自縄自縛<其の四>
『もし…もし俺が今から一人の少女として暮らすことに同意したら…今までの俺の人生の意味はどうなってしまうんだ?』
『何もかも…何もかも遅いんだ…俺は…“蘿”としてしか生きられない…』
頭の中で“蘿”の言葉がぐるぐると回っていた。
たった一度だけ会った本当の“蘿”が――あの少女がそんなにも重たい物を背負っていたなんて。
――蘿は何年もの間、『自分』として生きることが許されなかったんだ…
利吉はそれを考えると、途轍もなく切ない気分になって、先程まで“蘿”が見つめていた川にそっと手を入れた。
ひやりとした水の感触に、利吉は思わず手を引っ込める。
引っ込めた手をもう片方の手で軽く押さえると、利吉はほう、と溜息をついた。
(幸せだと気付かないで過ごしていることがある…ってわけか…『自分』として生きられるっていうことが幸せなことだなんて考えもしなかったけれど…)
でも、実際にはその幸せが与えられていない者もいるのだ…そう、“蘿”のように。
利吉は再び水の中に手を入れた。今度は引っ込めたりせずに、もう片方の手も水に浸ける。手を器の形にして水をすくい上げると、そのままぱっと水を散らした。
飛び散る水の滴が陽光を反射する。
そして、その光の粒が元の水面に帰る頃――利吉は既にその場を去っていた。
なんだか沢山、生意気なことをいったような気がする。
“蘿”は頭を抱えた。わき上がってくる罪悪感。脳裏に心配そうに自分を覗き込む利吉の表情がよぎった。
――本当に私のことを心配してくれていたのに…私ったらなんてことを…
『少女』としての思考が“蘿”の頭の中で展開される。
もはや“蘿”はそれを気にもとめなかった。
あの時自分を支配していたのはただただ『恨み』だけだった。自分から『自分であること』を奪った里。自分をそんな運命に巻き込むきっかけを作った兄。そして、そんな運命から脱却できない自分――
身の回りの全てに対しての恨みが、あんな言葉を紡いでしまっていた。
――利吉さんは何も悪くないのに…
“蘿”の頬を一筋の涙がつたった。そのまま着物に落ちて、小さな染みを作る。
その染みが消えるか消えないかといったとき、“蘿”は立ち上がった。
「――謝りに行こう」
“蘿”は目元を軽く拭った。
――これは運命だから。
――これは任務だから。
そう自分に言い聞かせて今まで過ごしてきた。
そして今まで逃げてきた。
“蘿”はそれを自覚しつつあったのだ。
『自分が自分として生きるため』に“蘿”は歩みを早めた。