泰然自若
とある町の中。
手に鉢を持った僧が道の脇に立っていた。口元からわずか、経が聞こえる。笠の下から垣間見える口元はすっきりとしており、その僧の顔立ちの整い様を表すかのようだった。道行く女達はその僧の顔を見んと、少しばかり上目遣いで鉢に銭やらを入れる。
と、一人の男がおもむろにその僧に近づく。額には、白い鉢巻き。手をそっと差し出すと、その鉢の中に白いものをころん、と落とした。
僧は一瞬の間をおいて礼をした。鉢巻きの男はそのまま何食わぬ顔で歩いていく。僧は、しばらくすると先ほど男が行った方へと歩き出した。
僧が町からでて近くの森へと入った瞬間、頭上から声が降ってくる。
「ご苦労だったな、伊作」
「大木先生こそ、ようこそおいで下さいました」
僧――もとい、伊作がそう言って笠をはずす。頭上の木の枝からは先ほどの鉢巻きの男――元忍術学園教師、大木雅之助が音もなく降り立った。
「で、今どうなっているんだ?」
雅之助は伊作に問う。伊作は神妙な顔つきで答えた。
「形勢は…余り良くありませんね。今何人かあちらに潜り込んでいますが…」
「六年生が、か?」
「はい。六年生が数人と、あと利吉さんが…。手伝っていただけることになったので」
ほう、と雅之助は呟くと、懐から書状を取り出した。
「しかし災難だったな。まさかこんな事になるなんて」
雅之助はひらひらとその書状をふって見せた。伊作は、ええ、と肩をすくめて見せ、昨日までのことに思いを馳せる。
六年生に課題が与えられたのはつい三日前のこと。
その課題とは『現在エノキ城と合戦中のドクタケ城の印をとれ』というものだった。
学園生活も残り少ない六年生達にとってかなり重要な課題だったので、皆真剣に課題に取り組んでいた。足軽などに変装し、ドクタケ内部に入って情報を探ったのだ。しかし、伊作は偶然にも凄い情報を手に入れてしまった。
それは、『ドクタケは密かに兵を動かし、エノキ城とは早急に和議を結んで忍術学園を奇襲するつもりだ』というものだった。
その連絡を受け、学園中は騒然となった。六年生の課題は中止になり、印をとるために内部に侵入していた生徒はそのまま残ることとなった。そして、その情報を仕入れた伊作本人は、急遽使者として送られたのだ。
「――で?わしに何をしろと?」
雅之助は書状を畳みつつ言う。伊作は微笑みながら言った。
「何しろ人手不足ですからね。残りの上級生は忍術学園の警護にあたってますし…」
「それじゃ答えになっとらんだろうが。もしかしてドクタケの背後を探れって言うんじゃないだろうな」
「流石大木先生。僕がわざわざ此処にきた意味がなくなっちゃうじゃないですか」
伊作はそう言いながら、鉢の中から先ほど雅之助が投げ入れた白い物を取りだした。そして手の中でしばらく玩んでいた。
瞬間。
その白い物がものすごいスピードで草むらに吸い込まれる。鈍い音と、ぎゃっという低い悲鳴が聞こえた。
「ラッキョでもやっぱり威力ありますね♪」
伊作は手をひらひらと振りながら雅之助に言う。
「食べ物は大切に扱え」
雅之助は苦笑しながら、ラッキョを眉間に突き刺した男を草むらから引きずり出した。
「向こうからやってきてくれるなんて思いませんでしたよ」
伊作は相変わらずの笑顔で言う。雅之助は男の懐を探りながら言った。
「お前がいるんならわしが行く必要もなかろうに」
「それは困りますよ。いっしょに行動して下さっている野村先生に合わす顔がありません」
それは無敵の殺し文句だった。
突如、雅之助の表情が変わる。雅之助は男をその辺に転がすとすっくと立ち上がった。
「伊作、何ぼやぼやしてるんだ!どこんじょーで早く行くぞ!」
「ええ」
伊作は笑いを必死でこらえながら雅之助の後を追ったのだった。
同じ頃。
ドクタケ城のとある出城の一角で飯炊き係の女二人、忍び装束を着た数人の男に呼び出されていた。
「おい女」
忍び装束を着た男はぶっきらぼうにそう言った。
「いいか。明日からは食事の配膳に回れ」
「…はい」
飯炊き係の女うちの一人は俯いたままでそう答える。黒い艶やかな髪が流れるように肩にかかっていた。もう一人は茶色の髪を風になびかせながら前を見据え、何も言わなかった。
「茶色の髪の方の女、返事をしろ」
「…はい」
茶色の髪の方の女は目を合わせずに答える。男達はやれやれといった感じでその場を去った。
「…ふう」
黒髪の女が息をついた。茶髪の女が振り返る。
「第一関門突破、ですね」
小さな声で黒髪の方が言う。
「そうね。お仙ちゃん」
茶髪の方はにっこりと笑いながら、しかしその言葉に微妙にトゲを含ませて言った。お仙と呼ばれた女はクスリと笑う。
「では、早速行きましょうか。利紗さんv」
「…そうね…」
此処まで書けばすでに明らかではあるが、一応解説を加えようと思う。
お仙と呼ばれた方は『女より美人』との評判のある六年の立花仙蔵。そして利紗と呼ばれた方は現在活躍中のフリーの忍者、山田利吉であった。
――男として潜り込むより、女の方が探りやすいかも知れない。
潜入にあたっていきなりそう言い出したのは仙蔵だった。別に深い意味があったわけではないのに、周りの人間はたいそう納得し、『利吉さんもつけるから』という小平太の一言で決まってしまったのだ――ちなみに、この決定には利吉の意志は全く関わっていないことを付け加えておく。
「…これが終わったら、小平太君貸してくれる?」
「ええ、どうぞ」
誰にも聞こえないほどの小さな声で死刑判決は下ったのだった。
一人の男が、忍術学園に接近していた。
その男は、学園にもっとも近い森の中で立ち止まった。不意に、懐からきらりと光る銭を取り出す。
そして左手にはほかほかの饅頭。男は傍らに饅頭を置き、銭をわざと足下の小石にあたるように落とした。ちゃり…んと澄んだ音が響き渡る。
と。
いきなりの地響き。
男は咄嗟に後ろの木に飛び移った。森の入り口に、三人の少年が駆け込んでくる。
「銭や銭や銭の落ちる音や〜〜っ!!」
「お饅頭ーっ!!」
「きりちゃん、しんべヱ、待ってよ〜!!」
男は頭痛を覚えた。例の頭の大きな首領に言われたときにはまさかと思っていたのに…
「銭や銭や〜〜」
「お饅頭だ〜〜」
「きりちゃん、しんべヱ…あのさ…」
男が我に返り、三人の頭上から網がふってくるのにはそう時間はかからなかった。
「おや、あんた達かい?」
飯炊き場の湯気の中から活気の良い声が響いてくる。ついで、湯気の中から体格の良い女が現れた。
「それじゃ、早速お願いするよ。これ、持っていって。そこのお侍さんが連れてってくれるから」
返事をするまもなく、食事の乗った膳が手の上に載せられる。二人は顔を見合わせた。
「ほらほら、早くしな。冷めちまうだろ」
体格のいい女はぐいぐいと二人を押しだし、また湯気の中へと戻っていった。
呆気にとられる二人の後ろから侍が声をかける。
「こっちだ。ついてこい」
長い廊下の突き当たりの奥まった部屋へと侍は歩いていく。膳を持った二人はゆっくりとそのあとをついていく。
部屋の前まで来たところで侍はすっと膝を立てた。
「お食事に御座います」
音もなく襖が開かれ、二人はその奥へと通された。
「二人とも膳を置いたらさっさと帰れ」
侍がそう二人に告げる。お仙――もとい、仙蔵は俯いたままで。利紗――もとい、利吉は前を見据えて奥へと進む。仙蔵は内気な女、そして利吉は気の強い女という設定だったからだ。
奥の間にさらに襖があり、その向こうにいた人物を見た利吉は思わず息をのんだ。
「お食事をお持ちいたしました」
平生さを保って言う。そしてそっと膳を置き、仙蔵を伴ってそそくさとその場をあとにした。
「帰ってきていたんだ…もう…時間がない…」
利吉の口からわずか、焦りの言葉が紡がれる…
――その少し後、ドクタケ忍者が一人、そっと城を抜け出したのを見た者はいなかった。
「野村先生」
茂みの中から少年の声が漏れる。雄三は振り返らずに言った。
「伊作か…雅之助も…来てくれたんだな」
「ああ。敵様の正体もきっちり掴んだぞ」
「そうか。では早速案内し――」
言いかけた雄三の口がつぐまれる。雅之助も、伊作もはたと止まった。遠くから、声がする。聞き覚えのある、あの声。
「はなせ――!!」
「くっそ――!!」
「おなかすいたよ――!!」
三人は頭痛を覚えた。
「すまん…伊作、頼んでもいいか?本体をたたくのは私と雅之助でやるから」
「ええ、構いませんよ」
頭を押さえながら言う雄三に、伊作は苦笑しながら答えた。
「お前はあの三人を助けて忍術学園へ戻ってくれ」
「はい」
言うと、伊作は姿を消した。
「――まったく。これじゃあ、土井先生も血だらけになるわけだ」
雅之助は、ちらりとそう呟いたのだった。
「はなせよ――!!」
必死に叫ぶ三人。言わずと知れた忍術学園一年は組の三人組、乱太郎、きり丸、しんべヱだった。三人を引っ張っていっているのは一人の男だった。
「お頭から聞いたときには半信半疑だったが…まさかこんなに単純な奴がいるとはな…」
男は、そう呟く。それを聞きつけた乱太郎達はきっ、と男を睨んだ。
「うう…くやしい〜」
乱太郎がそう言ったとき、男の手がふっとゆるんだ。
男が宙を舞う。三人の頭上で金属音がして、直後、三人の前に一人の少年が着地する。
「何奴!?」
男が十尺ほど向こうに降り立つ。少年は三人の方を振り返った。
「怪我はなかった?…あっ、僕味方だから」
三人は少年の顔を見て驚いた。そこにいたのは、変装をとき、忍び装束姿になった伊作だった。
「伊作先輩…」
三人は救世主の登場にほっとした様子だった。伊作はそんな三人を見ると、手の中の短刀を握り直した。ゆっくりと男の方を見る。
「この子達、僕の後輩なんです。連れて帰らせて頂きますね」
「そうはさせるか」
いきなり、男は伊作の元へと走り出した。伊作はぎりぎりまで引き寄せてすっと身をよじる。
「!!」
男の手に握られていた短刀が空を切る。そしてその腕が掴まれた。伊作はその短刀を叩き落とすと、男の鳩尾に容赦なく膝をたたき込んだ。
「がッ…」
男は低い悲鳴を残して気絶した。男の腕を掴んだ伊作の手にずっしりと重みがかかる。伊作は手際よく男を縛り上げた。
(本当はこの場で始末するべきなんだろうけど…この子達もいるしな…)
伊作は男を手近な気にしっかりと固定すると、乱太郎達の縄をほどいた。
「有り難う御座いました、伊作先輩」
「先輩めちゃくちゃかっこよかったです!」
「お腹すきました」
「しんべヱ…ι」
いきなり漫才を始めた三人を見て伊作はくすくすと笑った。乱太郎達は慌てて言った。
「す…すいませんでした」
「どうして謝るの?」
伊作は笑うのをやめて問う。しかし顔は笑顔のままだった。
「だって…先輩、忙しいのに…私たちが勝手に行動したから…」
「いいんだよ。それより三人とも無事で良かった。怪我でもしてたらそれこそ(僕が)大目玉だよ…あっ、大丈夫。勝手に出てったことについては僕が誤魔化してあげるから♪」
優しい笑顔でそう言う伊作。三人は目を輝かせて言った。
「先輩は命の恩人ですうう」
伊作は一瞬呆気にとられ、そして最高の笑顔になる。
「さ、学園に帰ろうか」
学園の歌を大きな声で歌いながら歩く三人の背中を追いかけながら、伊作はぼんやりと考えていた。
――この子達にもいつか人を斬る日が来るのだろうか…?
しかしそんな考えをうち消すかのように、伊作の耳に同級生の声が届く。
「伊作」
「長次…」
三人組はふと足を止めた。茂みから長次が現れる。
「長次先輩じゃないスか」
「長次、何かあったの?」
きり丸と伊作が同時に言う。長次はちらりときり丸を見てから言った。
「伊作…緊急事態だ。実は…」
そこまで言って、長次は伊作の耳元に手を当てた。
「木野小次郎竹高と八方斎が出城に帰ってきているらしい」
「何?」
伊作の眉がふっと寄る。ちらりと三人の方を見ると、三人は不安そうな目で伊作を見ていた。伊作は咄嗟に笑顔を作ると、三人に歩み寄った。
「心配することないよ」
そう言って、三人の頭をくしゃっと撫でる。そして長次の方を見る。
「今からどうせ学園に行くんだ。学園長には僕から言っておこうか?」
「いや、お前は早く大木先生達と合流しろ。その三人は俺が連れていく」
長次は、言いながら三人を見た。
「解ったよ、長次。じゃ、三人とも長次についてってね。…じゃ、行って来る」
伊作は手短に済ませるとあっという間に走り去ってしまった。
雅之助と雄三はとある廃寺に来ていた。そこが、今回の黒幕の隠れ家だった。
「いいか、雅之助」
「おうよ」
二人は堂々と正面から乗り込んだ。廃寺に一歩踏み込んだ瞬間、周りからあふれる殺気。
「ドクタケよりはできるらしいな」
「上等だ。受けてやるぜ!!」
雅之助の一言を合図にするかのようにあちこちから忍者が飛び出してくる。茂みから。木の上から。
寺の中から。池の中から。一斉に雄三と正之助に襲いかかる。しかし二人は余裕の笑みを浮かべていた
…決して諦めの笑みではなく、勝利を確信した笑み。
「雅之助…右をたのむ」
「右?冗談だろ?全員でもやってやるぜ?」
「…いい根性だ」
――実際、二人は強かった。負けられない理由があるから。好敵手の前では死ねないと言う絶対的な理由が。
「はあッ!!」
「どこんじょー!!」
一人、また一人と次々に床に倒れていく。一息ついていよいよ建物の中に入ろうというとき、雅之助はふと、雄三を見た。
「…なんだよ…息上がってんじゃねーのか、雄三」
「馬鹿言え」
雄三は、そうは言うものの、少し疲れているようだった。
「大丈夫か?」
「よけいなお世話だ」
心配する雅之助をはねのけるようにして雄三は奥へと進んでいく。雅之助は雄三の背中を見つめ、そして溜息をつくと急いで後を追った。
勇んで入った奥の部屋には、首領とおぼしき人物とその警護の者が控えていた。
「ほう…此処まで来たとは…なかなか出来るようだな、雄三」
首領は抑揚のない声でそう言った。雄三はちっ、と舌を鳴らす。
「知り合いか?雄三」
雅之助がぼそりと言う。雄三は小さく頷いた。
「ああ…同じ里の…」
「知ってたのか?初めから…何もかも」
「まさか」
二人の会話に、いきなり首領の声が割り込む。二人ははっと首領を見つめた。
「そやつは当の昔に里を出ておる…知るわけもなかろうに」
言うと、首領は刀を抜いた。警護の者もそれに倣う。雅之助達も身構えた。
さらさらと流れる沈黙の時。
と、雄三が口を開いた。
「…一つだけ聞かせて欲しい」
「ほう」
首領は姿勢を崩さずに言った。
「何故ドクタケをそそのかして忍術学園を?」
「解っておろうに」
「要所である忍術学園をドクタケに攻め落とさせてその後で自分の物にしようって事か?そういう事ではなく…あんなに正義感の強かったお前が…何故…」
「力、だ」
「力…?」
雄三の刀を握る手に力が入る。首領はちらりとその手元を見た後、にやりと笑って言った。
「そうだ…この世では力がなければ生きてはいけぬ…正義だなんだと抜かしている奴から死んでいくのだ!」
瞬間、雄三の中で何かの留め金がはずれた。
雄三の腕が無駄のない線を描く。首領は咄嗟に自らの短剣を突き出す。そして雅之助の指先が動く。
三つのことが一度におこった後、首領は床に突っ伏した。短剣はとばされて離れたところに落ちている。雅之助が咄嗟に放ったはじき玉――もとい、ラッキョウが首領の手に命中したのだ。
「………」
雄三はしばらく呆然としていた。雅之助は無防備な雄三めがけてやってくる警護の忍びをたたく。
「雄三!!」
「あ…」
雅之助の声にようやく我に返ったとき、すでに次の忍びが背後に迫っていた。忍びは勝利を確信してにやりと笑う。
――これまで…か?
雄三がもはや覚悟しかけたその瞬間、忍びの体がいきなり仰け反り、派手に血をぶちまけながら後ろに倒れた。
「先生!!」
「伊作…」
そう言った雄三めがけて伊作は手裏剣を放つ。咄嗟に避けた雄三の頭の上を手裏剣が通り過ぎ、後ろで構えていた忍びの眉間を捉えた。
「伊作ッ!いいとこに来た!早く雄三連れてここから離れろッ!!」
雅之助の声が響く。伊作は頷くと雄三を囲む忍び達を文字通り切り崩すと雄三の腕を掴んだ。
「先生…ここは大木先生の仰る通りに…」
雄三は二人に従うしかなかった。
それから半日ほどしたドクタケ城内では、まさしく混乱が起こっていた。
ドクタケの後ろ盾をしていた某忍者軍団が壊滅させられたというのだ。今まで高まっていた志気は急激に落ち、フェイクであったはずのエノキ城との戦も危うくなっていた。
「うまくいったようですね」
「ええ…いや、ああ…」
すっかり慌ただしくなった城内をもはや変装をといた利吉と仙蔵が見下ろしていた。
「ま、大木先生と野村先生が行って下さったし…やっぱりってとこだね」
利吉はそう言うと、仙蔵を見た。
「そろそろ我々も撤収しようか」
「そうですね」
にっこりと微笑むと、二人は城を離れた。
日暮れ時の廃寺から三人は出てきた。
夕焼けの赤と、血糊の赤が二重になって雄三の忍び装束を染める。
一方、雅之助と伊作は夕焼けの赤だけ。雄三は、一言も喋らずに黙々と歩く。雅之助と伊作もそれに倣った。
廃寺が三人から見えなくなった頃、雄三の口からわずかに声が漏れる。
「――すまなかった」
「………」
雅之助は何も言わなかった。伊作もまた然り、だった。再び沈黙が訪れる。三人とも何も言わない。
結局そのまま三人は学園へ着いた。
「じゃあな、雄三」
雅之助は正門前でそう言った。雄三、という部分をわずかに強調して。
「なんだ、学園長には挨拶して行かんのか」
雄三はいつもの調子で言う。伊作はそれを見てほっとした表情になった。
――よかった…いつもの先生だ…
伊作はにっこりと微笑んだのだった。
それから三日後。
小平太の部屋に手紙が投げ込まれていた。
――七松先輩へ
お渡ししたい物があるので町はずれの一本松のところでお待ちしています。
その文面を読んだ小平太は訝しげに部屋を出ていった。
後ろで仙蔵が笑みを浮かべているのにも気付かずに。
翌日から小平太が『フリー』という単語に拒絶反応を示すであろうことを知っているのは仙蔵だけだった。