星火燎原<前編>

「ううっ…気持ち悪い」
 ある日、網問は、陸に上がった瞬間にうずくまった鬼蜘蛛丸をじっと見ていた。脇にいた義丸が『大丈夫ですかい』などと言いつつ近寄る。鬼蜘蛛丸は無理矢理笑って、『大丈夫だ』と全く説得力のないことを口にしていた。
「どうした、網問」
 網問は聞きなれた声に振り返る。そこにいたのは、網問と同じ水夫である間切であった。網問は人懐っこい笑みを浮かべると、遠い目をして言った。
「憧れちゃいますよね…」
「何に」
 間切はややぶっきらぼうに返す。網問は相変わらず遠い目をしていた。
「陸酔いですよ」
「はあ!?」
 間切は思わず声を裏返した。網問はふと『遠い目』をやめて、ゆっくりと間切のほうをみる。網問は理解出来ない、といった感じで眉を寄せて、そして小首をかしげて言った。
「憧れるでしょう?」
「いや、普通は嫌だろう」
 だって、陸で襲われたらどうしようもないじゃないか、と間切はぼそりと言う。網問は相変わらず首をかしげたままだった。
「どうしてですか?一人前の『海の漢』の証じゃないですか」
 網問はそう言うと、再び目を鬼蜘蛛丸のほうに向けた。『憧れちゃうなあ』などと呟きながら見入るその姿に、間切は思わず溜息をつく。
 ――コイツも、見た目は普通なんだが…
 頭を抱える間切の目の前で、網問はいつまでもその様子を見ていたのだった。

 そんな網問にある日、鬼蜘蛛丸が声をかけた。
「網問…少し頼まれてくれないか」
 道具類の整理をしていた網問は、急に振ってきた声に顔をあげる。鬼蜘蛛丸は網問に視線を合わせると、言った。
「この手紙をある場所まで届けて欲しい。…あ、地図はここにあるし、お頭にも許可は取ってあるから。私は陸は苦手だから義丸に頼もうと思っていたのだが、生憎上乗りで出ていてな」
 鬼蜘蛛丸は懐から手紙と地図を取りだした。渡そうとして、網問の目が輝いていることに気付く。
「どうした、網…」
「ありがとうございますうううう!」
 網問はさらに目を輝かせて言った。鬼蜘蛛丸は『うわっ』と小さく叫んで身体をひく。
「頑張りますねっ!絶対、絶対きちんと届けますから!」
 網問は鬼蜘蛛丸の手を握り、ちぎれんばかりに振った。初めは呆然としていた鬼蜘蛛丸だったが、次第に口元に笑みが浮かんできた。
 ――一人前に扱われて嬉しいんだろう。
 微笑ましい思いで見つめながらも、何故か心の隅っこで一抹の不安が芽生えていることに鬼蜘蛛丸は少しばかり気付いていた。やがて、その不安は的中することになるのだが、今は知る由もない。
「あ、そうだ網問。大事なことを忘れていた」
「大事なこと?」
 網問はふと手を止めた。鬼蜘蛛丸は漸く解放された腕の痛みを取り払うように、手を軽く振りながら言う。
「網問もこういう仕事は初めてだから、一応間切と一緒に行って貰う。いいな?間切の言うことをしっかり聞いて、勝手を覚えるんだぞ」
「はい!じゃあ、早速支度してきます!」
 網問は元気にそう言うと、ぱたぱたとその場から走って行った。
「あッ…網問!!」
 勿論、そんな網問だから、鬼蜘蛛丸の制止の声が聞こえるはずもない。手元に残された地図と手紙をまじまじと見つめながら、鬼蜘蛛丸は重い溜息をついたのだった。

「…というわけで…間切、これを頼む」
 それから少し後、鬼蜘蛛丸は間切に手紙と地図を差し出した。間切は苦笑しながらも受け取る。
「承りました」
「くれぐれも頼んだぞ…あと、これは網問には言っていないが…」
 鬼蜘蛛丸はやや目を鋭くした。間切もそれに気付いて少し表情を固くした、その時。
「間切の兄貴!!早速行きましょう!」
 底抜けに明るい声に、鬼蜘蛛丸も、間切も拍子抜けする。やれやれ、といった感じで振り返ると網問がいた。
「網問…」
 鬼蜘蛛丸は再び溜息をつく。網問はまた首をかしげた。
「どうかしましたか?」
「いや…少し間切とは打ち合わせがあるから…」
「行きましょうよお…」
 網問は鬼蜘蛛丸の言葉を聞いてはいなかった。間切に駄々をこねるように、出立を促す。鬼蜘蛛丸はきりきりと痛み出す胃のあたりを押さえながら言った。
「解った、早く行きたいのはよく解ったから。すぐに間切も行かせるから、さきに(部屋を)出てくれ」
「はい!!了解です!」
 網問はびしっ、と敬礼をして見せた。鬼蜘蛛丸は疲れきった表情で、しかし優しく微笑みながら頷く。
「かわいい弟分ではあるんですがねえ…」
 間切は苦笑いを浮かべて言ったのだった。

 しかし、この時点で既に、網問と自分たちの意思疎通が完全でないことに二人はまだ気付いていなかった。
 主語や目的語の省略の多い日本語での意思疎通は、往々にして困難なものなのである。


あああ…スミマセン。私の中の網問さんはこういう人です。
なんか、天然というか…努力がから回りするタイプというか…
しかも、なにげに<前編>です。続きますよ…
<中編>があるかどうかは解りませんが。
ちなみにタイトルは、『小さなことを見逃しておくと、後で大変なことになる』という意味らしいです。
タイトル通り、この後大変なことになる予定ですので、お楽しみに☆

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