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塩 の 乱 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 天 保 八 年 二 月 一 九 日 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 大 塩 平 八 郎 檄 文 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 大
塩 の 乱 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 天 保 八 年 二 月 一 九 日
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Я[大塩の乱 資料館]Я 2001.4.9修正
◇◇ 大 塩 檄 文 ◇◇成正寺所蔵史料より
![]() (袋上書) 天より被下候 村々小前のものに至迄へ (本文) 四海こんきういたし候ハゝ天禄ながくたゝん 小人に 国家をおさめしめば災害并至と 昔の聖人深く 天下後世 人の君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ 東照神君ニも 鰥寡孤独ニおひて尤あはれみ を加ふへくハ是仁政之基と被仰置候 然ルに茲二 百四五十年太平之間ニ 追々上たる人驕奢とておこり を極 太切之政事ニ携候諸役人とも 賄賂を公ニ授受と て贈貰いたし 奥向女中之因縁を以 道徳仁義をも なき拙き身分ニて 立身重き役ニ経上り 一人一家を 肥し候工夫而已ニ智術を運し 其領分知行所之民百 姓共へ過分之用金申付 是迄年貢諸役の甚しき 苦む上江 右の通無躰之儀を申渡 追々入用かさみ候ゆへ 四海の困窮と相成候付 人々上を怨さるものなき様ニ 成行候得共 江戸表より諸国一同右之風儀ニ落入 天子ハ足利家已来別而御隠居御同様 賞罰之柄を 御失ひニ付 下民之怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方な き様ニ乱候付 人々之怨気天ニ通シ 年々地震火災 山も崩 水も 溢るより外 色々様々の天災流行 終ニ五穀飢饉ニ相成候 是 皆天より深く御誡之有かたき御告ニ候へとも 一向上たる人々 心も付ず 猶小人奸者之輩 太切の政を執行 只下を悩 し金米を取たてる手段斗ニ打懸り 実以小前百姓共 のなんきを 吾等如きもの 草の陰より常々察し悲候 得とも 湯王武王の勢位なく 孔子孟子の道徳もなけ れバ 徒ニ蟄居いたし候処 此節米価弥高直ニ相成 大坂之 奉行并諸役人とも 万物一体の仁を忘れ 得手勝手 の政道をいたし 江戸へ廻米をいたし 天子御在所之京都へハ廻米之世話も不致而已な らす 五升一斗位之米を買に下り候もの共を召捕抔い たし 実ニ 昔葛伯といふ大名 其農人の弁当を持運 ひ候小児を殺候も同様 言語道断 何れの土地にても 人民 ハ 徳川家御支配之ものニ相違なき処 如此隔を付候ハ 全奉行等之不仁ニて 其上勝手我儘之触書等を度々 差出し 大坂市中游民斗を太切ニ心得候者 前にも申通 道徳仁義を不存拙き身故ニて 甚以厚ケ間敷不届 之至 且三都之内大坂之金持共 年来諸大名へかし付候 利徳の金銀并扶持米等を莫大ニ掠取 未曾有之有福 に暮し 丁人之身を以 大名之家老用人格等ニ被取用 又ハ自己之田畑新田等を夥しく所持 何に不足なく 暮し 此節の天災天罰を見なから畏も不致 餓死之 貧人乞食をも敢而不救 其身ハ膏梁之味とて結構 之物を食ひ 妾宅等へ入込 或ハ揚屋茶屋へ大名之家来を 誘引参り 高価の酒を湯水を呑も同様ニいたし 此難 渋の時節ニ絹服をまとひ候かわらものを妓女と共に迎 ひ 平生同様に游楽に耽候ハ 何等の事哉 紂王長夜の 酒盛も同事 其所之奉行諸役人 手ニ握居候政を以 右之 もの共を取〆 下民を救候義も難出来 日々堂島相場斗 をいしり事いたし 実ニ禄盗ニて 決而 天道聖人之御心ニ難叶 御赦しなき事ニ候 蟄居の我等最早堪忍難成 湯武 之勢孔孟之徳ハなけれ共 無拠天下のためと存 血 族の禍をおかし 此度有志のものと申合 下民を悩し 苦〆候諸役人を先誅伐いたし 引続き驕に長し居候大坂 市中金持之丁人共を誅戮およひ可申候間 右之者共 穴蔵ニ貯置候金銀銭等 諸蔵屋敷内に隠置候俵米 夫々分散配当いたし遣候間 摂河泉播之内 田畑所持 不致もの たとへ所持いたし候共 父母妻子家内之養方難 出来程之難渋者へハ 右金米等取らせ遣候間 いつに而も 大坂市中ニ騒動起り候と聞伝へ候ハゝ 里数を不厭一刻も 早く大坂へ向駈可参候面々へ右米金を分け遣し可申候 鉅橋鹿台の金粟を下民へ被与候遺意ニて 当時之 飢饉難義を相救遣し 若又其内器量才力等有之者 ニハ夫々取立 無道之者共を征伐いたし候軍役ニも遣ひ申 へく候 必一揆蜂起之企とハ違ひ 追々年貢諸役ニ至迄 軽くいたし 都而中興 神武帝御政道之通 寛仁大度の取扱にいたし遣 年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改 質素ニ立戻り 四 海万民いつ迄も 天恩を難有存 父母妻子を被養 生前之地獄を 救ひ 死後の極楽成仏を眼前ニ見せ遣し 尭舜 天照皇太神之時代に復シかたく共 中興之気象ニ 恢復とて立戻り申へく候 此書付村々ヘ一々しらせ 度候へとも数多之事ニ付 最寄之人家多候大村之神殿江 張付置候間 大坂より廻し有之番人ともにしられさる 様ニ心懸 早々村々へ相触可申候 万一番人とも眼付 大 坂四ケ所の奸人共へ注進いたし候様子ニ候ハゝ 遠慮なく 面々申合 番人を不残打殺可申候 若右騒動起り候を 承なから 疑惑いたし 駈参不申 又者遅参及候ハゝ 金持之米金者 皆火中の灰に相成 天下之宝を取失 ひ申へく候間 跡ニて必我等を恨み 宝を捨る無道者 と陰言を不致様可致候 其為一同へ触しらせ候 尤是 迄地頭村方ニある年貢等ニかゝわり候諸記録帳面 類ハ都而引破焼捨可申候 是往々深き慮ある事ニて 人民を困窮為致不申積に候 乍去此度の一挙 当朝 平将門 明智光秀 漢土之劉裕 朱
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