■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  157 「統帥権干犯問題(1)」 

 1930年4月22日、「ロンドン海軍軍縮会議」は決着した。
 しかし土壇場で日本国内の混乱が始まる。

(あぁ、確か統帥権がどうとかって問題よね。これ、何とかしないと海軍が暴発する確率がグンと上がるんだろうなぁ)

 去年の1月に話を聞いてから、常に頭の隅にそんな考えがこびりついていた。こびりつくだけだったのは、その前に色々と問題が続いていたからだ。
 それに私の前世とは色々と違っているので、迂闊な事が言えないというのも大きい。更に言えば、鳳は海軍と縁が薄いので、私の前世の知識などを反映させ辛いというネックが、私の行動を停滞させる大きな要因になっていた。

 しかし当初は、私が全く預かり知らないところで上手く運んでいた。
 全権となった政友会の原敬が、得意の政治的寝技で反対する連中をほぼ完全に押さえ込んだからだ。
 さらにロンドンでの交渉でも粘り腰を見せつけた。
 主にアメリカ、イギリスとの交渉において原敬は、持ち前の政治家としての粘りを見せ、本音と建て前、面子と実利を巧みに誘導していった。

 なお、1922年に結ばれたワシントン海軍軍縮条約が、日英米の「主力艦」と定義される戦艦と空母というカテゴリーの大型艦の保有率を取り決めたものだった。
 当時の戦艦は21世紀の核兵器に準じるくらいの戦略兵器なので、世界大戦(第一次世界大戦)が終わり、平和が到来したのだから軍縮するのはある意味当然だった。

 これに対してロンドン海軍軍縮会議は、軍縮をさらに推し進める為に「補助艦」の保有率を定めようと言うものだ。
 そして1927年の夏頃に、ジュネーブで行われた同様の会議で一度失敗したと言う経緯を踏まえての開催なので、可能な限り失敗は避けたいとどの国も考えていた。
 ただしジュネーブでの失敗は、英米間の巡洋艦の保有率が合意に至らなかったからで、日本は関係なかった。

 そしてロンドン会議だが、日本海軍の特に海軍拡張を求める派閥の条件は、大きく二つ。1つは対米7割。もう一つは潜水艦戦力の現状維持(7万8000トン分)になる。
 そして対米英7割は条約締結を求める人達にとっても同様だった事もあり、会議前の日本内部での話をまとめるのは比較的容易だったそうだ。

 この影響の一つに、1927年から田中義一内閣が続いている事も影響していた。田中内閣の高橋是清蔵相は、積極財政による景気拡大を図る政策を得意としている。ただし予算を計上すると、この当時の「常識」として軍事費が優先される。
 つまり陸海軍予算が比較的潤沢に供給される事になる。しかも、関東大震災と連動する不景気、復興予算などで数年耐えていた軍部としては、田中内閣による高橋財政は慈雨となっていた。

 ここで建造された海軍の艦艇などは、私の歴史の前世とどう違うのかは私には全然分からなかった。けど、予算を削られていないというその一点において、軍部が不満を溜める要素が低下しているのは間違いない。
 当然と言うべきか、海軍拡張を求める人々の不満も低下する。
 だから現状維持、対米英7割なら問題ないと多くの海軍軍人が考えたのだ。

 あと、鳳が遼河油田を見つけたので、27年くらいからは外貨を使わない重油をふんだんに使えるようになっていた。北樺太の油田を有していても、ちょうど輸入する石油が増え始めていた頃なので、政府は輸入せずに済んだと喜び、海軍は使える石油そのものが増えて喜んでいた。しかも遼河の石油は質が悪いので、船の燃料となる重油が多く取れるから、海軍はますます大喜びだった。
 そしてせっせと訓練を拡大していったので、忙しくなり始めていたのだそうだ。
 脳筋は頭働かせない方が、余計な事をしないと言う好例だろう。

 とにかく、日本国内は恐らく私の前世の歴史上よりも縮小に傾いた状態で交渉を開始している。
 会議での主な論点は、英米特にアメリカが日本が英米の70%の保有率を認めないと言うところ。ここがアメリカの絶対防衛ラインで、これが満たされないなら会議からの離脱、もしくは会議自体の自壊を意味した。
 そして日本側の要求は上記した通りなので、日本の要求は何一つ通らない事になる。
 そこで原敬は、軍縮反対派を黙らせるべく奮闘を開始する。

 まずは潜水艦。英米は海洋覇権国家である日本が交渉相手なので、自分たちと同量でもあまり気にしていなかった。海洋覇権国家は海の防衛を目的としていて、ドイツのような破壊を目的としていないからだ。
 それに当時の技術だと、アメリカは日本の潜水艦がアメリカ西海岸をウロウロするとは真剣に考えていなかった。
 つまり、日本の潜水艦はアメリカの脅威ではない。だから日本に対して大きく譲歩して、対米英100%を認めた。
 そして同等という点で日本に大きな恩を売りつけたので、日本としては持論の保有量に関しては譲歩せざるを得なかった。しかも潜水艦を大量に廃棄するのは米英も同じなので、日本が文句は言えない状態になる。
 結果、潜水艦は3国共通で5万2700トン。

 ただし、日本の艦隊拡張派が納得しない一番の要因になった。

 そこで原敬はさらに奮闘。
 当初日本としては、アメリカは70%を認めないので、総排水量で0.25%減らした69.75%を提示しようとした。そしてその情報を、一旦米英側に内意で伝える。
 そして米英も好意的な反応があったので、これを国内に伝える。
 当然、日本海軍内の艦隊拡張派が激オコとなる。
 そしてそれを理由として、原敬は米英との再度の交渉を開始。

 原敬の交渉手段は、総量での69.9%を求めるところから始まる。僅か0.15%の攻防戦の始まりだ。
 そして何に割増すかだけど、最初日本側は現行の重巡洋艦のうち4隻を軽巡洋艦に落とすので、アメリカとの当面の戦力比率をアメリカ優位とし、日本の重巡洋艦枠を少し水増しを求めた。
 数字としては、10万8400トンを10万9100トンとする事になる。
 だが、日本の重巡洋艦を少しでも抑えたいアメリカが、これを飲むわけがない。

 そこでさらなる代案として、排水量にして約700トンの差でしかないが、これを軽巡洋艦枠に充当。
 アメリカ側もイギリスと軽巡洋艦で妥協している事もあり、日本側に対して譲歩を示す。そして日英米で話し合った末に、日本の軽巡枠を特例割り増しで決着。
 10万0450トンの予定が、10万1200トンとなった。

 僅か0.15%、僅か750トンだが、日本政府、海軍は原敬の奮闘を認めざるを得なくなる。
 一方でアメリカは、国内政治向けに日本を70%以下に押さえ込んだのをアピールしたいので、日本側が「譲歩」「英断」したと立てざるを得ない。イギリスは正直どうでもいいので、日米が握手してくれるならと状況を歓迎。誰もがそれなりに丸く収まる形で、4月22日にロンドン海軍軍縮条約は決着した。
 ここまでは原敬の完全勝利だ。

 しかし問題は、政争大好きな日本国内。
 取り敢えず交渉団は、頑張ったという態度に加えて結果も残したので、艦隊拡張派の比較的穏健な人達は矛を収めた。
 しかも艦隊拡張派であり海軍トップの海軍軍令部長の加藤寛治大将は、軍縮派に加えて侍従長の鈴木貫太郎に抑えられて動けず。東郷元帥も、決着前に入念な説明をした上で内意をもらっていた。
 そして最も重要な陛下に対しても十分な説明を行い、内意を得てあった。これで、曖昧な天皇の統帥権についても回避出来たはずだった。
 だから統帥権に関する問題もクリア、誰も文句は言えない筈だった。

 けど、問題は起きてしまった。
 4月下旬から始まった帝国議会衆議院本会議において、野党立憲民政党が「田中義一内閣が軍令部の反対意見を無視しての条約調印は、統帥権の独立を犯したものだ」として攻撃した。
 ここで「統帥権干犯」の言葉が飛び出した事になる。
 政府が、軍令部より先に陛下に正式に上奏したのを逆手に取った形だ。
 そして、統帥権を拡大解釈して兵力量の決定も統帥権に関係するという論法自体が、私の前世で見た資料と同じだった。

 それでも、野党や反対派が利用しそうな陛下も東郷元帥も原敬が抑えていた。枢密院議長(倉富勇三郎)への根回しと説得も済んでいた。
 そして会議自体の交渉団の粘りにより、反対派は数が減って勢いも今ひとつな状態だった。

 だから私も5月の頃は楽観していた。

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ロンドン海軍軍縮条約
1930年に開催された列強海軍の補助艦保有量の制限を主な目的とした国際会議。
主に「補助艦」と呼ばれる巡洋艦、駆逐艦、潜水艦の保有量を日英米で決めた。

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