隙<其の一>

「それでは、構えーい!!」
 自他共に認める『学園一忍者している』男、潮江文次郎の声が狭い室内に響いた。文次郎の目の前にきちんと並んだ下級生達が、緊張からごくりと息を飲む。
 文次郎は四人をさっと見渡し――準備が整っていることを確認すると、大きく息を吸い込んだ。下級生達の指先に力が入る。
「願いましてはッ!!」
 そんなにでかい声出さなくても十分聞こえますってば。
 そんなバカなツッコミをするものはいない。一度そういうツッコミをして語るも恐ろしい目にあった仲間を見たからだ。四人は己の指先をじっと見詰めた。
「十五文なり三十五文なり百二十三文なり八百九十二文なり五百六十六文なり三百九十七文なり千五百七十九文ではッ!!」
「三千六百と七文です」
 立ち上がり、よく通る声で答えたのは自称四年のアイドル、田村三木ヱ門だ。髪をかき上げながら得意げに文次郎を見つめた三木ヱ門だったが、その目は急に見開かれる。
「こンの、バカタレがッ!!」
「!!」
 三木ヱ門は息を呑み、顔を少し左に傾けた。ついさっきまで三木ヱ門の右頬があったところを、なにやら物体が轟音を立てて通過する。直後、何かが後ろの柱にめり込む音が聞こえた。
「な…な…」
 三木ヱ門の口がわなわなと震える。残りの三人――会計委員会の左門、左吉、団蔵はその場の雰囲気にただただ怯えるばかりであった。
「何てことするんですか!!」
 漸く離せるようになった三木ヱ門の口から、抗議の言葉が紡がれる。三木ヱ門は、先程傍を通過したもの――会計委員会特製の算盤を柱から引き抜いた。
「こんなもの投げて――ッ!!僕の顔に傷でもついたらどうするつもりなんですか!!」
「ええい黙れィ!!」
 文次郎がものすごい剣幕で怒鳴りつける。げに恐ろしい地獄絵図のような光景であった。
「田村、貴様何のためにこの算盤を配ったと思っている!!何故この算盤を計算に使わない!!」
 文次郎が怒りに打ち震えた手で三木ヱ門の算盤を取り上げる。三木ヱ門は、先程の計算にそれを使わなかったのだ。三木ヱ門は視線をつい、とそらした。
「――別に、あれしきの計算、僕にとってはそんな道具を使うまでもありませんよ」
 言っちゃった――二人のやり取りを見ていた下級生三人は、同時に同じことを考えた。もはや怖くて文次郎の顔など見ることも出来ない。雰囲気だけで、文次郎が怒り狂っているのがわかった。
「何を言っとるかッ!!あれはただ計算するのが目的ではない!!この算盤を使うことで、情報を耳で聞き、それを指で珠の配置に置き換え、さらに目で読み取る――その訓練をするのだッ!!いいか田村!!算盤による計算は五感の連動性を高める最高の訓練といっても過言ではない!!そしてこの特製算盤を使うことでその効果は――」
 僕もうおうち帰りたい。――下級生達は一様に思った。『忍者スイッチ』の入った文次郎を止めることは容易ではない。止められない以上、この状況からも逃れることは出来ない。三木ヱ門も今更ながら、己の行動の軽率さを悟っていた。
 ああ…せっかくの夏休みがまた一日消えてゆく…文次郎を除く四人がそう心の中で嘆いたそのときだった。
「うるさい」
 明らかに不機嫌そうな顔で部屋に入ってきたものがあった。麗しの作法委員長、立花仙蔵である。四人が呆気にとられる中で、仙蔵は熱く語り続ける文次郎の左脇腹を思い切り蹴った。
「ぐはッ…」
「貴様…隣の部屋で私の作法委員会が合宿していると知っての狼藉かッ!!」
 あれほどまでに手がつけられないように思えた文次郎の襟首を、まるで子猫をつまみ上げるかのようにひょいとつかみ、仙蔵は三木ヱ門たちに極上の笑みを浮かべた。
「すまない。委員長を少し借りるぞ」
 その笑顔にいやですと逆らえるものはいない。委員長を助けたい気分もあるが、皆自分の命が惜しいのだ。四人はただただこくこくと頷いた。
「文次郎。少し話をしようじゃないか」
 怒りの四つ角を浮かべながら綺麗に微笑んだりしちゃうから、本当に仙蔵は怖い。あの文次郎が信じられないほどに震え、小さくなったままずるずると引きずられていく。
「あ――」
 文次郎が見えなくなってから少したった後。
 漸く呪縛から逃れたかのように、四人は動き始めた。
「大丈夫かな、潮江先輩」
「まあ、いくら立花先輩でも殺しはしないと思うよ――半殺しくらいかな?」
 無責任なひそひそばなしをしているのは団蔵と左吉だ。その傍では、左門と三木ヱ門がまだ少し青い顔をしている。
「立花先輩――拷問とか得意そうだな」
「はい」
「あの勢いで迫られたら吐くよな。絶対」
「はい」
「解放されたことには感謝してるけど――少なくとも『救世主』って感じじゃなかったよな」
「むしろ『悪の帝王』って感じで…ふぐッ!」
「バカ!!聞かれてたらどうする!!」
 軽はずみな言葉を発する左門の口を、咄嗟に三木ヱ門が塞ぐ。左門がしまったという表情で軽く頭を下げると、三木ヱ門は手を離した。
「…とにかく、立花先輩だけは敵に回さないようにしよう」
「はい」
 いつもなら三木ヱ門に食って掛かる左門も、三木ヱ門の言葉に深く頷く。ちょっと賢くなった会計委員会の面々であった。

 そのころ。保健室にて。
「今、作法委員の綾部君から連絡がありました。文次郎がこれから仙蔵に半殺しにされるそうです。せっかくなので、僕達保健委員強化合宿の一環として、文次郎の手当てを本日の課題に加えたいと思います」
「はーい」
 不運委員と謳われる保健委員にて、その長である善法寺伊作がそんな提案をしていた。
「まあ、実験台は文次郎だから。みんな気軽に。普段の実力を出し切ってくれればいいよ。ああ、でもさすがに傷口に目潰しの粉を塗ったりとかはしないようにね」
「はーい」
 実にほのぼのした会話が彼らの内で交わされる。その手には包帯やらなにやらが握られており――口許には楽しげな笑みが浮かんでいたのであった。

「なにやら賑やかじゃのう、伝蔵よ」
 学園長は、庵で山田伝蔵と向き合って茶を飲みながら言った。
「どうやら、潮江が下級生を鍛えるとか言って会計委員会の合宿を計画したようです。それに触発されたのか、作法委員会と保健委員会、それから体育委員会と図書委員会も合宿をやるようで」
「上級生が下級生を積極的に鍛えようとするのはいい姿勢じゃな」
「まさに」
 学園長と伝蔵は、同時にずずりと茶をすすった。と、遠くで爆発音が聞こえる。
「ほう、やっておるようじゃな」
「まさにまさに」
 遠くで合宿の最初の提案者のものらしき悲鳴が聞こえたが、二人は全く意に介す様子を見せなかった。このようなことは日常茶飯事なのである。
「おお、セミが鳴いておりますなあ」
「ほんに」
 和やかな会話が交わされる。
 こうして夏休みの穏やかな午後は過ぎていくのであった――



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