 鬼蜘蛛丸は神妙な面持ちで腕を組む。彼の話によると、どうも最近航の様子がおかしいらしい。 「あいつに限ってバカな真似はしないと思うが…」 「俺にそれを確かめろ――と?」 舳丸は首を傾げた。鬼蜘蛛丸は航がおかしいと言うが、舳丸はそのようなことは全く感じていなかった。挙動不審で言うならば、若干一名の兄役の姿が脳裏をより鮮明に掠める。 しかし兄役からの言いつけとあらば断れない。舳丸は軽く頭を下げた。 「解りました」 「解っているとは思うが、慎重にな。航は精鋭の一員なのだから」 鬼蜘蛛丸は強い眼差しで舳丸を見た。舳丸は頷き、部屋を後にしたのであった。 「変わったことぉ?」 舳丸はとりあえず、航の周辺人物からの聞き込みを始めた。まず最初は、精鋭最年少の網問である。 「どんなに小さいことでもいいんだ。何か変わったこと、なかったか?」 聞くのにあえて航の名前は出さない。もしも鬼蜘蛛丸の目が確かならば、他に一人や二人、航の異変に気づいているものがいる筈であったからだ。 「そうだなあ…」 網問は口許に手を当てて、じっと考え込むそぶりを見せた。しばらくして、はっとしたように顔を上げる。 「あ!!」 「何か思い出したか?」 舳丸は身を乗り出した。網問は指を立てて、悪戯っぽく笑う。 「この前、航兄ぃが晩御飯の後、こっそり外に出たのを見たんだ。ひょっとして…」 これかな?網問は言いながら、人差し指に変えて小指を立てる。舳丸は苦笑いを浮かべて頭を振った。 「まさか。義兄ぃじゃあるまいし」 「俺がどうかした?」 「うわっ!!」 いきなり上から降ってきた声に、網問と舳丸は飛び上がって驚いた。恐る恐る首をそちらへ向けると、件の兄役が自分達を見下ろしている。 いくら鬼蜘蛛丸が信用している相手とはいえ、緘口令が敷かれているのだ。自分が色々と嗅ぎまわっていることを知られるわけにはいかない。 「なんでもありません」 こういうやっかいな者相手ならば、逃げてしまうしかない。舳丸は短く言って、その場を去ろうとした。しかしそれを彼――義丸が見逃す筈もない。 「そうつれなくするんじゃない」 いつの間に掴んだのか、義丸は舳丸の袖口を引いていた。引き戻された舳丸は、しぶしぶ義丸の前に立つ。ちらりと網問を見やってから、舳丸は口を開いた。 「網問が町で女を連れてる義丸兄さんを見たって」 な?舳丸は有無を言わさぬ視線で、網問に相槌を求めた。逃げられぬとあらばなんとかこの場を誤魔化すしかない。網問は一瞬遅れて舳丸の意図に気づき、慌てて首を縦に振る。 「うんうん。そうそう。町でね、義兄ぃによく似た人が綺麗な女の人を連れてるのを見たって言ったんだけど…ミヨ兄ぃが信じてくれなくて」 「ふうん…」 何かを見透かすような目で、義丸は舳丸をじっと見る。舳丸は手に汗を握りながら、それを見返した。暫くの沈黙の後、義丸は不意に表情を崩し、舳丸の肩を叩く。 「きっとそれ、俺だわ」 思わぬ反応に、舳丸は一瞬たじろいだ。 「いやあ、俺ってばもてすぎて困るんだよね…キミたちには申し訳ないけど」 「網問ももてるもん!!」 今の状況をすっかり忘れているのか、網問が言い返す。ぷう、と頬を膨らます網問の頭を軽く撫でてから、義丸は舳丸に言った。 「そうそう。間切が、最近変なことがあったって言ってたよ」 「!?」 舳丸は目を丸くして義丸を見た。 「お仕事大変だねえ、ミヨちゃん」 勝ち誇った笑みを浮かべ、それだけ言い残すと、義丸はその場を去った。後に残された舳丸は少しの間呆然とし…少しして我に返ると、壁に拳を打ち付ける。 「知っていて…からかったってのか」 拳をぎりぎりと握り締めると、舳丸は静かな怒りを顕わにした。表情はほとんど変わらないが、目にものすごい熱が宿る。舳丸は再度壁を殴った後、その場を後にした。 後に残された網問は一人、首をかしげながらその壁を見つめる。 「うわあ…ミヨ兄ぃ、キレちゃった…」 網問は呟きながら、壁の窪みをなぞる。 「でもこの壁が壊れちゃったのは網問の所為じゃないよね?」 言ってから、網問は自ら頷いた。 「うんうん。網問の所為じゃない」 軽く現実逃避をすると、網問もその場を離れたのであった。 「間切」 夕食後、くつろいでいた間切は、頭上から降ってきた声にふと顔を上げた。 「舳兄さん。何です…」 間切はそれだけ言って硬直した。自分を見下ろす舳丸の目が完全に据わっている。彼がキレるとこうなることを間切は知っていた。 (俺…何かした…?) 普段物静かなものほど一度怒ると収拾がつかなくなる。さしもの間切も血の気が引くのを感じた。 「間切」 「はいっ!!」 背中を汗が伝っていく。生唾を飲み込んで、間切は次の一言を待った。 「お前…最近変なことがあったって言ったらしいな」 「はい…え?」 舳丸からの思わぬ問いに、間切は間の抜けた返事をした。間髪いれずに、舳丸の切れ長の目が間切を貫く。間切は思わず縮こまった。 「あの…変なことっていうか…」 「何でもいいから早く聞かせてくれ」 舳丸の声に、やや苛立ちの色が浮かぶ。間切は慌てて答えた。 「この前、航が包帯を持ち出すところを見たんです。東南風もこの前見たって言うし…どうしたのかなって」 「航が…包帯を…?」 舳丸は一瞬はっとしたような表情をして、それからすっと身を引いた。 「そうか。邪魔したな」 一言そういい残して、その場を後にする。舳丸の姿が廊下の向こうに消えてから、間切は空気が抜けるようにその場にへたり込んだ。 「何だったんだ、一体…」 舳丸の去った方向を見ながら、間切はしばしそのまま呆然とし続けたのであった。 ●次へ ●戻る |