師子相承<前編>

「はあ、はあ…」
 山道を少年が走り抜ける。1つにまとめられた赤茶色の毛がなびく。
「どうしよう…このままじゃ遅刻だ…」
 少年は自分の性格を恨んだ。
 彼は典型的な『お人好し』だった。困っている人を見るといても立ってもいられなくなるのだ。今日も、道に倒れている人を見て助けずにはいられなかった。応急処置をして様子を見ているうちに大幅に予定が遅れてしまったのだった。
 遙か前方に彼の目的地が見える。『忍術学園』と書かれた表札の下がっている正門はまだ閉まってはいなかった。
「よかった…」
 まだ間に合うようだった。少年はさらに速度を上げて走っていった。

「おはよう!!」
 がらっと扉を開けて少年は教室に飛び込む。教室内にいた生徒が皆彼を見た。
「伊作、セーフだよ」
「委員会選挙は終わっちゃったからアウトかな?」
 クラスメートの数人が彼――善法寺伊作に声をかける。伊作はほっとしたような、がっかりしたような、複雑な表情を浮かべた。
「で、どうなったの?委員会選挙」
 伊作はまだ肩で息をしながら尋ねた。
「どうなったと思う?」
 クラスメートの1人の七松小平太が微笑みながら言う。伊作は少し考えてから言った。
「学級委員長は立花君でしょ?」
「当たり」
「僕は…図書委員かな?」
「はずれ。図書委員は長次だよ」
「じゃあ…用具委員?」
「いいや。用具委員は私ともんじ」
「ってことは…」
「そういうことだよ」
 小平太のその言葉を聞いた瞬間、伊作はがっくりと肩を落とした。さらに追い打ちをかけるように学級委員長の立花仙蔵が言った。
「保健委員呼ばれてたぞ。新野先生に」
 伊作は溜息をつくと重い足取りで保健室に向かったのであった。

 保健室への廊下を歩きながら伊作はさっきよりも思い溜息をついた。
 ――七松君がうらやましい…
 忍術学園に入学してからすでに4ヶ月が経っているにもかかわらず、伊作はまだクラスに馴染めずにいた。なまじ躾がよすぎるのもこういうときにはあだになる。未だにクラスメートを『君付け』で、しかも名字で呼んでいるのもその名残だった。小平太は親しげに話してくれるが、『親友』と言えるほどの仲ではなかった。『いい育ち』のレッテルが伊作にとっての壁だったのだ。

「一年は組の保健委員はまた君かい?」
 保健室に到着した伊作に校医の新野洋一は話しかけた。伊作は俯いたままでこくりと頷いた。
「今学期もよろしくお願いします…っ」
 恥ずかしそうに言う伊作を見て洋一はにっこりと微笑み、言った。
「君も村濃(むらご)君と同じ道を辿るかも知れないね」
「村…ああ、六年の虎杖(いたどり)先輩ですか?」
 伊作は一学期に同じく保健委員だった六年生の虎杖村濃を思い浮かべた。人なつっこいというか親しみやすいと言うか、いつも笑っている優しい先輩だった。
「僕がどうかした?」
「うわっ!!」
 突如、伊作の背後から声がする。伊作は驚いて咄嗟に身を翻した。
「ごめんごめん。驚かしちゃったかな」
 村濃は頭をぽりぽりとかきながら言う。伊作はほっとした表情になった。
「すみません。気配感じなかったので。さすが先輩ですね」
「そうでもないよ」
 村濃はそう言うと手を差し出した。
「今学期もがんばろうね、伊作君」
「よろしくお願いします、虎杖先輩」
 伊作は村濃の手を握った。
 ――あったかい…僕もこんな風に人と接することが出来れば…
 伊作の表情が一瞬、翳る。村濃はその一瞬を見逃さなかった。
「すみません、新野先生。薬品の整理、この子にも手伝ってもらっていいですか?」
「ああ。かまわんよ」
「よかった。人手が足りなかったんだ…手伝ってくれる?」
 そう言って、村濃は伊作の手を引いていった。

「うわあ…」
 伊作は戸棚の中の薬品類を見て思わず感嘆の声をあげた。
「すごいでしょ?僕六年間ずっと保健委員やってるけどいつ見ても驚くんだ」
「六年間…ずっと、ですか…先輩は自分の意志で?」
 伊作は村濃の顔を見上げて言った。村濃は一瞬きょとんとした表情になると、いきなり笑い出した。
「なっ…何か僕変なこと言いましたか?」
「はは…いやごめん」
 村濃はぽんぽんと伊作の頭をたたきながら言った。
「もしかして、伊作君は押しつけられたって思ってるの?『保健委員』ってやっかいだからクラスのみんなに押しつけられた、って」
「!!」
 伊作ははっとした表情で村濃を見る。心を読まれたような、そんな気がした。
「確かに僕もいやだったよ?そりゃね。一年生の最初に『保健委員』になったときはさ…でもね」
 言いながら、村濃は腰を下ろす。伊作もそれに倣った。
「僕困っている人はほっとけないタイプだから…怪我とかしてる人を看病してるうちに、ああ、僕こういうのが向いてるんだな…って思ってさ。次の委員会選挙からは自薦で保健委員やってるんだ」
「僕…そんな風には悟れませんよ…どうしても」
「…伊作君…何か悩み事とかあるんじゃない?」
 伊作はぎゅっと自分の着物を掴み、こくりと頷いた。その手の上に水滴が落ちる。
「話してごらん…それだけでも楽になるから」

 伊作は堰を切ったように自分の思いをぶちまけた。 
 自分の中のわだかまりを。
 村濃は黙ってそれを聞いていた。

「…すみませんでした、先輩。見苦しいことを…」
 話し終えた伊作が赤い目で言う。村濃はにっこりと笑った。
「僕は…話を聞いてあげることしかできないけれど…これからも何かあったら僕に言ってね」
「はい…お陰で楽になりました。ありがとうございました」
 伊作も微笑んだ。社交辞令でない微笑みを浮かべるのは久しぶりだった。
 心の底から『うれしさ』がこみ上げてくる。
 自分の相手を真剣にしてくれる人がいたから。
 自分を大きくするきっかけを作ってくれる人がいたから。
 伊作は深々とお辞儀をして村濃に背を向ける。その背に村濃が語りかけた。
「…とりあえず、みんなを名前で呼んでごらん。親しく呼び合えるようになればうち解けやすくなると思うよ」
 伊作ははっとして振り返る。その視線の先には先ほどと変わらない笑顔の村濃がいた。
「はい!」
 伊作は笑顔で返事を返す。村濃は伊作の頭に手をのせて言った。
「さあ、早速行っておいで」
 ――『友達』のいる教室へ――

 次の日から伊作は変わった。
 友人を名前で呼ぶようになった。
 少々大胆なこともするようになった。
 張り付いたような笑みは自然な笑みに変わった。
 誰もが伊作の変化を快く受け止め、彼の周りには自然に人が集まるようになっていった。

 それから五年。

「あれ?」
 保健室に入った伊作は思わず戸口で立ち止まった。
 巨大な風呂敷で大量の便所紙を包もうと悪戦苦闘している少年がいた。
 右上の角と左下の角を結び、左上と右下の角を結んで持ち上げようとしては布の隙間から便所紙を落としてしまう。何度も何度も失敗して少年は泣きそうになっていた。
「何してるの?乱太郎君」
「あ、伊作先輩」
 少年――乱太郎は半泣きの表情で伊作を見る。
「何度やっても出来ないんです」
 乱太郎は目を潤ませて伊作に訴えかけた。伊作はクスリと笑うと乱太郎のわきにしゃがんだ。
「貸してごらん」
 伊作は風呂敷の上に便所紙を並べ、風呂敷の右上の角と右下の角を結び、左上と左下の角を結んだ。そして一方の結び目をもう一方の輪の中に通した。
「ほら。こうすれば少々丸いものでも運べるよ」
 はい、と伊作はその包みを乱太郎に渡した。乱太郎はわあっと歓声を上げてうれしそうに包みを受け取る。
「ところで何なんだい、その大量の便所紙」
 伊作は乱太郎に問うた。乱太郎は少し目を宙に泳がせ、言った。
「新しい事務員さんの話、知ってますか?」
「ああ、あの人か…確か出茂鹿之介とかいう…」
「ええ。このままじゃ小松田さんが危ないんで」
「成る程ね」
 なんだか放っておけなくて。はにかみながら言う乱太郎を伊作ははっとした目で見た。
 ――この子も僕と同じなんだ…
 昔の自分と重なるようで重ならない少年。
 かつて村濃が感じていたであろう感覚を伊作は感じていた。
 ――やっぱり放っておけないな…
 伊作は立ち上がり、引き出しから便所紙と風呂敷を取り出す。乱太郎はそれをきょとんとして見つめていた。
「先輩…?」
「僕も手伝うよ。一人より二人の方が効果があると思うし」
 さしのべられた手に乱太郎は顔を輝かせた。

 ――かつて自分の貰った優しさを
 ――自分も誰かに与えたい
 それが伊作が五年間の間に心の中に培ってきた大切な“思い”だった。

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