■「悪役令嬢の十五年戦争」
■ 171 「米価暴落」
「時田、米穀取引所の様子はどう?」
私は部屋に入って時田を見つけるなり聞いた。 時田は答える前に私に恭しく一礼する。何しろ、時田は私の筆頭執事だ。そしてその様を広いフロアにいる人々に見せるのも目的のようなものだった。
「予測していたより低調です。やはり「米穀統制法」の効果でしょうな」
「「米穀自治管理法」と合わせて、取引所での取引量が激減したものね」
「はい。ですが、この惨状を前にしては、二つの法案に文句を言っていた者達も肝が冷えている事でしょう」
鳳ビルの鳳商事が入っている区画は、喧騒に包まれていた。 1930年10月2日、ついに日本の米価市場が暴落に転じたからだ。しかし、私と時田が話しているように、恐らくだけど私の前世の歴史とは様相が少し違っている筈だ。 私の前世の歴史では、米価の乱高下を受けて政府がこの騒動の数年先に「米穀統制法」と「米穀自治管理法」と制定し、さらに戦争中に「食糧管理法」を作って、お米の価格を統制した。
しかもこの「食糧管理法」は、戦後も食料安定供給という錦の御旗の元で維持され、なんと1990年代まで残っていた。制度が廃止されたのも、農作物を買えと言うアメリカ様の外圧によってだ。 それにしても、米価は江戸時代から変動相場制だ。それが昭和に入っても続いていたものが、『米騒動』の辺りから統制されて戦時で統制が出来上がってしまうと言うのは、時代を象徴しているのだろう。
それはともかく、米穀取り扱い業者や農家のかなりが文句を言いたてた法制度の整備のおかげで、米価の暴落は緩和されている。 鳳が直接何かをしたわけじゃない。 仮に鳳単独で暴落を止めようとしたところで、1000万円程度では焼け石に水だ。
日本の総人口が、この頃で約6500万人。この時代は麦(大麦)や雑穀を食べる人も多いし、貧しい人は食べる量自体が少なくなるから、米の生産量自体はどんぶり勘定で5000万石。(1石=140キログラム。日本人一人が一年間に食べる米の量。) 米価は、ここ数年だと大体1石=30円。米の取引総額は15億円と、国家予算に匹敵する。実際の数字も、この数字に似たり寄ったりだ。 そして、豊作の度合いを例年のプラス10%と仮定したら、この十分の1の価格分をなんとかしないといけないわけだ。やって出来ない事じゃないけど、やる意味がない。
鳳がしたのは、大量に買い付けるとう姿勢を市場に見せる事。そして国の方針に従って、巨大な備蓄施設を作っている事。 備蓄施設自体は、最大で米だと100万石の備蓄が可能な分を準備している。倉庫は他の穀物にも適用できるし、少し手を入れれば他の用途にも使えなくはない。 そしてこの倉庫の管理の為に、倉庫会社や食品会社も作った。
とはいえ、鳳が100万石の米を買うわけじゃない。 何しろ100万石を暴落前の値段で買うと、これだけで3000万円の出費だ。そんな金は流石に出せない。だから、法律によって備蓄しないといけない地主など生産者に、低価格で倉庫を貸し出す事業を兼ねている。 また政府の指導で、米穀統制組合というものが全国に設立されつつあったので、これらの組織も鳳の商売相手になる。
一方で、ある程度の米は来年、もしくはさらに別の年に起きる凶作の対策として購入予定だ。既に購入契約も進められている。 この米は売るのが目的ではなく、飢饉が起きれば政府に献納する予定なので、この分は完全な捨て銭になる。だけど、周りには人気取りと思わせておく。 購入は市場の様子を見ながらだけど、最低でも10万石、最大で50万石まで買い進める予定だ。
さらに私としては、銀行による農家限定の超低利の融資、土建業などでの一時的な収入源の確保、その後の工場建設による労働力吸収など色々と手立ては考えている。 ただ、何年か前に思っていたのと、様相が少し違っていた。
「ねえ時田、農家の様子って分かる資料ある?」
「はい。取り寄せればすぐにでも。どうかされましたか?」
「農家の動きは少し変というか、私が思っていたのと少し違うというか、違和感というか、とにかく違う気がするのよ」
「(それは夢と違うという事でしょうか)」
時田の耳元での囁きに頷き返して、さらに目を合わせる。 そうして10分も待っていると、求めていた資料が、色んなところから沢山もたらされた。 総合研究所(総研)、新聞、商社、銀行、流通、様々なところから見た情報だ。総研以外の情報があるのは、総研にまだ資料が回っていない分や、総研に回すまでもない資料を時田が持って来させたからだ。 流石、時田。抜かりなしだ。
そしてそれを、私自身が見ないといけない。夢、つまり前世との違いが正確に分かるのが、私しかいないからだ。 それに今日は平日だから、お芳ちゃんは午前中は学校に行っている。私のように簡単にブッチするわけにはいかないからだ。 セバスチャンとトリアは、このフロアにいない。居るのは、時田と常に私の側にいてくれるシズくらいだ。 簡単に探して見つからなければ、総研に行って貪狼司令にでも指示して探させればいいだろう。 けど、幾つかの資料を見始めて、ものの数分で違和感の招待に気づいた。
「あー、そういう事か」
「何でございましたか?」
時田が軽く背を傾けて私に少し視線を合わせてきたので、そちらに軽く視線を向けて資料も突き出す。 すぐに分かったのは、この体、悪役令嬢のチート頭脳の記憶力や解析能力のおかげだけど、これは私じゃないと分からない事だった。
「農村の雇用状況が、少し違ってきているのよ」
「と言いますと?」
「うち、じゃなくて小松が農業用のトラクターを作って売ってるでしょ」
「ああ、そう言う事ですか」
そう言って時田はすぐに私と同じ答えに行き着いたけど、私は説明を続ける。
「うん。トラクターの方が、牛を飼って小作人を雇うより安いし、面倒も少ないから」
「はい。2年ほど前から売り始めましたが、今年は供給が追いつかないので、鳳の工場でも全力で生産しているほどです」
「そうよね。まあ、うちとしては単なるビジネスモデルだけど、色々影響してるみたいね」
言いながら軽く腕組みをする。 そんな私の顔を、時田が多分感心して見返す。
「はい。鳳としては小松にトラクターを売らせ、農家の余剰資金で自家用車を買わせると言う玲子お嬢様の作戦は図に当たりました」
「地主は経営者だから金勘定で考えるし、隣の地主よりもって見栄も張ってくれるものね。で、うちとしては余剰した小作人労働力を当面は土建業に投入させて、数年後にはうちの工場労働者にって算段だったけど、凶作と飢饉が続いたら加速するかもね」
自嘲込みの笑みを時田にしてみたが、時田の表情は澄ましたものだ。
「その点も盛り込み済みなのでは?」
「まあね。けど、米価にまで影響するとは予想外だった」
「なるほど。玲子お嬢様がそうおっしゃるのなら、影響したのでしょう。それで、良い方なのですか?」
「うん。多分だけど、私の見た夢よりも少しだけ農家が米価の下落に耐えやすくなっていると思う。それと、評判を聞いた、まだ牛を使っている農家は、小松と鳳のトラクターをじゃんじゃん買ってくれるでしょうね」
「そうなると、機械を買いやすくする為、農業の企業化の指導も強めるべきですな」
「うん。あとうちからの低率融資もね。けど、土起こし以外で人の手はまだまだ必要だから、他の産業に吸収していくのも問題なのよね。日本の農業に合った田植えや稲刈りの機械は海外にないし」
「それでしたら、虎三郎様の会社のどこかが、農家と共同で研究と開発を初めておりますぞ」
「えっ? そうなの? 田植え機と稲刈り機を?」
「はい。あと、トラクター、耕耘機の方も無限軌道で動く大型ではなく、手押し前提の小型のものを開発し、今年からこちらもよく売れております。何しろかなり手頃な値段なので、自作農数軒が寄り合えば買える値段設定ですので」
「へーっ、知らなかった。よく開発できたわね」
「発動機関連は、虎三郎様らが以前から取り組んでおられましたから、それが身を結んだ形です。もっとも、虎三郎様がおっしゃるには、馬力もいらず構造が簡単だから出来たのだそうです。大型車用の発動機となると、まだ稼働率、故障の問題があるとか色々おっしゃっておられました」
(私の知らないところで、色々連鎖反応が起きてるってことね。もっと報告書とか見とかないと、って今は米価か)
「えーっと、話がちょっと逸れていたわね。とにかく、既定の方針通り動いてちょうだいね」
「はい、お任せを」
「うん」
その後10月2日に起きた米価暴落は、10月3〜5日の各米取引所営業停止へと繋がる。 そして米価は昨年のおおよそ8割に下落。鳳は30万石もの米を買い集めるだけ集めて放出、売却せず、1年間備蓄する事になる。
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「米穀統制法」 米の数量と価格を調節し、その流通を統制するため、政府が米価基準を設定して米の売買を行なうことなどを定めた法律。
「米穀自治管理法」 米穀生産者、土地に付権利を有する者で米穀を小作料として受ける者(すなわち地主)、またはこれに準ずる者に自治的に管理統制させることを目的とする。 この目的を達成する機関としてこれらの人々に米穀統制組合を設立させることになっている。
耕耘機 日本の小さな水田には、こちらの方が向いている。 それに何より安いので、自作農数家が出し合えば買える程度の筈だ。 大型の農業用トラクターは、この時代は足回りが履帯式が主力。