隙<其の五> 利吉は、戸の外に立った人物の気配を肌で感じた。 「!」 利吉は反射的に起き上がって、それから髪をかき上げた。身に染み込んだ己の習性に、苦笑を隠せない。 「起きたか」 それらが全て戸の外から見えていたかのように、件の人物は声を発した。利吉は髪を整えつつ、戸を開ける。戸の外の気配はよく知ったものだった。 「学園長」 利吉は学園長を部屋の中に迎え入れつつ、空に目をやった。学園に入ったときには高い位置に会ったはずの太陽が既に傾いで、空を赤く染め上げている。四半日ほど寝ていたのだろうか。 「利吉…すまんが早速頼まれてくれ」 「はい」 利吉は視線を空から学園長へと移し、こくりと頷いた。その表情には気だるさはない。仕事の依頼を受ける忍びの表情である。 「すぐに学園を発ってくれ。話をつけてもらいたい人物がある」 「はい…え」 利吉は下げかけた顔を上げた。 「しかし…学園長、学園の警備は…」 てっきり自分は警護の面々に加えられると思っていたのに。利吉は不安げな表情を浮かべた。この学園を、あれだけの僅かな教師と生徒達で守れるものだろうか。 「利吉よ。攻撃は最大の防御という言葉があろう」 学園長はにやりと口の端を吊り上げて、声には出さずにある人物の名を口にした。唇の動きを追っていた利吉は目を大きく見開いた後、一呼吸置いて笑みを浮かべる。 「なるほど。しかし随分厄介なご依頼で…」 挑戦的な視線が学園長を射抜く。何かを要求するような眼差し――学園長は小さく溜息をついた。 「報酬は山田先生の強制休暇五日でどうじゃ」 「もう一声」 「仕方ない。十日で手を打とう」 「承りました」 仕事の話となると、利吉はかなり手厳しくなる。学園長は苦笑を浮かべた。当事者のいないところで報酬交渉を済ませてしまうと、嬉嬉とした表情で利吉は立ち上がり、学園長の横をすり抜けようとする。すれ違うその瞬間、二人の視線がぶつかった。 「利吉よ…そなたきり丸に似てきたか」 「心外な。正当な要求ですよ」 利吉はそう言って、部屋を辞去した――『共犯者』の笑みを浮かべながら。 囲炉裏にかけていた鍋の中身が煮える音が聞こえて、半助は読んでいた書物から目を上げた。右手で目の辺りを数回擦り、そのまま後ろに倒れこむ。書物が左手から投げ出された。 「ふー…おい、きり…」 呼びなれた名を呼ぼうとして、半助は自嘲気味な笑みを浮かべた。休みの初日、「帰るぞ」と言ったら「委員会の合宿があるから」と突っぱねてきた居候の姿が脳裏をよぎる。あの時、妙に寂しい気分になったのは何故だろうか。 半助はがらんとした部屋を見渡した。あまり家で過ごす時間がないだけに、部屋の中にはほとんど余計なものがなかった。ただ、部屋の隅に時間つぶしで呼んだ本が山と積まれている。初めは久々に思い切り本が読めると喜んでいたのに、もうそれにも飽きてしまった。 「はー・・・…ん?」 休みに入って幾度目かの溜息をついた直後、半助はぴくりと眉を動かした。先程まで静かだった前の通りが俄かに騒がしくなった。半助は身を起こし、戸口の方に目をやる。ついで聞こえてきたのは―― 「…足音?」 どどどど、とまるで地響きのような騒がしい足音が半助の鼓膜を揺すぶる。長屋の床も、少し揺れ始めていた。 「おいおいまさか、この方向は…」 半助が身構えたと同時に、勢いよく戸が開いた。 「土井先生!!」 「清八君!?」 驚きのあまり、半助の声が裏返る。清八は肩で息をしながら、半助に何かを差し出そうとしていた。そんな清八越しに、半助は通りへと目をやった。 ……やっぱり。 あの騒音と振動に気づかないわけもない。通りには、並びの家々や近所の住人が出てきて、興味津々といった様子で半助宅へ駆け込んだ男をじっと見ていた。 「あの…ッ!!土井先生!!」 「ちょっと待って」 半助は清八を制し、半ば引きずるように家の中へ入れた。ざわめく野次馬達に愛想笑いを振りまきつつ、戸をきっちりと閉める。どんな噂が囁かれているんだろう。戸を閉める瞬間、『痴情』とか『修羅場』とか聞こえた気がする。半助は胃にきりきりとした痛みを感じた。久々に感じる痛みだ。 「…清八君…」 半助は清八に文句の一つも言おうかとして、やめた。この若者は仕事のこととなるとなりふり構わなくなるらしい。荷物を届けるのに必死になるあまり、毒矢に気づかなかったり、高いと言われる学園の塀を馬で飛び越えたりもした。今回はどうやら、町の中を馬で全速力するという暴挙には出なかったものの、町の外で馬をつないだあと全力で走ってきたらしい。ご近所中に響く足音と地響きを発生させながら。 「私に…何の用かな」 「こちらを。学園よりの急ぎの書状です」 「何…?」 半助の目が急に鋭くなった。清八に差し出された書状を慌てて手に取ると、広げて… 「ありゃ」 せっかくの真面目な表情が、一瞬にして崩れる。眉をぐぐっと顰めて、かじりつくように書状を見た。 「…これは…ひょっとして飛蔵殿の…?」 「はい」 決まり悪そうに、清八は答えた。半助は息を詰めて書状に見入り、しばらくしてから目を離して、ふうと息をついた。 「…読めましたか」 「ああ。なんとかね」 血筋を強烈に感じさせる文字を解読した半助は、手紙を囲炉裏の燃え盛る火の中に投げ入れた。戸棚から旅支度を手早く取り出すと、あっという間に身支度が調う。 「清八君、書状を届けてくれてありがとう。悪いけれど、学園に委細承知したと連絡してもらえるかな」 「はい!承りました!」 新しい仕事を得た清八は嬉しそうに笑みを浮かべ、半助に礼をすると、再び戸口から走って出て行った。やれやれといった表情でそれを見送ると、半助はうんと伸びをする。 「さて…と」 清八が開け放したままにして行った戸口から出ようとして、半助は歩みを止めた。 「危ない危ない火の始末」 つけっ放しだった囲炉裏の火のことを思い出し、半助は慌てて引き返す。 ――どうも家庭じみた忍者だな…… 少し嬉しいような嫌なような複雑な気分で火を消しながら、半助はいかにして家の前の野次馬を撒くかを考え始めていた。 ●次へ ●戻る |