師子相承<中編>
「さっきから何の用だい?」
とある山道で、利吉は後ろを見ずに言った。不意に、背後の叢が僅かに揺れる。そこから現れたのは、一人の男だった。
「流石は山田先生の息子さんだ」
男の放った言葉に利吉は思わず振り返る。
どちらが速かっただろうか。
男が刀を抜き打つのと、利吉が咄嗟に見をよじるのと。
新学期。
言わずと知れた委員会選挙の日。
「こんにちは。一年は組の保健委員、お手伝いに参りました」
「ああ、乱太郎君。今学期“も”よろしくね」
大きな箱を抱えた伊作が異様に“も”を強調して言う。
一年は組の乱太郎と六年は組の伊作にとっては慣習化した“挨拶”だった。
「ちょうどよかった。薬品整理、手伝ってくれる?」
伊作は人なつっこい微笑みで乱太郎に言う。乱太郎は伊作に駆け寄った。
「凄い量ですね。コレ全部…」
「そ。補充分」
伊作は箱のふたを開ける。中には案の定ぎっしりと薬品が詰まっていた。
「そこの端っこのやつから順番に渡してくれる?僕が棚にしまうから」
「は〜い」
乱太郎は言われた通りに端の物から順に伊作に渡す。伊作はそれを受け取ると慣れた手つきで棚にしまっていく。
しかし、いくら手馴れているとはいえ、やはり時間はかかるもの。残すところ後一つとなった時にはすでに日は西に傾いていた。
「これで最後です…ってあれ?このくすり…」
乱太郎が最後に手にした薬品は厳重に木箱で覆われていた。
「ずいぶんものものしい…先輩、何ですかコレ」
「ああ、それ?」
伊作は木箱を見てさらりと言った。
「座枯らし薬」
急に凍り付く空気。しばし静かな時がさらさらと流れる。
「…はい?」
「だから、座枯らし薬だよ」
「ええええええええええ!?」
「うん。危ないからそっと扱ってね」
飛び上がるほどに驚く乱太郎と何もないかのように平然としている伊作。
「な、ななななななんでそんな物が!?」
乱太郎はわなわなと震えながら聞く。伊作はきょとんとして答えた。
「なんでって…ここが薬品庫だからだろう?」
「全然説明になってませんよッ!!」
乱太郎はぜいぜいいいながら言った。伊作は乱太郎の手から『座枯らし薬』をひったくると言った。
「どうして?石火矢の格納庫にあるよりはよっぽど自然だと思うけど」
伊作は『座枯らし薬』をしまいながら言う。乱太郎は深い溜息をついた。
――伊作先輩って…よく解らない…
普段は優しい先輩なのだが、たまにこういったこともある。それが乱太郎を混乱させていた。
「さてと…やっと終わったね。お疲れさま、乱太郎君」
伊作は薬品の棚に鍵をかけながら言う。乱太郎は再び溜息をついた。
「いえ、先輩こそお疲れさまでした。じゃあ、僕はこれで…」
「あ、乱太郎君!そこ…!!」
「え?」
後悔先に立たず。
振り向いた乱太郎は横の棚に載せてあった小さな壺を見事に叩き落としていた。
――がしゃん
見事に響き渡る破砕音。保健委員の仕事が一つ増えた音だった。
「…すみませんでした」
乱太郎がおずおずと言う。伊作は辺りに飛び散った壺の欠片を拾い集めながら言った。
「それより怪我なかった?…あっ、そこ踏んじゃ駄目だよ。欠片があるから」
伊作の言葉に乱太郎は思わず一歩下がる。伊作はくすくすと笑った。
「やっぱり悪いこと出来ないなあ。これ、僕が作ったんだ」
「ええっ!?そんな…わたし…」
「いいんだよ。さっきも言っただろ、『悪いことは出来ない』って。これ、先生に秘密で作ったんだ」
乱太郎は一瞬戸惑い、そしておそるおそる聞いた。
「あの…ちなみに薬品名は?」
「宿茶の毒」
「はい?」
乱太郎は一瞬耳を疑った。宿茶の毒と言えば相手をじわじわと死に至らしめる恐ろしい薬である。
「…今…『宿茶の毒』って聞こえたんですけど」
「うん。言ったよ。いや、授業で習ってからずっと作ってみたいと思っててね。たまたま良いお茶が手に入ったからついつい…ね」
乱太郎は背筋に寒気を覚えた。この人ならこの学園内の薬品という薬品を扱いこなせるのではないか。本気でそう思った。
「さて…と。水汲んでくるからちょっとここ見張っててくれる?誰か入ろうとしたら適当にあしらって止めといてね。追い払ってくれたらもっと助かるけど」
伊作は一方的にまくし立てて外へ出ていってしまった。後に残った乱太郎はどうすることも出来ず、ただただ薬品庫の床に出来た水たまりを見つめていたのだった。
その様子を一部始終見ていた男がいた。
男は伊作が離れたのを見るとゆっくりと薬品庫へと近づいていった。
「ごめん、乱太郎君。遅くなっちゃって。いきなり雨が降って…」
突然降り出した雨。伊作は濡れ鼠になって桶を抱え、薬品庫に飛び込んだ。しかし、前を見た瞬間、伊作は固まった。目の前にいる人物。慌てふためき、半泣き状態になっている乱太郎と対峙している人物。それは伊作のよく知っている人物だった。
視線は固定したままで伊作は手にしていた桶をゆっくりと下ろす。
「……虎杖先輩?」
伊作の唇からかすれた声が漏れる。その声に、その人物はゆっくりと振り返った。
「伊作…ッ」
男――虎杖村濃は苦しそうに言うと、バランスを崩してよろける。伊作はその体を支えた。
「先輩…?」
伊作はその時初めて気付いた。村濃は血塗れだったのだ。
「先輩…この怪我…!!乱太郎君、新野先生を!!」
伊作は思わず叫ぶ。乱太郎は視線が泳いだまま、こくこくと頷いて走り出す。
「待て…必要ない」
そんな乱太郎を村濃が止めた。乱太郎は引きつった顔で振り返る。村濃は傍らの棚に手をついて自らの体を支えた。
「伊作…すまない…痛み止めを…」
「先輩…どうしたんですか、この怪我…こんなに…」
伊作は自分の手ぬぐいを先ほど汲んできた水で濡らし、それで村濃の体の血を拭った。
「あ…れ…?」
思わず手を止める伊作を、先ほどまで黙っていた村濃が口元にうっすらと笑みを浮かべながら見た。
――おかしい…出血量の割に傷口が…
伊作は疑問をぬぐい去るかのように黙々と作業を続ける。しかし、その疑問はどんどん深まっていく。
――もしかして…返り血!?
伊作の手が完全に止まった。村濃は伊作の手から手ぬぐいを取ると、それを桶の中に浸けた。
「この返り血の訳を聞きたいのか」
村濃ははっきりと、しかし低い声で言った。伊作は乱太郎の方をちらりと見た。乱太郎は相変わらずわなわなと震えたまま壁に背中をぴったりとくっつかせていた。
「…乱太郎君…先に帰っててくれるかな」
伊作は細い声で乱太郎を促す。乱太郎はこくこくと頷くとそろりと壁づたいに出口へと行き、そして一気に走り出した。
ぱしゃぱしゃという足音が遠くに去ると、伊作は村濃の方を見た。
そして深く頷く。
村濃はそっとその場に座った。
「ある人の暗殺依頼を受けた」
村濃はゆっくりと話す。
「私はその人に勝てると思い、依頼を受けた。だが…相打ちになった」
遠くで雷鳴が響く。伊作の視線は村濃に固定されたままだった。村濃は深く息をついてからはっきりと言った。
「その人とは…利吉さんだ」
再び、響く雷鳴。先ほどより近い。
伊作は大きく目を見開き、ごくりと唾を飲んだ。
「…軽蔑するか?」
「それで…それで利吉さんは!?」
村濃の問いには答えず、伊作は思わず声を荒げる。村濃は一度目を閉じ、ゆっくりと開いた。
「私と彼はしばらくやりあった。互角だったよ、全く。いくら山田先生の息子さんだとはいえ、二歳も年下だ。勝てると思っていたのに…」
村濃はぐっと手を組んだ。伊作は何も言わない。
「戦いを進めるうち、崖に近づいていることに気がついた。そこで…私は…」
「止めて下さい!!」
思わず伊作は叫ぶ。自分の最も尊敬していた人が。最も憧れていた人が。
自分の恩師の息子に手をかけるなど。
信じたくなかった。