裏切り<其の五> 「最近――おかしくねえか?」 授業中の教室で、文次郎は隣の仙蔵にそう切り出した。授業中、と言っても教壇に立つ教師の姿は無い。ここのところ、授業が自習になってしまうことが多かったのだ。その割りに、やけに夜間演習が多い。毎日毎日の夜間演習に流石の6年生も疲れを隠せず、自習時間を利用して睡眠をとっている者も多かった。 「授業はすぐに自習になっちまうし。実技実習はやたら夜ばっかだし。それに――」 文次郎はそこまで言って、大きなあくびをした。普段から彼の目元にうっすらと浮かんでいた隈が、より色濃くなっている。 「それに何だ」 仙蔵はやや早口で言った。相変わらず絹のようなその髪をかきあげながら、煩そうに文次郎を睨む。 文次郎はその視線を受けて、好戦的に微笑んだ。 「それに――最近伊作がずっと保健室にこもっているらしい」 「ほう」 仙蔵はなんでもない風を取り繕いつつも、内心ほっとしていた。自分も動いていることが知れるとまずいのである。 「…ったく…一体何なんだよ。探りを入れに行こうにも毎晩毎晩実習で――」 「!」 仙蔵はハッとした。ここのところ続いている夜間演習。その意図を、仙蔵は理解したのだ。 ――近いのか。 仙蔵は身震いする思いがした。今まで6年間学園で過ごしていて、これほど教師達が慎重になることがあっただろうか。気づかなかっただけかも知れないが、少なくとも仙蔵の記憶にある中では一番大きな事件が起ころうとしているのは確かだった。 「お前」 不意に文次郎に話しかけられて、仙蔵はびくりとした。ややぎこちない表情を文次郎に向ける。 「何だ」 「何か――知っているだろう」 文次郎の目が、心の奥までを探るように仙蔵の瞳を覗き込んでいる。仙蔵は文次郎のこの目が苦手だった。そんなことはありえないとは思いつつも、心が読まれているような気分になる。 「何を言うか」 そんな視線に耐えられなくて、仙蔵は視線を外した。心臓がドキドキと音を立てているのがわかる。 ――悟られてはいけない。 仙蔵は自分に言い聞かせた。いくら親友といえども、文次郎に話すわけにはいかない。 ――こいつもそのくらい解っている筈なのに… 仙蔵はちらりと文次郎を見た。文次郎はいつに無く厳しい表情をしている。現状が把握できないもどかしさと、自分だけが事情を知らされていない、という疎外感を感じているのだろう。 「もういい」 文次郎は立ち上がった。クラスの面々が、思わずそちらを見る。 「自分でそのくらい調べるさ」 「待て」 制止しようとする仙蔵の手を振り解き、文次郎は乱暴に戸を開けて教室を出て行った。 「文次郎…」 ぴしゃり、と閉められた戸の前で、仙蔵は唇をかんだ。拳を握り、それを戸に叩きつける。何に対して腹を立てているのか、仙蔵は自分でも解らなかった。 ばたり。先程殴られた戸が、大きな音を立てて廊下の方へ倒れた。仙蔵は無表情でそれを見下ろし、その上をぞんざいに踏みつけて教室を出て行った。 それを見ていたい組の学級委員長は眩暈を覚えた。 ――ああ、俺はこれから事の次第をどう弁明すべきだろうか? うるさいぞ!!怒号とともに近づいてくる教師の足音をひしひしと感じつつ、彼は大きな溜息をついたのだった。 「随分とまあ…呑気なことで」 校舎のすぐ側に生える木の上で、事の次第を総て見ていた者がいた。利吉である。 文次郎たちのことを呑気、と形容したわりに、彼自身にもさほどの緊張感は無かった。我が家でくつろいでいるときの表情そのままで、教室を見下ろしていた。 「貴方もそう思うでしょう?」 利吉は、教室を見下ろした姿勢そのままで問うた。背後から忍び寄ろうとしていた人物が動きを止めたのを感知すると、ゆっくりと振り返る。 「ねえ、土井先生」 利吉はそう言って、半助に微笑んで見せた。半助は、全身から殺気を放っている。 「やだなあ。怖い顔をして。今日は何もしませんよ」 「――利吉君」 半助は身構えた。目の前にいるのはもはや慣れ親しんだ彼ではない、自分にそう言い聞かせていた。 「今ならまだ間に合う。この仕事から手を引くんだ」 「お断りします」 利吉は即答した。半助はあらかじめその答えを予期していたのか、さほど表情は崩さなかった。 「どうして…どうしてわざわざ父上と対立するようなことを?」 「土井先生」 利吉の表情がふと変わった。悲しんでいるような、怒っているようなそんな感情の入り混じった表情だった。 「私は基本的に依頼は断らないようにしているんです。それに――」 利吉の手がすい、と動いた。 「もはや私にとって、父の名は邪魔なものでしかないのです」 たん。言い終わると同時に、半助の背後の枝に棒手裏剣が刺さった。少し遅れて、半助の頬に赤い筋が走る。頬が熱を帯び、生暖かい液体が頬を伝っているのを感じたとき初めて、半助は自分が攻撃されたことを認識した。 「伝言をお願いします」 利吉の目が、すっと冷たくなった。 「もう察知なさっているかもしれませんが、既にサンコタケは臨戦態勢に入っています。軍も近くまで来ていますし、配置につくのも時間の問題でしょう」 利吉は半助のほうに手を伸ばした。半助は動かない。利吉は先程投げた棒手裏剣を掴むと、一気にそれを引き抜いた。 「明日」 利吉は棒手裏剣を懐にしまいながら言った。 「明日、学園長の首級を頂きに参ります」 「何!?」 半助は思わず懐剣を抜き放っていた。利吉は流れるような動きでそれを避け、避けざまに半助の足をさっと払った。不意を突かれた半助の足は、木の枝から離れていた。 「!!」 半助は咄嗟に手を伸ばし、先程まで自分が乗っていた枝を掴んだ。半助を見下ろす形になった利吉は、最高の微笑みをうかべた。 「いいですか。私がわざわざ出向くのです。最高の接待をお願いしますよ」 それだけ言うと、利吉は枝を蹴った。咄嗟に追おうとした半助だったが、たわむ枝に邪魔をされ、利吉を見失ってしまった。 「利吉君…」 地上に降りた半助は、そう呟いて頬に触れた。先程流れた血が乾き、ぼろぼろと剥がれ落ちる。 血のにおいが、行く末を示唆しているようで、半助は無性に切なくなった。 ひたすらに、切なかった。 ●次へ ●戻る |