■「悪役令嬢の十五年戦争」
■ 131 「帰国へ」
昭和5年（1930年）が明け、三が日が過ぎてお兄様はドイツ留学に戻り、私達はフランス南部のマルセイユへと向かう。 日本の商船会社が日本とヨーロッパの定期航路を開いていて、マルセイユがヨーロッパでの最初の到着港になっているからだ。 この欧州航路の船自体は最終的にイギリスのロンドンと、オランダのアントワープまで向かう。 だから私達は途中乗船者だ。
乗る船は「榛名丸」。欧州航路用の貨客船で、黒い船体に白い上部構造物、そして１本煙突という大正時代建造の標準的なスタイル。貨客船だから、客室となる上部構造物の見た目も小さい。船自体も１万トンを少し上回る程度しかない。
「なんか、普通の船ね」
「欧州航路に大型客船など走らせても、そんなに乗るやつはおらんぞ。北大西洋航路の欧米の豪華客船が少しおかしいんだ。だが、この船の船内は、オリンピック号には及ばんが立派だぞ。見た目のなりは大きいとは言えんが、これでも日本の顔だからな」
「へーっ。よく知ってるわね。乗った事あるの？」
「何年か前の欧州での学会発表の時に乗った。次は、日本からスウェーデンに行く時に乗りたいものだな」
「乗れるわよ。間違いなく」
「それは「夢見の巫女」としてか？」
「ううん。そんな夢見るわけないでしょ。けど、間違いないわよ」
「是非そうあって欲しいものだな。では、乗るか」
「うん。行こう、みんな」
そんな感じで紅龍先生と一通りな会話をした後、榛名丸に乗り込む。この船の主は日本郵船。バックに三井財閥などがいるので日本郵船との関係は薄いけど、日本が運営する欧州航路は日本郵船の独断場。例えるなら、私の前世での日本航空みたいなものだ。 日本には、他に大阪商船や鳳が大株主の国際汽船、浅田、安田系の東洋汽船などがあるけど、日本郵船とでは規模が違いすぎる。それでも日本で二番目の大阪商船は、北米航路を持っている。 東洋汽船は客船の老舗だったが、経営難の為に客船部門を日本郵船に売却してしまっている。 国際汽船は前の世界大戦で急成長した成り上がりなので、基本的に貨物船ばかり。鳳商船も合流させたけど、鳳の方はタンカーしかない。今も大型タンカーばかりを絶賛増産中だ。おかげで国際汽船は総排水量だけは多い。
「うちも客船欲しいわね」
紅龍先生の言う通り、豪華な内装の乗客区画のその中でも一番豪華な部屋に落ち着くと、思ったことが口から出てしまった。 横ではシズがいつも通り控え、前には紅龍先生が座るだけ。護衛の人は別室だが、今は念のため船の中を見て回ったりしている。
「国際汽船が持つのか？ 無理だろ。仮に客船を作ったとして、どこに航路を開く？ 確か日本郵船が新型を就役させたばかりだぞ。絶対に赤字になる。後発の国際汽船では荷が重すぎるだろ」
何となく呟いてしまったが、意外に詳しい紅龍先生が圧倒的正しい。 横浜にある氷川丸も、確か今年出来るという話をこちらで聞いた気がするが、あれも貨客船で、純粋な海外航路用の客船は殆どない時代だ。だから、お金があっても出来ない事は出来ない。
これが架空戦記小説というやつなら、「隼鷹」さん達のように有事に短期間の改装工事で航空母艦に生まれ変わる高速の大型客船を建造するところだが、そんな贅沢な船を作ったところで走らせる航路がないのが、今の日本という国だ。 仮に金に飽かせて道楽半分で作っても、赤字を垂れ流した末に日本郵船と客を取り合って恨まれるだけになる筈だ。 だから私は溜息しか出てこない。
「いじめないでよ。けど、『華』は欲しいでしょ」
「分からんでもないが、鳳自体が財閥としては質実剛健すぎるからな。お前が主導したような山王のホテルが悪目立ちしている程だぞ」
「だから分かってるって。言ってみただけよ。けど、ペルシャ湾行きで使った金持ち用の大型ヨットみたいな船は作ろうと思うの」
「まあ、あれば便利だな」
「でしょ。旅客機がもう少し発展するまでの繋ぎになるだろうけど、移動がもう少し便利じゃないと、日本の外に出るのも一苦労なのが今回の旅で骨身にしみたわ」
「ま、ほどほどにな。それにしても旅客機か。玲子の考える事は、いつも先を見すぎているな」
「そんな事ないわよ。あと５年もしたら、アメリカでどんどん飛び始めるわよ。それを買えばいいでしょ」
「運営はどうする？」
「政府が会社を作るだろうから、そこにたっぷり寄付金乗せて鳳が優先して使う機体を用意させるの」
「もうそこまで考えていたのか。相変わらず怖いやつだ」
ツッコミ入れたの紅龍先生なのに、そう言って呆れる。 けど、呆れられても船にしろ鉄道にしろ遅すぎる。車ですら、まだまだ遅い。虎三郎にも以前聞いたが、時速８０キロすらアメリカでも難しいらしい。 そしてヨーロッパで最後に思っていたのは、この時代の旅は大変だと言う事なのだが、改めて考えると２１世紀でも世界一周とか相当大変だと思い直して、妙に凹んでしまった。 そんな私を乗せて船は進み、地中海を横断するとスエズ運河の手前のポートサイドに到着。そこで今度はちゃんと順番待ちしてかららスエズ運河を通過。紅海、アラビア海を経てインド洋へと出る。 そしてインド洋唯一の寄港地のコロンボへと到着。そこでセバスチャンが待っていた。
「新年明けましておめでとうございます、お嬢様」
「おめでとうセバスチャン。それと、お仕事ご苦労様」
「お言葉痛み入ります。それより出光様よりご伝言が御座います」
「出光さん何か言ってたの？」
（あー、絶対愚痴か文句だろうなあ）そう思った。テキサスの件といい、今回のペルシャ湾の件といい、一番振り回されたのは鳳の石油事業を統括している出光さんだ。
「これほどやり甲斐のある仕事を与えて下さり、感謝の言葉もありません。との事です」
「えーっと、それは本気？ 言葉の外に色々と違う想いがあるように思えて仕方ないんだけど」
すっごく後ろめたく聞いたが、セバスチャンは両手を上げて胸の前で否定の仕草だ。
「いえ、凄く良い笑顔をされていました。それに、世界最大の油田とはやってくれると、独り言で喜んでいるご様子でしたよ」
（スッゲーポジティブな人。ネームド（歴史上の人物）は伊達じゃないわね）
「そう。それは良かった。まだまだ出光さんにはお世話にならないといけないから、肯定的で助かったわ」
「まだまだ、ですか？」
「ええ。テキサスは他人の財布。ペルシャ湾は未来の貯金。だから当座に財布に入れておく分が必要でしょ」
そう揶揄すると、セバスチャンが少し考えた末に口を開く。
「と言う事は、日本の勢力圏に遼河油田より大きいやつがあるんですね。……本当に、お嬢様には驚かされっぱなしです。株だけじゃないだろうとは思っていましたが、正直これほどとは思いませんでした。お嬢様にお仕えできた事、我が人生最大の幸運に御座います」
「まあ、失望させないように努力するわ。じゃあ、日本に帰りましょう」
「はい、お嬢様」
そう言ってセバスチャンを帰りの船に迎え入れたが、ペルシャ湾で奮闘している出光さんの方は大変だったらしい。 その後ペルシャ湾の油田に関して秘密裏に決まった事は、小規模油田の発見の発表。クウェートなどでの一部産油。それ以外の情報の全面隠匿。利権の方は、現地にはカスみたいな採掘権の代金と土地代と産油に関わる税金だけ。 採掘取り分は、米系、英系、鳳で６：２：２。しかしこれは当面の仮決定で、本決定ではない。何しろ本格的な調査や試掘はこれからだ。産油に至っては、最低でも１０年は先。私の言葉通りに行けば四半世紀は先になる。
そして、米英の巨大すぎる財閥達にしてみれば鳳を追い出したいに違いないが、私が見つけたという事実は記録させている。それにイギリスはともかくアメリカは、今は私の機嫌を損ねるわけにはいかないので、当面は私に良い顔を見せてくれている。 あと、私達、というより私が一番情報を持っているので、ハブったらどうなるかくらいは理解している筈だ。 もっとも、私達を湾岸の石油利権から排除する時は、日本が米英と全面戦争になり日本が敗北した後だろう。
一方では、今回の旅で私はアメリカの財閥、財界にそれなりに恩を売っている。だから日米が全面戦争になっても、私と鳳の一族は十分に暮らせる程度は取り計らってくれるだろう。 日本が滅びるほどの戦争でもない限り。
「どうかされましたかお嬢様？」
船のデッキに置かれたホテルなんかにもある木製の寝椅子でボーッと考え事をしていると、近くに控えていたシズが顔を覗き込んできた。ちょっと珍しい。
「何も。それよりシズこそどうしたの？ 私の顔まで覗き込むとか、ちょっと珍しくない？」
「いえ、あまりにも眉間にシワを寄せておられたものですから」
いつも私の側にいるシズがそう言うのだから、相当酷い顔をしていたんだろう。思わず、違う意味で顔が歪めてしまう。
「げーっ、マジ？ 眉間にシワとか作ってたら、すぐに老け顔になりそう。気をつけないと」
「はい、お気をつけ下さい。それとあまり深刻に考えられませんように」
「考えるくらい良いでしょう」
「はい。ですがお嬢様は、まだ９歳にございます。もう少し、子供らしくなさっても宜しいかと」
そう言って、言葉の最後にいつも通り静かに一礼する。 シズのその仕草を見ると、いつもちょっと安心する。シズの主人として、合格点をもらえたと思えるからだ。
「確かにそうよね。それとねシズ、今回の株の売買に成功したら年相応の生活をしよう、って以前は考えていたのよ」
「そうなさらないのですね」
頭を上げたシズが、静かに私に視線を送る。 確認だけするモードだ。
「広げた風呂敷は畳まないとはしたないでしょ」
「はい。シズは、お一人で片付けも出来ないお方を主人に持った覚えも御座いません」
「うわ、相変わらずてきびしー。じゃあ、手伝ってよー」
「日々のお世話と身辺警護はお任せを」
「そうよね。それがシズの仕事だもんね。私も帰ったら仕事頑張るわ」
その言葉にシズがまた一礼する。 いつ見ても、姿勢の良いシズの礼は綺麗だと思う。 その姿を満足げに見ていると、船員が日本列島が見えてきたと告げにきた。
コロンボを出たあと、シンガポールを経由して、香港、上海と寄稿したので見えてきたのは多分九州だろう。あとは神戸に寄稿したら、終点横浜だ。
「さあシズ、祖国を見に行きましょう！」
長かった旅も、これでようやく終幕だ。
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欧州航路 戦前の日本による欧州航路は、そもそも使う人が少ないので客船は運行されていない。 第二次世界大戦中に航空母艦に改装された「新田丸級」は欧州航路用にと建造されたが、分類上は豪華客船ではなく貨客船だ。
北米航路の豪華客船とも言われる浅間丸級も、建造中に空母に改装された「橿原丸級」ですら分類上は貨客船になる。（※日本郵船は「客船」としている。） 戦前の日本に、純粋な客船は国内運行用の中型以下のものしかない。