麟子鳳雛<序章>

 不意に、戸をたたく音がした。
 火を囲み、夕食をつついていた家族の動きがふと止まる。
 父親は首をかしげると戸口へ向かう。母親とその一人娘は手にしていた茶碗と箸を置いた。
「どちら様で」
 父親はゆっくりと戸を開けた。その向こうに立っていたのは旅の者と思われる一人の男だった。
 少々疲れた様子で口を開く。
「夜分遅くに申し訳ございません。私、旅の者ですが、道に迷ってしまいまして…この近くに寺がある筈なのですが、そちらへの道をお教え願えませぬか」
「どうやらお疲れの様ですが…何なら一晩、泊まって行かれませんか。寺までは少しばかり距離がございますし、なにぶん夜も更けておりますよ」
 父親はお人好しだった。困っている人を見かけるとどうも手をさしのべねば気が済まないらしい。
 母親も、娘も、そんな父親の人柄を慕っていた。
「いえ、とんでもない。実はその寺の和尚と知り合いでしてな。どうしても今夜中に行かねばならないのです。どうか道を教えては下さらんか」
 旅人はそう言うと頭を下げた。突然のことに父親は驚く。
「そんな…お手をお上げ下さい…解りました。私がご案内いたしましょう。道も暗いですし、寺までお連れいたしますよ」
「いえいえ、道さえ教えて頂ければ私は一人で行けますし…」
 旅人が断ろうとしたところ、奥から明かりを持って少女が現れた。まだ5才くらいであろうか。その明かりを父親に渡すと、にっこりと微笑んで言った。
「遠慮することないよ、おじちゃん。また道に迷っちゃったら大変でしょ?」
「これ」
 父親は明かりを持っているのと反対の手で少女を制した。と、旅人がくすくすと笑い出す。
「いやいや、ごもっともだ。――お嬢ちゃん、心配してくれてありがとうよ」
 旅人はそう言って少女の頭を撫でる。少女は少しはにかみながら笑った。
「お嬢さんに一本取られましたなあ…お言葉に甘えて、ご案内、お願いできますかな」
 旅人は笑って言った。その表情に、父親もふと表情を和らげる。
「解りました。御案内致しましょう」
 その一言を聞いた瞬間、旅人が小さく笑みを浮かべたのには誰も気付かなかった。

 その寺は、森を抜けたところにあった。
 夜の森は旅人にとっても避けたいところであった。
(――しかし…こうするしか…)
「もし?」
 旅人はふと我に返った。父親が心配そうに自分を覗き込んでいる。
「どうなされた?少々お疲れになられたか?」
「いえ、ご心配は無用です」
「なら良いのですが…」
 父親は首を傾げながら正面を向く。
 その背後できらりと刃が光った。

「遅くなってすまない」
 父親が帰ってきたのはそれから暫く後だった。
「あなた、お帰りなさい」
 妻は、笑顔で迎える。しかし、その隣で少女は黙ったまま自分を見ていた。その前には家を出る前のまま全く減っていない夕餉があった。恐らく自分の帰りを待っていたのだろう。
「ほら、お父様にお帰りなさい、は?」
「良いんだよ。きっとお腹が空いているんだよ。…待たせてすまなかったね」
 少女はぴくりと動いたが、その後、ゆっくりと頷いた。父親は表情を緩めて腰を下ろした。
「それじゃあ、夕餉の続きと行くか」
 箸に手を伸ばした『父親』は『娘』が口を動かしたのに気付かなかった。
『父様…早く帰ってきて…』
 その口はこう呟いていたのだった。

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