隙<序章> 山奥の一軒家の縁側に、美しい女性が座っていた。 年はよくわからない。四十近いと言われればそのようにも見えなくもないが、二十と言われてもなんら疑問はない。 その墨を垂らしたかのような黒髪はきちんと束ねられ、前髪が、物憂げに寄せられた眉にかかっている。白粉を塗らずとも蚕のように白いその肌には、きちんと紅を引いた形の良い唇が映えていた。女性は長い睫毛を伏せて、ふう、と溜息をついた。 その姿は絵に描いたように――否、絵に描けないほどに美しかった。彼女の膝の傍に置かれている藁人形やら五寸釘やらが一切気にならないほどに。 彼女が幾度目の溜息をついたときであっただろうか。 女性はふと目を上げた。ついで、かさり、と茂みが揺れる音がする。 女性は期待に頬を紅潮させ、門の方へと走った。 「おかえりな――」 言いかけて、女性は口をつぐんだ。少し残念なような、それでも少し嬉しいような微妙な表情を浮かべる。 「ただ今戻りました、母上」 現れたのは彼女の待ち望んでいた最愛の夫ではなく――彼女の息子であった。普段ほとんど家に帰らないためその帰還は彼女にとって嬉しいものであったが、夫の帰って来たときのそれとは、また違った嬉しさである。 ふと、女性は息子の様子がおかしいことに気づいた。髪が少し乱れ、肩で息をしている。このように疲れきった息子を見るのは何年ぶりであろうか。どんなに仕事で疲れていても、そうとはわからぬように、いつも家の少し手前ですっかり綺麗にしてから帰ってきていたものを。 「何かあったの」 「父上は!?」 言葉を遮るように言った息子に、女性は少しむっとしたような表情を見せた。帰ってきていればとうに顔を出しています、とそっけなく言うと、女性は息子を睨んだ。 「そう…ですか。やはり、無駄足でしたね」 息を整えながら、彼女の息子は続けた。 「わかりました。私は急ぎ学園に参ります。それでは…」 「待ちなさい」 さっさとその場を去ろうとする息子の袖を、彼女は引いた。 「せっかく帰って来たというのにもう行くのですか?」 「火急のことなのです!!」 彼は声を荒げ、振り払うようにして女性の手を袖から離した。女性は息子の態度に驚き、目を丸くする。その様子を見て、彼は少ししまった、といった表情になった。 「…申し訳ございません。しかし、お解かりくださいませ、母上。今はほんの少しの時間も惜しいのです」 「…私こそ」 女性は目を伏せた。息子が、深々と頭を下げるのが視界の端で見える。 「先程も申しましたが、重要かつ緊急の用件なのです。もし私が父上と入れ違うようなことがございましたら、父上には学園にお戻りいただきますようお伝えくださいませ」 一体誰がそんなこと、と女性は心の中で言った。一体どれだけ自分が待ちつづけているか、解っているのだろうか。 でも―― 息子がこれほど慌てているのだ。よっぽどの緊急事態に違いない。それを知らせなかったら、彼はきっとこの上なく怒るだろう。 「――わかりました」 女性は観念したように、目を閉じた。 「父上がもしこちらにお戻りになられたら、そう伝えましょう」 女性のその言葉を聴くと、彼女の息子は安心したような表情を浮かべ、深々と頭を下げると、元来た道を戻って行った。女性はその後姿をしばし悲しげな表情で見つめ――そして頭を振る。 くよくよしてちゃいけないわ――だって、私は山田伝蔵の妻だもの。 女性は自分に言い聞かせると、口許に小さな笑みを浮かべて家の中に戻って行った。 一刻後。 彼女の傍らの藁人形が一体増えたことに気づいたのは、彼女の飼っている猫だけであった。 ●次へ ●戻る |