■歴史転換点・詳細
これから紹介する事件は、過去日本が遭遇した歴史的大事件を主に軍事面から見た場合の象徴的な出来事をまとめたものです。そこで、多少文面を変更しています。
■日清戦争 「進みすぎた日本軍」 日清戦争末期、日本軍が威海衛、旅順を攻略して実質的に戦争に勝利した段階で、互いの政府は講和すべく歩み寄りを見せた。 しかし、講和直前の段階で清朝政府内部での一部の意見不一致から日本政府に対する言葉の錯綜があった。また、予期せぬ梅雨前線の通過とそれがもたらした天候の長期の悪化で、清国側の停戦交渉団の下関到着の遅延した。後者の事件に対しては、清国政府も単なる天候不良なのでこれを日本政府に特に通達しなかった。 だが、これらの事態を日本軍はまだ清国が継戦意欲を失っていないと誤断。 清国北洋艦隊根拠地・威海衛攻略の後、戦費に不安を感じていた明治政府は、清国に降伏を促するため、当初は全く予定していなかった北京を包囲するところまで進撃する事を決断する。 山県有朋は、現地の日本軍に対して指令した、「第一、第二軍両軍ハ、直チニ北京ニ対シテ進撃セヨ」と。 攻撃は、清国軍が全く戦意を喪失していた事、黄海の制海権を確保していた事もあり、天津の占領、北京の包囲と順調に進み、作戦開始1カ月で日本軍将兵は北京の城壁を取り囲んだ。 清国の講和講和使節が下関に到着した時には、全てが手遅れとなっていた。 これが直接原因で清国は降伏する事となり、北京包囲とほぼ時を同じくして始まった下関での講和会議で清帝国は、朝鮮半島の主権を失ったばかりか、遼東半島と台湾島の割譲、戦時賠償金として日本に4億両(テール)の支払いを行う事となる。 なお、明治政府が、余りにも膨大な賠償を清国に要求したのは、日本がそれまでのアジア協調により欧米列強と対抗しようとしていた政策を変更し、大勝利した事で日本が国際的に認知されたとして、一国でもって対抗しようと画策した事による。 この戦勝による泥縄的な政策変更のため、下関の講和会議で実質的に首邑北京を人質とした日本政府は、清国に対しある程度穏便な講和条件で臨む予定だったのが、諸外国への手前強気の姿勢を貫く事となったのがその理由である。
4億両、7億円余もの賠償金(国家予算の3.5倍)を得た日本政府はこれを主に重工業の建設と軍備の増強に投資する。 また、ロシアが仮想敵として最有力だったため、陸軍にも予算が多めに投資される。 これにより陸軍では、師団増設に合わせて砲兵工廠の大幅拡張と砲兵旅団の増強が行われ、合わせて有事の際の砲弾備蓄も進められ、陸軍全体の火力装備を充実させる事となり、これが、日露戦争で砲弾の供給を円滑にし日本勝利の原動力となる。(開戦時で各種砲弾200万発の備蓄が確保される。) また、この戦争において日本は清国より、本戦争最大の目的である朝鮮の独立の保証はもちろんのこと、台湾島の割譲、僚東半島の割譲を得ていたが、僚東半島は欧州の政治干渉により清国に返還、時を置かずしてロシア帝国がこれを租借している。 これは、日本国民に「露西亜憎し」の感情を作り出し、次なる戦争へ日本政府を誘って行くことになる。
■日露戦争 「猛将乃木」 日露戦争では、第3軍を率いて大山・児玉両名の元満州の荒野を駆け巡り、猛将として知られる。その猛将ぶりは、ハルピンでの最後の大会戦でもいかんなく発揮され、尋常ならざる防戦の末、日本軍の全面崩壊を救っている。ハルピンで、本来の計画に従い反撃に出たロシア軍は、乃木のあまりにも苛烈な防戦に恐れを抱き後退、その間に日本軍は戦線の立て直しに成功し、これが結果的に勝利へとつながっている。 そして、その苛酷な日露戦争の戦いの経験から乃木将軍は、天皇陛下への拝閲の際に、四方を海に囲まれた日本の陸軍は、大陸国家との直接対決は極力避け、防衛陸軍を旨とすべしとの発言を行い(元は児玉の遺言とも言えるものらしく、乃木の語った言葉はもっと柔らかく、間接的なものだったと言われている。)、日露戦争で最も活躍した陸軍将帥の言葉だったため、その後の日本陸軍の方向性を決定づけることとなる。(もちろん、あまりにも凄惨だった陸戦の記憶と、現実の損害が最大の理由です。彼の発言は、この方向に若干の軌道修正を強いたに過ぎませんが、象徴的出来事とされています。)
※乃木将軍は、戦場においては親友の児玉のまさに駒となり、純軍事的に彼は何もしていないと言っても過言ではない。彼は単に部隊を突撃させ、それを総司令部に制御される事により多大な戦果を挙げたに過ぎない。
戦争全般は、奥将軍率いる第2軍の活躍により早期に旅順攻略を実現(最初の大規模威力偵察と二度の総攻撃により11月に攻略完了)した日本陸軍は(南山攻略とほぼ同じくして第三軍が上陸し、そのまま北進)、比較的豊富な砲弾の使用により積極的攻勢を続ける日本軍を恐れ後退を続けるロシア軍を追い、8月の遼陽、11月の奉天での決戦で勝利(奉天では増援到着前のロシア軍に決戦を挑み、結果的に包囲攻撃が成功、10数万の敵兵を戦死・捕虜にし、壊滅的打撃を与える事に成功している)したことにより更に進撃を続けた日本軍は、ついに3月、ハルピンでの三度目の決戦でロシア軍との最後の決戦にかろうじて勝利する。 そして、日本海海戦による海軍の歴史的勝利、樺太、ウスリー州に対する形だけの侵攻と、米国の調停によりなんとか講和に持ち込むことに成功する。 ただし、この連続した攻勢作戦のため日本陸軍は実質的に壊滅的打撃を受ける事になる。ロシア側がこの真実を知っていなかった事が陸上での最大の幸運と呼ばれている。
ポーツマス条約での日本への影響 ・樺太全島の併合 ・北緯54度以北のカムチャッカ半島の併合 ・全満州のロシアの利権の譲渡 ・韓国の独立の保証 ・僚東半島の租借権の委譲
※ハルピンまで攻め上り、ウスリーにも侵攻するので、史実よりも沢山利権を獲得します。当時の満州情勢だとハルピンを失えば、純軍事的には満州の全てを失ったも同然ですので(ロシアにすればウラジオストクすら封じられたようなものです)、満州全土の利権を日本が獲得するのが普通でしょう。なお、カムチャッカ半島は占領地域のウスリー地方の一部との交換のような形で割譲します。
■インターバル 「借金返済」 ・日露戦争で同盟関係にあり幾多の支援を行った大英帝国に対して、同盟への感謝の意味を以て利権の一部を無償で譲り渡す。 しかし、講話の調停を行ったアメリカ合衆国に対しては、日露戦争の前後して結ばれたアメリカとの口約束(鉄道に関連する利権)を、民間レベルだった口約束だった事もあり、土壇場でこれを断り、以後の日米関係に大きな影を落とす事になる。 また、多額の借款(戦費そのものは20億円以上にのぼっていた)をしていた日本政府は、満州、韓国の権益を大英帝国との共同保有を行い、膨大な借款の返済に当てる事となる。 さらに、勝利したものの、ひどく陸軍力を消耗した日本は、その肩代りを一部英国に依頼せざるおえない状態となる。これも、大英帝国に韓国・満州の市場を解放しなければならない理由ともなっている。 これらの大英帝国への市場開放と、それによる朝鮮半島での日本勢力減退を国民に説明するために、英国には莫大な戦費の借款がありこれを返済するのは当然で、さらに同盟国にあるのだからと言う論法を以て『日英協調』を日本の国是として強調するようになる。 また、この戦争の勝利によりアジア、アフリカ各地域の独立運動家や独立運動グループが日本をあてにするようになり、これが後々欧米主導の国際社会からの孤立を深くする事になる。 だが、英国はアジアの番犬として日本を位置付けていたのである程度は容認されていた。 そしてロシア帝国は、この戦争により想像以上に疲弊する事となり、次の大戦で、早期に崩壊するきっかけの一つとなる。
また、この後イギリスの満州・朝鮮半島、中国進出による資本流入と、当地で必要とされるイギリス資本の現地発注先としての経済波及効果と、第一次世界大戦の影響で日本の重化学工業が飛躍的を伸張。また、満州・韓国の社会資本の急速な整備も進む。 しかしその後、強引なアメリカ資本進出により日本の対アメリカ感情は日に日に悪化の一途を辿る。特に利権の保護をうたい何かと亜細亜に兵力を派遣しようとするアメリカ軍に対する不信は根深いものとなっていった。 そしてさらに、日本が東亜細亜、西太平洋一帯を完全な勢力圏とした第一次世界大戦後、それに反発するアメリカとの対立が明確になり、双方の軍備増強に力が入れられるようになる。
■第一次世界大戦 「連合艦隊西へ」 第一次世界大戦では日露戦争後、より多くの借りをイギリスに作ったため、海軍の主要艦艇(新鋭巡洋戦艦4隻を中心にした名実ともに主力艦隊)と陸軍の一個軍(軍団)を派遣。 また、同時にアジア・太平洋地域のドイツが利権を保持する地域へ、イギリスのお墨付きのもと侵攻。 1916年、連合艦隊・遣欧艦隊は史上最大となったジュットランド海戦に、英国艦隊の一部として参加、英巡洋戦艦隊の後詰めとしてドイツ艦隊を強力な14インチ砲32門による攻撃で多数の戦果を上げ、独巡洋戦艦1隻撃沈、1隻撃破、旧式戦艦3隻撃沈破の多大な戦果をあげ、英巡洋戦艦隊の危機を救い、海戦そのものも連合国側の勝利とする事に成功する。 そして、この北海での連合艦隊の成功は、日本海軍内において大艦巨砲主義がますます強い考え方となる。 また、太平洋・アジア地域=」インド洋=地中海と続くシーレーンにて、ドイツのUボート・通称破壊艦と激しい攻防を繰り広げた事により、特に初戦において苦い経験をし、その後海上護衛が(以前より)重く見られるようになる。
なお、日本海軍による思わぬ反撃を受けたことで、ジュットランド海戦では結果的に大敗北を喫したドイツ海軍は、その後巻き返しと復讐を図ろうと、何度か出撃したが互いの誤認により遂に大規模な戦闘が発生する事はなく、しだいに積極的な攻勢に出る事がほとんどなくなる。 ただし、水上艦隊が積極的に何度も出撃した事から、そのしわ寄せが通商破壊部隊にいき、このため一時的に活動が停滞化、連合国側に海上護衛体制を作らせるスキを与える結果を生む。 結果として、連合国はシーレーンの防衛に成功し、ドイツは相対的な戦争経済の崩壊により内部から崩壊、降伏する事につながる。
■ロシア革命・シベリア出兵 「シベリア出兵」 1917年、ロシア帝国にて帝政が倒され、ロマノフ王家は幽閉され、革命勢力により社会主義革命が発生した。 世界は大戦争中であり、敵と味方に分かれていたにも関わらず、社会主義革命阻止のため軍を派遣するなど妨害工作がおこなわれた。 革命の緩衝は、最大規模はドイツ軍による大攻勢とブレスト=リトフスク条約の調印と言う形で一つの結論に至るが、遠く極東でも各国の利権渦巻く中、戦争が下火になってきた頃から活発に行われるようになった。 極東での干渉は、支那・満州に多くの利権を持つ英国主導ですすめられ、日本は治安出動のため満州に出た部隊を除けば、約1個師団の戦力を派遣したに留まっている。 詳細を述べるなら、当時友好関係にあったロシア政府との取り決めの拡大解釈により満州以外では、沿海州、ウスリー州、ハバロフスク州へ小規模な治安維持出動のため派兵をしたのみである。 また、シベリア出兵で主な役割を果たしたもう一つの国は、ようやく近代的な政府を作り上げつつあった大韓国で、この国は日英の衛星国のような位置にあった事から、英国の要請で1個師団の兵力を極東に派遣している。
■ワシントン海軍軍縮会議失敗・ジュネーブ海軍軍縮会議成功 「交渉決裂と妥協成立」 1919年、ドイツ帝国崩壊による第一次世界大戦の終了と共に世界に平和は訪れた筈だったが、大戦前後から始まっていた日米による大艦隊建造競争が、戦後太平洋にて加熱しつつあった。 当時、艦隊建造をリードしていたのは、アメリカ合衆国で、第一次世界大戦で大きくなった国富と工業生産力にものを言わせて、戦争で巨大化した日英に対抗すると言う政策の元、ダニエルズ・プランと呼ばれる大艦隊建設計画を推進していた。この計画は、大戦に特に参加しなかった事で当初はゆっくりしたペースで進められていたが、結局戦争には参加しなかった事から順調に進捗し、大戦中であり護衛艦艇や輸送船にその努力を傾倒しなければいけない日本の焦燥は極めて大きなものとなりつつあった。 戦後日本は、アメリカの艦隊建造に対抗するため、一大建艦計画である「八八艦隊」計画を推進した。そしてこれがアメリカの艦隊建造速度を上昇させ・・・と言う悪循環を繰り返していた。 これを世界戦略的に憂慮したのが大英帝国で、戦後の風潮をうまく利用して、両者を海軍軍縮会議のテーブルに着かせることに成功する。ただし、対英日不信の大きい合衆国は、日英合計に対する同比率を要求した。これは、すでに多数の艦艇を就役させつつあるという現実的理由もあったが、そのような条件を到底日英両国が認める訳にはいかず、交渉は決裂してしまう。 その後、日本はさらなる建造計画の立案すら行い、対米対決姿勢を強くしていた。 だが、この日米両国の建艦競争に、ドイツと既に同様の事を行った英国はついていくことが出来ないことから、交渉決裂後もねばり強い交渉を続け、ついに1924年ジュネーブ海軍軍縮条約の締結に成功した。 この条約は、後世厳しい批判にさらされる実行力のあまりない条約とされたが、それでも最低限の歯止めをかけることに成功しており、結果として米英日全ての国の財務官僚がこの条約締結に胸をなで下ろしている。
■世界大恐慌 「ブラック・サーズディ」 1930年10月24日、アメリカ合衆国ニューヨーク市のウォール街で株の大暴落が始まり、それを機会として世界中が不景気へと突撃していった。 まだ、未成熟だった資本主義に、この大攻勢を止める手だてはなく、ただただ場当たり的な対応をするしかなかった。しかし、場当たり的な対応は、恐慌を押しとどめるどころか、彼らに豊富な補給物資と進撃路を渡すことになり、世界経済はどん底へとばく進する事になる。 この大恐慌に対して、多くの植民地を抱える英仏などはブロック経済と呼ばれる閉鎖貿易体制を確立し、その強固な要塞に頼ることで、不況の大攻勢を防ごうとした。 また、アメリカは巨大な国内経済に対して、これを受け入れる市場を持たない事から、大規模公共事業などによる内需拡大により乗り切ろうとしたが、中途半端な政策は傷を大きくするだけだった。 なお、支那利権を通じて英スターリング・ブロックにつながっていた日本も円ブロックを、満州、韓国で作り上げ小さいながら砦を作り上げて、嵐が過ぎ去るのを待とうとした。 一方、不況により頼みの綱のアメリカからの投資がアテに出来なくなったドイツは、大恐慌の大攻勢をまともに受ける事になり、民衆の不安が増大、全体主義の出現を促す温床を作り出す事になる。
■満州事変と日米の対立 「太平洋ノ波高シ」 1932年9月、柳条湖事件−満州事変が発生する。事件そのものはテロリストによる鉄道爆破とされたが、それを理由に日本・韓国の一部軍部が満州主要部を制圧。これを政府も追認し増援の軍隊を派遣、満州全土を支那政府の実権の及ばない地域にする。その後清朝最後の皇帝溥儀を迎え入れ、翌年満州国の建国を宣言。 利権を保持した英国は、日本政府を擁護するする発言を行っていたが、利権を日本に独り占めにされたアメリカ合衆国は、痛烈な対日非難を発表し、ハワイ・フィリピンに軍事力の進出を始める。 その後、中国政府の要請で、国連から事件の調査団が派遣されたが、裏で英仏などと取引をしていた日本政府の活動により、日本の既得権として暗黙の内に国際的に了承される事になる。 また、地理・地質調査隊が、1932年8月満州の大慶にて大油田発見し、日本政府は極秘裏にこれの調査、開発を開始する。 しかし、この情報は瞬く間に世界中に知れ渡り、アメリカ合衆国の愁眉を深くさせる事になる。 さらに1933年6月、上海にて日中による軍事衝突が発生した。この交戦の中、米国の船が撃沈され、多数の死傷者が発生。これに激昂した合衆国政府は、直ちに謝罪と中国からの撤兵を要求した。日本側も直ちに謝罪したが、アメリカ側は交渉を重ねるごとに過酷な、当時の外交常識を無視した要求を強くしてきた。これに、応えることは日本の死を意味するとして、日本側も激しく反発。 日米外相による直接交渉も開始されたが、効果はなく、対立は深まるばかりだった、しかもその交渉の最中、アメリカはフィリピンの治安維持を目的に大艦隊を亜細亜に派遣する事を決定。順次ハワイに軍隊の集結を始める。 これを見た日本政府も態度を硬化。互いに交渉を重ねつつも戦争の準備を始めることになる。 冬に入ると、戦艦数隻によるアメリカ艦隊がフィリピンに派遣されるに及び、もやは話し合いによる解決は難しいと日本政府も判断。有力な艦隊を派遣し、武力外交によりアメリカを威嚇する行動に出る。 これを待っていたアメリカ政府は、日本の侵略的傾向を激しく非難した。 後はどちらが先に手を出すかだけとなりつつあった。
■歴史的変遷(アジア中心)