通り雨<前編>

 学園には一つのジンクスがある。
 『保健委員』は『不運委員』であり、一度保健委員になったらそこから抜け出すことは出来ない、というものだった。
 そのジンクスは見事に踏襲されている。毎年、保健委員長とは『学年一不運な生徒』の代名詞であった。
 今年の保健委員長もそうである。六年は組、善法寺伊作、その人だ。

「ごめんね、仙蔵」
 伊作は申し訳なさそうに言った。言われた仙蔵は、気にするなと言うかのように首を左右に振る。他の生徒が思い思いに羽を伸ばしている休日、伊作は自室で仙蔵に勉強を教わっていた。

 学園の委員は大きく二つに分類される。
 一つは、作法委員や体育委員など、主にその活動が授業時間前、および授業中であるもの。そしてもう一つが図書委員や保健委員などの、放課後の当番での活動があるものである。
 保健委員はまさしく後者に当たる。彼らは当番で保健室にとどまり、新野先生の手伝いをしたりしなければならないのだ。伊作は、保健委員長としての責任感と、お人よしで世話焼きな性格から、当番以外の時も保健室に顔を出し、後輩の指導に当たっていた。
 もともと成績があまり良い方ではない伊作にとっては、こうした状況下で授業についていくのは大変なことであった。保健室での活動の合間を縫って予習、復習をこなし、何とか対応する。それでもどうしても間に合わない分を、こうして休日に仙蔵に見てもらっているのだ。

「他に解らないところは?」
「えっと、ここ・・・」
 遠慮がちに、伊作は教科書の一部を指差す。聞かれると同時に、仙蔵は的確に説明していく。実際、仙蔵の説明は非常に解りやすかった。授業中に理解できなかったことが、するりと頭に入ってくる。仙蔵がそんな風に説明できるのも、彼が授業内容を完全に理解している証拠であった。
「ありがとう、仙蔵」
 一通りの説明を受けると、伊作は笑顔でそう言って教科書を閉じた。仙蔵が軽く微笑み返すと、伊作はほっとした表情で伸びをした。高々と上げた腕を下ろしたとき、その言葉は不意に伊作の口をついて飛び出していった。
「いいなあ、仙蔵は頭が良くて」
 他意はなかった。別に媚びへつらいでも、ましてやあてつけでもなかった。伊作の素直な感想だったのだ。
 しかし仙蔵はその言葉を聴いた途端、急に表情を硬くした。伊作ははっとして仙蔵を見る。仙蔵は伊作をその切れ長の目で睨み、唇をきゅっと結ぶときびすを返した。伊作には理由は解らなかったが、先程の一言が仙蔵の気分を害してしまったことは明白だった。
「せんぞ…」
 制止しようとした伊作の指先に、仙蔵の艶やかな黒髪がふと触れる。次の瞬間にはその髪は伊作の指先を離れ、髪先と伊作の指先の間に戸が走った。
 ばたん。
 乱暴に戸を閉める音だけが部屋に響いた。伊作はその場にへたへたと座り込み、まだ髪に触れた感触の残る指先をそっとなでた。
「…どうしよう…」
 伊作の手が小刻みに震える。いつしか零れ落ちた涙が、その手を小さく濡らしていた。

「なあ、文次郎」
 次の日の朝、食堂では小平太が文次郎に話しかけていた。
「仙蔵と伊作、なんか変じゃない?」
 小平太の言葉に、味噌汁をすすっていた文次郎はふと手を止めた。ちらりと目だけを動かして、食堂の隅のほうにいる伊作を見る。いつもなら文次郎たちと朝食を一緒に摂る筈の彼が、一人で食事をしているのはかなり不自然な光景であった。仙蔵の方はというと、先程、一言も言葉を発さないうちに食事を終え、早々食堂を出た後だった。
「言われなくても解っている」
 文次郎は椀をそっと置いた。向かいでは長次が相変わらずの仏頂面で茶をすすっている。しかし時折視線を泳がせる辺り、彼も少しは気になっているのだろう。文次郎は溜息をつくと、小平太の方に向き直った。
「――別に、俺達が口を出すことでもないんじゃねえか?」
「…でも…」
 心配だよ、と小平太は小さく言った。ちらりと伊作の方を覗き見る。伊作の表情には疲労の色が濃く出ており、何か大きな悩みを抱えていることが手に取るように解る。一人で元気なく朝食を食べるその姿は、いつもより一回り小さく見えた。

 悪いことは重なるものである。
 案の定、まだ仲直りもせぬままに、二人はその日の授業に顔を出していた。その日の課題は二人一組での実践演習であった。
 伊作は気まずそうにちらと仙蔵を見た。教師が成績順で決めた『二人一組』で、伊作は見事に仙蔵と組むことになったのである。どことなく重い空気の流れるそのさまを見て、小平太と文次郎は苦い顔をした。
「…よりによってこうなるとはねえ」
 小平太は困りきった表情で言った。あるいは、広い情報網を持つ教師がわざと二人を組ませたのかもしれないとさえも思ったほどであった。
「とにかく」
 文次郎は言って、小平太と長次を見た。長次は相変わらず表情を変えずにじっと話を聞いている。
「今は成り行きに任せるしかないだろう。二人とももう子供じゃないんだ。仲たがいをして課題をトチるなんてことは――」
 文次郎は思わず言葉に詰まった。その気持ちは小平太にもなんとなくわかった。
 ふと目をやると、件の二人が課題に出かけようとしていた。空にはどんよりとした雲が出始めている。
「一雨…来そうだね」
 誰に言うでもなく、小平太はそっと呟いたのだった。

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