隙<其の九>


「…ヒマじゃあ」
 ツキヨタケ城の門前で、門番を任されている中年兵士はのんびりと青空を眺めていた。城の中での密かな動きなど知る由もなく、彼らは相変わらず呑気な日々を享受している。
「――おや」
 突然の声に驚いて、兵士は視線を前に向けた。上ばかり見ていたから気づかなかったが、目の前には行商人と思しき男が立っている。深く被った笠で顔がはっきり見えないが、なかなか整った顔であるようだ。
「随分とお暇そうですね…もしかして、まだ伝わっていないのですか?」
「何が」
 反射的に兵士は聞き返す。なんだか暇そうにしていることをバカにされたような気がするが、それは気にしないことにした。行商人は声をひそめた。
「…昨日までいた町で聞いたんですがね、この城をドクタケ城とマイタケ城が狙っているらしいですよ。もう兵が整ったという噂です」
「なんじゃと!?」
 中年兵士は目を丸くした。この平和な土地では、少なくとも彼が生まれてから戦乱というものがあったためしがない。さっと血の気が退くのを感じながら、兵士は問うた。
「…そ、それは確かかい」
「ええ」
 行商人のきっぱりとした答えを聞くや否や、兵士は走り出していた。


 ――さて、どうしたものか。
 雅之助は、ツキヨタケ城の一角で思案していた。
 学園長にツキヨタケの暗躍についての報告をした途端、命じられたのが潜入だった。とりあえずツキヨタケ城の手ごろな兵に成りすましてみたはいいが、既に幾人かの忍びが派遣されたのを止められずにいる。
 いや、止めようと思えば止められたのだが――学園長から『忍びには手を出すな』と言われているのだ。止めたいのは山々だが、そういう指示が出ている以上仕方がない。
 雅之助は幾度目かのため息をついた。打つ手がないまま過ごす時間は、たまらなく苦痛だった。
「大変じゃあ!」
 頭を振っている雅之助の傍を、一人の中年兵士が慌てた様子で走りすぎようとした。咄嗟に雅之助は袖を掴み、彼を振り向かせる。
「どうした」
「た、大変じゃあ!」
 中年兵士は荒い息をつき、雅之助に掴みかからんばかりの勢いでまくし立てた。
「ドクタケちゅう城と、マイタケちゅう城が攻めてくるって噂なんじゃ!俺たち、どうすりゃいいのか…」
「ドクタケにマイタケ…?」
 雅之助は眉を寄せた。ドクタケもマイタケも、意味は違うものの学園にとっては身近な城である。
 ――学園が動いたか!
 瞬間的に、雅之助の中で計算が働いた。恐らくこの事態を予想して、学園長は自分に潜入を命じたのだろう。雅之助もすぐに狼狽した態度を取る。
「そ、そんな…わしらにゃ勝ち目がないんじゃないのか」
「どうした?」
 うろたえた様子の二人を見て、周りの兵がバラバラと集まり始めた。『ドクタケとマイタケが攻めてくる』という噂は瞬く間に動揺した兵の間に広まっていく――『俺たちは皆殺しにされる』だの『戦好きの新城主のせいだ』だのという尾ひれ背びれをつけながら。
 ――もういいだろう。
 雅之助はそっと輪の中から離れて行った。これでいい。これで噂はどんどん誇張されて兵たちを動揺させてくれることだろう。ほっと息をつきながら、背後の木に向けて雅之助は呟くようにして言った。
「お前の仕業か、利吉」
「そんなもんです」
 木の陰から聞きなれた声が聞こえる。利吉は姿を現さぬまま、続けた。
「ドクタケとマイタケが動いたのは事実です。間もなく正式な報せが届くでしょう…後は仕上げです」
「つまりは」
 雅之助はふう、とため息をついた。木に背中を預け、頭をぼりぼりとかく。
「城主様まで挿げ替えるってことか?そこまでする必要が…」
「ありますよ。ここで忍びの派遣を阻止しただけでは彼は同じことを繰り返します。幸い、前城主の弟君が山里で暮らしていらっしゃいます。兄上と同じく穏健派の弟君が、ね」
 利吉の声はどこか楽しそうである。雅之助は頭痛を覚えた。
「…わしがやるのか?」
「いいえ。既に、弟君のことは前城主派の家老達に助言しておきました。やはり平和の有り難味がわかっている方々は違いますねえ。すぐにも準備を始めそうな勢いでしたよ」
「…手回しのいいことで」
 呆れた雅之助の声に、利吉はどうもと答えた。どうやら彼は、自分の手を汚すつもりはないらしい。立ち去ろうとする気配に、雅之助は再び声をかけた。
「わしは暫くここに留まる。城主殿交代の報を持って学園へ帰ると、学園長にお伝えしてくれ」
「わかりました」
 利吉はそれだけ言って、ふいと気配を消した。雅之助はやれやれと頭を振って目の前の喧騒を見つめる。
「…いくらなんでも百万の大軍ってのは言いすぎだろう」
 どうやら、尾ひれ背びれは随分でかくなっているようであった。


「学園長。ただ今到着いたしました」
 加藤村の面々の奔走の甲斐あって、学園には徐々に教師達が戻りつつあった。彼らは皆、学園周辺の罠をかいくぐり――時には侵入に失敗した忍びや侵入しようとしていた忍びたちを手土産に、学園に帰ったのである。既に、生徒や教師によって捕らえられた忍びが数名、簀巻きにされて見張られていた。
「おお、雄三か」
 新しい簀巻きを携えてやって来た男――野村雄三に、学園長は嬉しそうな声を上げた。雄三は眼鏡の底の鋭い瞳を学園長に向け、それからすっと膝を折る。
「進入しようとしていた曲者を一人、捕らえました。こやつらが件の――」
「ああ。ツキヨタケの雇ったものたちじゃ。大したことなかったの」
 ほほ、と笑う学園長に、雄三はげっそりとした表情を向けた。
「冗談ではありませんよ、学園長。皆それなりの使い手ですよ。今は少数が一人ずつ来ていますから対処できますが…一度に大量に来られては、どうしようもありません」
「来ぬよ」
 さらりと学園長は言った。自信ありげな様子に、雄三は眉を顰める。
「…何かなさったのですね」
「勿論じゃ。そろそろ終わるかのう…」
 学園長は再び笑った。
 ――この人のほうが悪役に見えてしまうのは何故だろう…
 雄三は、学園長に気づかれないようにそっと、ため息をついた。


「せんぱーい!!」
「兵太夫か」
 後輩に呼ばれ、黒髪の麗人――立花仙蔵は振り返った。兵太夫は髪を乱して走ってきて、仙蔵の前に止まる。
「ぬの5番地点で一人、ひっかかりました!今、綾部先輩が簀巻きにしてくれています」
「よくやった」
 仙蔵は綺麗な笑みを浮かべ、後輩に応える。兵太夫は嬉しそうにして――直後、表情を凍らせた。
「た、立花先輩…」
「何だ」
「それは?」
 兵太夫は、おそるおそる仙蔵の背後を指差した。木の上から何かがぶら下がっている。何となく、某会計委員長に見えるのは気のせいだろうか。
「会計委員長だが。何か?」
「何か?じゃないですって!」
 まるで意に介していない様子の仙蔵に、兵太夫は決死でツッコミを入れる。仙蔵は面倒くさそうに会計委員長――潮江文次郎を見た。
「鳴子が鳴ったから見に来てみれば…バカが引っかかっていてな」
「バカっていうなバカって」
「放せばまた引っかかるだろうからこうして確保してある」
 宙吊りになった文次郎を無視して、仙蔵はさらりと言った。文次郎はまだなにか喚きつつ、宙吊りの状態で暴れている。仙蔵はむっとした表情になると、文次郎の頭をがしりと掴んだ。
「我が作法委員会はこれで3人捕らえた事になる。間抜けな会計委員会さんは一体何人捕らえたのか…さぞかしたくさん捕まえた事だろうなあ?」
「――ッ!!」
 出遅れたのが響いた所為か、会計委員会はまだ一人も捕まえてはいない。それを知った上での仙蔵の嫌がらせだった。怒りのため、そして頭が下になっているため、文次郎の顔はますます赤くなっていく。
「なるほど。人を『いびる』ってこうやるんですね!」
 背後では兵太夫が目を輝かせて一部始終を見学していた。
 恐怖の作法委員会の伝統は、こうして脈々と受け継がれていくのである。



●次へ        ●戻る