隙<其の二>

「む?」
 ふと、伝蔵は湯飲みを傾ける手を止めた。湯飲みの陰からちらりと学園長を見やると、学園長も(普段はあまり見られない)鋭い目つきをしていた。
「…愚息のようですな」
 伝蔵は湯飲みを置き、庵の障子を開け放った。開けたその視界の先には、庵に向かって駆けて来る利吉の姿がある。
「学園長!父上ッ!」
 利吉は素早く庵の手前まで行くと、跪いて頭を垂れた。どう見ても『仕事の帰りにちょっと立ち寄ってみました』という風ではない。学園長も庵の中から歩み出た。
「突然に申し訳ございません。しかし緊急の用件にて」
「前置きはよい」
 ぴしゃりと学園長が言い放った。利吉は小さく頭を下げ、再び口を開く。
「ツキヨタケ城をご存知ですか」
「ツキヨタケ…」
 伝蔵は記憶の糸を辿った。確か学園の近くにそんな城があったはずだ。しかしそれは、己の城の存続のみを考えて他に一切侵攻しない穏健派の城ではなかったか――
「これはまだほとんど表には出ていない情報ではあるのですが、どうやら城主が暗殺されたようなのです」
「…ほう」
 学園長が眉を僅かに動かした。その広い情報網を介してそうした噂を予め聞いていたのだろうか、さほど驚く様子はない。利吉は続けた。
「城主には子がおらず――暗殺直後から家臣が城内を仕切っているのですが、どうも…」
「その『家臣』とやらに問題があるのじゃな」
 口を挟んだ伝蔵に、利吉は頷いて見せた。
「ええ。恐らく暗殺犯は彼でしょう。どうやら彼は、このまま城を乗っ取り、一気に一大勢力を築くつもりのようなのです」
「何故そんなことが?」
 伝蔵は利吉に問うた。利吉は一度躊躇うようなそぶりを見せる。
「彼は今、私のようにどの城にも属さぬ忍びをかき集めております。そして――これは不確かな情報なのですが…どうもその攻撃目標が学園のようなのです」
「何!?」
 伝蔵は学園長を見た。学園長は微動だにせずに、利吉を睨むように見ている。
「あくまで噂に過ぎません。しかし、人員の減る休み中に学園を大勢で襲って攻め落とし――その用地を手土産にどこぞの城と手を結ぶつもりだと言う者もいます」
 利吉の言葉に、伝蔵は息を呑んだ。確かに、夏休みで生徒や職員の半数以上が学園を離れている今、大人数で攻められたのでは学園はひとたまりもない。
「学園長!」
 伝蔵は学園長を振り返った。学園長は小さく頷く。
「山田先生、今学園内にいる先生方を全員集めてくれ。あと、各委員会の委員長に、現在学園内に留まっている生徒の名簿を至急提出するようにと伝言を」
「は」
 伝蔵は頭を下げ、ちらりと利吉のほうを見やった。
「あの、私は」
 踵を返そうとする学園長に、利吉は遠慮がちに声をかけた。学園長は首を小さくそちらに向け、小さく微笑む。
「利吉君は少し休んだ方が良い。その様子じゃと一度氷ノ山に立ち寄ったな?無理をして倒れられては困るからのう」
 利吉は目を丸くした。少し目を泳がせ、何故わかったのですかと掠れた声で問う。
「大分抑えておるようじゃが、息が少し乱れておる。髪ものう――視点もちと定まっておらぬようじゃ。それに、そなたが西に仕事で出たという噂は聞いておったからの。伝蔵と入れ違いにならぬように家に寄ったのではと思ったまでじゃ」
「――敵いませんね」
 利吉は苦笑を漏らした。どこに行こうと、全てはこの老人の手の内だということだろうか――
「今は一人でも欠くわけにはいかん。しばし休んで、体が本調子になったら顔を出してくれ」
「…はい」
 利吉は少しはにかんで言った。学園長は満足そうに頷くと、庵の奥へと入っていく。伝蔵は申し訳なさそうに利吉に向き直った。
「すまぬ。気づかなんだ」
「いえ、お気になさらず」
 微笑んで言った利吉の肩を、伝蔵が軽く叩いた。
「儂の部屋を使え。何か薬が必要なら医務室へ――新野先生には庵に来ていただかねばならんが、腕のいい保健委員が居ろう。…ではな」
 伝蔵はするりと利吉の横をすり抜けるようにして、足早に去って行った。その後姿が廊下の向こうに消えたのを確認して、利吉はほう、と溜息をついた。
(――隠し切れない、か)
 息をついた途端、足の力が少し抜けて、体が傾きそうになる。利吉はすぐそばの柱に手をつき、姿勢を何とか保った。
(――まだだ。もう少し…)
 利吉は伝蔵の部屋へと足を進める――少し気を抜けば飛んでしまいそうな意識を繋ぎ止めながら。
 ようやっと伝蔵の部屋にたどり着いたそのとき、糸が切れるような感覚が利吉の中にあった。足から力が完全に抜け、その場に膝をつく。
(少しだけ…)
 利吉はそのまま板の間に倒れ伏した。頭がずん、と重くなる。利吉はそのまま、まどろみに身を任せたのであった――



●次へ       ●戻る