天空海闊

 吐く息は白い。
 雪のちらつく中、利吉は走っていた。
 背後には多数の追っ手。
 ちらりと後ろを見ると、利吉はさらに足を早めた。
「くそ…」
 小さく悪態をつく。なかなか引き離せない。それも、敵地から引き上げるときに負った左肩の傷の所為だった。毒でも塗られていたのか、少しずつしびれが伝わってくる。
「…やっと…」
 利吉は足を止めた。目の前にはもう道はない。下を見下ろすと、冬の海がまるで利吉を誘うように波打っていた。
「そこまでのようだな」
 背後からかかる下卑た声に、利吉はゆっくりと振り返った。その口元にわずかに笑みが漏れる。
 どうせなら多くの道連れを。海にさえ落とせば手早く倒せる。利吉はそう思った。
「背水の陣で戦うってか?結構なこった」
「悪いが海に落ちてもらうぜ」
「はは。山田利吉もここまでか」
 次々と上がる嘲笑の声。利吉はぐっと拳を握りしめると、目前の敵に斬りかかった。

「あれ…?」
 小舟に乗っていた鬼蜘蛛丸は思わず自分の目を疑った。
「あれは…利吉さん?」
 そう言うと、鬼蜘蛛丸はそちらへ向かって船を漕いだ。

「どうした?それまでか」
 喉元に突きつけられた白刃。利吉はぼんやりとかすむ視界の中でそれを見ていた。本能的に足を少し後ろにずらす。からん…と音がして足下の小石が海へと吸い込まれた。
 利吉はちらりと後ろを見た。この状態で海へ飛び込めば恐らく命はないだろう。
(それでも…)
 敵の手には掛かりたくなかった。利吉は覚悟を決めて地面を思い切り蹴った。
 視界の端で敵方が目をみはるのが見えた。
 背中に風を感じる。
(父上…母上…)
 利吉は目を閉じた。
「利吉さん!!」
 突然頭の下から聞こえてきた声に、利吉は目を見開いた。
 その瞬間。
 利吉の体は水の中へと入っていた。

(さっきの声は…)
 幻聴かな、利吉はぼんやりする頭でそう思った。身体から力が抜けていく。しかし、いきなりその身体は引き戻された。
「利吉さん!」
 鬼蜘蛛丸は海に飛び込んで利吉を水面へと引き上げた。そのまま小舟へと泳ぐ。幸い、小舟は波にもまれてはいなかった。
 船の上に利吉を引き上げると鬼蜘蛛丸は崖の上を見上げた。血走った眼で弓をつがえる男達がいた。
「放て!!」
 崖の上から響く声。同時に、矢の雨が降る。
 鬼蜘蛛丸は櫓を握りしめた。

 鬼蜘蛛丸は櫓を手近な岩に押しつけるとその反動で船を移動させた。今まで小舟のあったところの水面に矢が吸い込まれる。
「次!!」
 矢はどんどん降ってくる。鬼蜘蛛丸は利吉の上に覆い被さるようにしながら櫓を漕いだ。巧みに櫓を漕いで矢を避けながら、崖から遠ざかっていく。
 遠ざかるにつれ、矢は飛んでこなくなった。
「大丈夫でしたか、利吉さん」
 鬼蜘蛛丸は利吉にそっと声をかけた。利吉は少し呻いて目を開いた。
「鬼蜘蛛丸…さん…?」
「よかった…気がついたんですね。とりあえず、水軍館へお連れします」
 鬼蜘蛛丸は水軍館へと船を走らせた。

「少し我慢して下さいね」
 水軍館に着くと、鬼蜘蛛丸は利吉の傷を手当し始めた。利吉はぼんやりとする視界の中でそれを見ていた。
(奴らはあれぐらいでは諦めない…だとすると)
 利吉は唇をかんだ。このままでは鬼蜘蛛丸達をも巻き込んでしまう。
 その時だった。
 館の外で爆発音がして館の床がびりびりと振動した。
(…おそかったか)
 利吉は立ち上がろうとした。しかし、身体がしびれて思うように動けない。
「まだ起きないで下さい」
 鬼蜘蛛丸は小さく制すると身構えた。他の海賊達はめいめいに武器を取って外の様子をうかがう。
 と、件の男達が斬りかかってきた。

 海賊達は思ったよりも強かった。次々と男達を圧倒していく。
 しかし、その包囲網が一カ所崩れ、一人の忍びが抜け出してきた。
「!!お前は…」
 その男は先ほど利吉の喉元に白刃を突きつけた男だった。利吉は壁に手を当てて立ち上がる。
 利吉に飛びかかろうとする男の前に、鬼蜘蛛丸が立ちはだかった。
 短刀を手にしている。驚く利吉の目の前で、鬼蜘蛛丸は男の懐へ飛び込んだ。

 鋭い金属音がして短刀が宙を舞う。
 少し離れたところの床に短刀が突き刺さり、鬼蜘蛛丸は右手を押さえて膝をついた。
「くっ…」
「鬼蜘蛛丸さん!!」
 利吉は夢中で手裏剣を投げた。しかしそれは敢えなく叩き落とされた。
「どうやら毒が効いたらしいな」
 男はにやりと笑うと鬼蜘蛛丸の横を通り過ぎて利吉の目の前に立った。
 利吉は鋭い目で男を睨む。男は無言で刀を構えた。
 ――斬られる…
 利吉がそう思った瞬間、男は身体を急に反転させると後ろに向かって刀を振った。
 利吉が声をあげるまもなく、血しぶきが舞った。
「!!」
 しかし、倒れたのは男のほうだった。腹部には深々と短刀が刺さっている。倒れた男の刀の切っ先には、鬼蜘蛛丸の頭巾の切れ端が引っかかっていた。
「お怪我はありませんか」
 鬼蜘蛛丸はすっと立ち上がった。頭から斬られた頭巾がはらりと落ちる。
「ええ。鬼蜘蛛丸さんこそお怪我は?」
 利吉はその場にへなへなと座り込んだ。全身から力が抜けていくのが解る。
「…すみません…毒がまだ…」
「ああっ、利吉さん!!」
 鬼蜘蛛丸は利吉に駆け寄ってそっと身体を支えた。すっかり喧噪は収まっている。他の海賊衆が追い払ってしまったらしい。
「もう心配はありませんから。ゆっくりと休んで下さい」
 鬼蜘蛛丸はそう言って利吉に静かにふとんを掛けると、ふと後ろを見た。
 ――人を…殺めてしまったか…
 鬼蜘蛛丸は右手の傷をそっと撫でた。

 手傷を負って振り返ったときに刀を既に構えていた男。
 無我夢中で短刀を床から抜き取り、男の不意打ちを間一髪でかわして短刀を突き立てた自分。
 あの時の光景が第三者が見ていたかのように脳裏に浮かんでは消えた。
「鬼蜘蛛丸さん」
 後ろから利吉の声がした。鬼蜘蛛丸ははっとして振り返る。
「…私の至らなさ故に貴方の手を汚させてしまって…本当になんとお詫びして良いか」
「気にしないで下さい。奴らがここに攻め入ってきた以上、我々にとっても消去すべき敵でしたから…それに、汚れた手は洗えば良いんですし」
 鬼蜘蛛丸は明るく言った。そして男を担いで外へ出ようとする。
 しかし。
「う…」
「鬼蜘蛛丸さん!?」
 男を担いだその状態で、鬼蜘蛛丸はうめき声を上げて片膝をついた。利吉はがば、と飛び起きた。
「ううう…すみません。陸酔いが…」
 利吉は見事に床で頭を打つ羽目になった。

 数日後。
「良いんですか?利吉さん。お仕事が…」
「良いんですよ。私に出来ることはこのくらいですし」
 すっかり回復した利吉は鬼蜘蛛丸の手伝いを1日する事にした。
 冬らしい澄み渡った空には一片の雲もない。
 数日前にはあんなに恐ろしかった波の音も今では心地よい調べとなって、利吉の耳に届いた。
「不思議ですね、海って」
「ええ。本当に“深い”ですよ」
 二人は顔を見合わせた。そして、同時に笑い出す。

 利吉は鬼蜘蛛丸を見て思った。海の男とはこういう人を言うのかもしれない――と。
 ――汚れた手は洗えば良いんです。
 鬼蜘蛛丸の言葉を利吉は思いだし、そして自分の手を見た。
 ――私の手も洗えるのだろうか?
 利吉の心の声が聞こえるかのように波は優しく船底をうった。
 ――大丈夫、貴方なら。
 そう言わんばかりに優しく、優しく…

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