裏切り<其の一>
話は3日前に遡る。
学園の正門前でいつも通りに掃除をしていた事務員、小松田秀作はふと手を止めた。普段は普通の人間に真後ろに立たれても『気配』に気づかない彼も、なぜか学園の来訪者だけは相手がプロの忍者であっても察知出来るのだ。もはや忍術といっても差し支えない彼のその能力は、学園の教師達を感嘆させもしたし、苦笑させもした。
「あは、利吉さん」
来訪者――利吉が声の届く範囲にやってきてから、彼は少々間の抜けた声で話しかけた。その手には既に入門表と筆が握られていた。
「お久しぶりです。ここにサインを」
「相変わらず仕事熱心だね」
どこかとげのある口調で、しかしこの上ない微笑を浮かべながら利吉は筆を取った。整った筆跡で己の名を認める。書き終えると、利吉は顔を上げ、尋ねた。
「学園長は今何処に?」
秀作の言ったとおり、学園長は庵にいた。普段どおりの――学園用の――笑みを浮かべながら、利吉は庵へ入った。
「お久しぶりです。学園長先生」
「うむ」
学園長――大川平次渦正はちらりと利吉を見た。学園内でも指折りの教師の一人息子である彼に、学園長はやや警戒心を抱いた。
「今日は何か用かの?」
どこかとぼけたような口調で話しかける。利吉が直接庵へやって来たということは、それなりの理由があってのことだろう。学園長はそれを少し意識していた。
「回りくどいことを言っても仕方がありませんので、簡潔に申し上げます」
利吉は挨拶をしてから下げたままだった頭を漸く上げた。どこか柔らかい表情のまま、彼は言った。
「実は、先日とある城から依頼を受けたんです」
利吉はまっすぐ前を見た。鋭い視線が学園長を貫く。
「学園を潰したいのでその手助けをしてくれ、と。まあ、早い話が貴方を消してくれないか、と」
学園長は眉一つ動かさなかった。まるでそう言われることが解っていたかのようだった。利吉の方は、どこか楽しそうでさえあった。
「・・・で?どうするんじゃ」
「私は頂いた依頼はすべて受ける主義なんです」
学園長の問いかけに、利吉はぴしゃりと言ってのけた。その時初めて、学園長の眉が少し動く。それを見て、利吉は満足そうな表情を浮かべた。
「・・・モノはご相談なんですが・・・ご協力、願えませんか?」
刹那、学園長の手が隠しておいた槍に伸びた。
秀作から利吉の来訪を聞かされた伝蔵は、足早に庵へと向かっていた。
――あやつめ・・・
以前に、女装の出来る絶好の機会を知らせてもらえなかったのを根に持っているのだろうか。伝蔵は、利吉が自分より先に学園長に面会を求めたことに少し機嫌を損ねていた。
と、伝蔵の足が止まる。
学園長の庵が視界に入ったところで、伝蔵は妙な気配を感じ取ったのだ。頭で認識するよりも先に、肌が粟立つ。
――殺気!
幾度も修羅場を乗り越えてきた伝蔵でさえ、その凄まじい殺気に身震いした。慌てて庵に駆け寄ろうとしたその時、庵の障子が内側から弾けた。
(――利吉!!)
叫んだつもりが、声にならなかった。喉は焼け付くようで、頭からさっと血の気が引くのが感じられる。伝蔵の目の前で『自慢の息子』は、庵の障子を突き破るようにして飛び出してきたのだ。
伝蔵の視界では、次の一瞬の出来事がゆっくりと展開していた。
障子とともに飛び出してきた利吉は、ちらりと視線を伝蔵のほうへ投げかける。伝蔵と目が合った瞬間、利吉は舌打ちが聞こえてこんばかりの忌々しそうな表情を見せた。その表情は、今まで利吉が学園関係者や、ましてや父親には見せたことのない表情だった。
伝蔵が動けないでいるうちに、利吉は既に地面に手をついて半回転して体勢を整え、伝蔵とは逆方向に駆け出していた。
伝蔵が我に返った時には、もう騒ぎを聞きつけた教師達が庵の側に集まってきていた。伝蔵は重い足取りでその教師達に混じって庵へと歩みだす。どうやら学園長は無事らしい、ということが教師達の間で交わされる会話で伺えた。
伝蔵は、ふと先程利吉が駆けていった方向に目をやった。
「山田先生?」
気がつくと、同僚の土井半助が自分の方を見ている。半助は、心配そうに伝蔵の顔を覗き込んでいた。
「一体何が・・・」
眉を寄せて問う半助に、伝蔵は力なく笑った。
「土井先生」
「?」
「わしの一番恐れていたことが――」
起こってしまいました、という言葉が伝蔵にはどうしても言えなかった。目の前の出来事を否定したい気持ちが大きかったのだ。
途中で言葉を止めた先輩教師に、半助はますます不安げに問いかける。伝蔵はそれには答えようとはせず、ただ小さく溜息をついたのだった。
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