■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  158 「統帥権干犯問題(2)」 

「マジか。マジなのか・・・」

 報告を聞いた私は、天井を仰ぎ見て同じつぶやきをしていた。
 報告は、海軍の末次信正中将が、天皇陛下とのタイマン状態で軍縮会議の不満をめいいっぱいぶち撒けたと言う事だった。

 軍縮条約がらみでまずい事が起きたと聞いて、私は出来る限り生の情報が欲しくて、全てを放り投げて鳳の本邸ではなく山王前にある鳳ビルの鳳総研へ来ての第一声がそれだった。
 鳳グループの改変などの諸々が取り敢えずひと段落したので、余裕をぶっこいていた所での事件なので、かなりのショックを受けていた。

「マジが何を意味するか存じませんが、事実です。この件で、宮城、内閣、議会、海軍のそこら中が大騒動になっております」

 鳳総合研究所の副所長兼当部署の責任者、私が司令と呼ぶ貪狼(どんろう)純一は、相変わらずのボソボソ声で淡々と事実を並べる。
 部屋はこの人の個室で、機密に関わる話という事でシズだけ特別に部屋の隅に入れた以外、全員を外に追い出している。
 シズが入れたのも、シズの強い剣幕と私の許しによるものだ。そしてそれだけの話を貪狼指令はするかもって事だった。

「けどさあ、確か末次信正中将って政友会の幹部が抑えていたんじゃないの?」

「左様です。政友会で末次と太いつながりを持つ森恪が、末次が特に跳ねっ返りだからと原敬から念を押されて抑えておりました」

「でもダメだった? 何がダメだったの?」

 森恪は、田中内閣の外務政務次官。けど、田中義一が外相も兼ねているから、この人が事実上の外務大臣だ。政治家としての経験は浅いが、やり手の人だと聞いている。
 ただ三井財閥から政治家に転身した人なので、私達との繋がりのない人でもある。

「まずは、黒潮会(海軍省記者クラブ)に不穏文書を発表しようとして海軍省に抑えられたのが、暴走の一因ですな」

「それは聞いてる。けど、親玉の加藤大将からですら大目玉食らったんでしょ。それに政友会もガチ切れして徹底して抑え付けられてって・・・それがダメだったって事?」

「流石はお嬢様。正解です。末次は、他に頼れるものがなくなったので、この機会を狙っていたのでしょう」

「で、抑えるべき人達は、まさか陛下に直接口頭で文句を言い立てるとは思いもしなかった、と」

「まあ、馬鹿より怖い者はなし、とはよく言ったものですな。私ですら予想だに出来ませんでした。どこもかしこも同じ状態で、余計に混乱が広がっています」

 貪狼司令は、ある意味常識家だ。そして日本の中枢に位置する人々の大半も常識家だ。しかし怒り狂って切れてしまったこの時の末次信正は、常識を全部どこかに放り投げていた。
 しかも悪い事に、この頃の末次信正は、天皇陛下に軍事の進講、つまり講義するお役目を授かっていた。
 そして講義ではなく抗議してしまったのだ。感情の赴くままに。
 本当にシャレにもならない。

 ちなみに末次信正は、潜水艦に関するこの時代の日本海軍のエキスパートの最上位に位置していた。だから、ロンドン会議で潜水艦が大幅に削減されると知ると激怒。徹底反対を唱え、不穏文書なんて作ったりもしたわけだ。
 それでも、政局の方は政友会優位でグダグダで終わる気配を見せていた事もあり、誰もが「統帥権」に関しては、今回も有耶無耶に出来ると見るようになっていた。

 その矢先の6月7日、末次信正は天皇陛下への軍事の進講をした際、軍縮条約に強硬に反対する旨を長々と述べてしまったらしい。
 そして止めるべき人間が実質いない状態なので、慌てて侍従長の鈴木貫太郎が来た時には完全に手遅れになっていた。

 なお末次信正が長々と述べたのは、軍縮条約締結に賛成した海軍省及び軍令部の方針に反するものだった。しかも、原敬の根回しによって陛下も軍縮内容を良くご存知で、お認めになっていた事だった。
 条約締結の頃には東郷元帥とも話されて、元帥が「ならばもっと訓練しましょう」と和やかに語られたという話も漏れ伝わって来ていた。
 その陛下に、末次信正は半ば個人的な愚痴を並べ立てたのだ。ご不興を買わないわけがない。

 しかし陛下は、その場ではお怒りにならなかったとの事。そして陛下の怒りはその後に起きた。
 宮城の方から漏れ伝わって来た噂を信じるなら、まずは鈴木貫太郎侍従長を改めて呼んで大激怒。何しろ鈴木と同じ海軍の者だから、文句の一つも言いたくなるだろう。
 「あの者は何を考えているのか!」という声が、かなり遠くまで聞こえたという。

(けど、これで陛下の怒りは収まるのかな? 私の前世だと張作霖爆殺の時に田中義一首相を直接怒って、それが原因で田中首相がしょんぼりさんにって、そのすぐ後ぽっくり逝っちゃたから、あんまり怒らなくなったって言うけど。この世界の陛下って、怒りの沸点低いよね)

「どうされました?」

「ううん、なんでもない。これ以上悪くならなければって」

 私しか知らない予測を口にも出来ないので、貪狼司令の方は私が悪い予測を建てたくらいに思っているだろう。
 だから私への返答を返す時、少し怪訝な表情だった。

「そうですな。ですがこういう時は、悲観する方が精神衛生上よろしいでしょうな」

「最悪を想定しろって、軍隊じゃあるまいし」

 貪狼司令は私の悪い予想をする事を肯定してくれたので一応軽口で返すが、貪狼司令の顔は全然笑っていない。
 だから私も顔を少し引き締め直して、問いかける。

「どうなると思う?」

「そうですな、常識的には部下の監督不行き届きですから、海軍軍令部長への叱責。もしくは首相に何かおっしゃるかも」

「海軍軍令部長を抑えたのは内閣だから、田中首相が呼ばれるって?」

「はい。そして恐らくですが・・・入れ」

 貪狼司令が質問の答えを言おうとしたところで、私と貪狼司令、それに部屋の隅にシズが居るだけの部屋にノック音。緊急事態以外は部屋に来ないように言ってあるので、緊急事態発生だ。
 もう悪い予感しかしない。

「・・・お嬢様、より悪い知らせです。私の予想が当たってしまったんですが、嬉しくもなんともない」

 そう言って部下から受け取った小さな紙切れを渡してくれた。
 そして私は真っ青になった。

『陛下が伏見宮博恭王殿下の参内を求められた』

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末次信正 (すえつぐ のぶまさ)
海軍軍縮に反対する艦隊派の中心人物の一人。
史実でも同じ事をやらかしている。

後に政治家に転身して、第1次近衛内閣の内務大臣になっている。東条英機が首相になった時は、海軍の対抗馬として首相候補にまでなっている。
それに陛下への御進講をするくらいだから、政治の中心に近い。
だが、政治的影響力はあっても、どう見ても政治家としての実務能力があるようには思えない。

森恪 (もりつとむ)
政友会所属の有力政治家の一人。
1932年12月に喘息&肺炎で病没しているので、この世界だともう少し長生きしているかも。

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