■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  200 「上海狂詩曲(1)」

 夏休みに入ってすぐ、『魔都』上海にやってきた。大陸に上陸するのは、遼河油田を探しにきて以来だ。
 

 東京から上海はそれなりに近い。長崎から21ノットも出る快速客船が出ているので、まずはそこまで1日かけて向かい、長崎からその快速客船となる。

 そして上海の街は、揚子江(長江)のほとりにあるのかと思っていたけど、船から見ると揚子江の河口部は海そのもの。上海は、支流の黄浦河に入った先。揚子江から支流に入り、15キロから20キロほど行った先に、当時の上海の中心地、所謂『租界』がある。

 租界は、阿片戦争後の1842年に『租界』として外国人居留地が開かれた。それまでの上海は、直径一キロほどの城壁を持った街があっただけで、大きな都市じゃなかったそうだ。
 租界も最初はそんなに広くはなかったけど、徐々に拡大。主に中心部に位置するイギリス租界、東側のアメリカ租界を合わせた共同租界、それに南西側のフランス租界に分かれている。
 合わせると、川沿いに広がる東西の長さは10キロ以上にもなる。ただし、国際法の上ではフランス租界だけがフランスのもので、他は基本的に共同租界になる。

 その中心となるイギリス租界に『バンド』と呼ばれる、写真や映像でよく見た上海租界の中心地がある。
 日本租界というのは明確には存在せず、中心部のイギリス租界に近いアメリカ新租界の間にある共同租界の一角と、さらに区画上では租界の外になる北部に伸びている。

 1929年にできた、日本海軍の陸戦隊の駐屯地に当たる場所も租界の外だ。27年あたりから増員したので、ここに新たに作られたのだそうだ。
 なんでもそこには、「上海陸戦隊」として1000名の陸上戦闘専門の海軍の陸戦隊が駐屯していて、何台もの装甲車が配備されているとの事。
 しかも直ぐに、佐世保から同じくらいの数が増援可能で、27年の時には、最大で6000名以上も派兵されたのだそうだ。だから日本は、上海に大軍は駐留させていない。
 それでも以前は常駐していなかったくらいだし、上海の物騒さがこんな事からもよく分かる。
 また上海租界には、イギリス軍6600名やアメリカ軍2800名、フランス軍500名が駐留している。イタリア軍も、少しだけ駐留しているらしい。
 けど、今の所目の前の景色は平穏そのものだ。

「ていうか、揚子江デカっ!」

「河口部での幅は10キロメートルを超えるそうです」

「それってもう海ね。けど上海は、どこかの川に入った先なのよね」

「黄浦河に入り、1時間から2時間ほど遡ると上海に到着とのことです」

「前は船内で寝ている間についたから、この眺めは新鮮だわ」

「はい。左様ですね」

 船の上でシズといつもの軽快なトークを楽しむ。その隣では、リズが「ニューオーリンズ辺りのミシシッピーのようです」とアメリカンな感想。
 それにシズとリズの二人は、上海でヴィクトリアンなメイドを連れ歩くのも目立ち過ぎるので、普通の服装をさせている。そしてどちらも男装を選んだ。護衛しやすくと言う事だけど、格好いいので私的にはポイントは高い。ただ、逆に目立ってしまった。

 そんな感じで、日本からの同行者はシズとリズ。時田は鳳商事の本社から離れられず。セバスチャンはめっちゃ行きたがったけど、こちらも仕事で都合が付かず。仕方ないのでお土産を約束してあげた。同様にトリアも居残り。向こうの人に世話をしてもらうので、他のメイド達もいない。
 あとは上海の港で、現地の護衛の人と鳳商事上海支店の人と落ち合う予定だ。

 そうして船は支流の黄浦河へと入ったけど、この川でも日本人的基準だと十分に大河だ。上海の中心部で幅は2、300メートルと言ったところ。
 普通に海から船で入っていけるし、川沿いを見ると大きな船が行き来している。そして船が沢山停泊する岸辺に、上海の街が広がっていた。

「おーっ! 見て見て、あっちがバンドね! あの建物見たことある!」

「そうですね。1年半ほど前に見たばかりですね」

「私は上海は初めてです。ニューヨークに比べるべくもありませんが、立派な街ですね。アジアとは思えません」

 シズの言葉通り世界一周の最後の寄港地として、この景色は一回見た。けど私としては、前世の記憶の話、つまり夢の中の話だったけど、まあそれはいい。
 それよりリズの反応がちょっと面白い。だから、私の左側に控えるリズの方へと視線を向ける。

「まあ、東洋のパリとか言われるくらいだからね。けど、最近の日本も負けてないでしょ」

「はい、鳳ツインビルは、アメリカの建造物にも引けは取らないと思います」

「他はダメ?」

「まだあまり東京の散策などはしておりませんので。……そうですね、東京駅とその周りは立派だと思います。ですが私個人としては、アメリカのような近代的な建物より、日本の伝統的建築物に魅力を感じます。京都や奈良はアメイジングでした」

(うわーっ、21世紀と似たような感覚だぁ)

 赤毛美少女のリズの言葉に、私の前世でも見かけたアメリカ人を感じてしまう。

「じゃあ今度、他の日本らしいところにも行きましょう」

「私の為にそのような必要は御座いませんが、その際は是非お供させて頂きます」

 そこで30度ほどお辞儀。アメリカンながら、私のメイドとしての仕草は完璧だ。というか、動きをマスターするのはリズの得意技らしく、この点はトリアと違う。伊達に護衛で派遣されたわけじゃない、という事なんだろう。

「オーケー、約束ね。けど、この上海もチャイナとヨーロッパが混ざっていて面白いわよ」

「そうなのですね。アメリカでチャイニーズを見た事はありますが、彼らを見る限りあまり期待出来そうにないのですが」

「アメリカじゃあ、移民で裕福とはいかないわよね」

「しかしチャイナは、阿片戦争で負けて以後、戦争に勝った事はなく、確か日本にも負けた筈。そのような弱者が、素晴らしい文物を持っているのでしょうか?」

 この時代のアメリカンとは思えないリズのアジア知識だけど、確かに近代に入って戦争に勝ったという話は聞かないので苦笑いしかない。
 けどご近所さんのよしみとして、フォローの一つも言っておく。

「過去には偉大な王朝を幾つも作ってきた歴史の積み重ねがあるから、行くところに行けば京都や奈良以上よ」

「……想像がつきませんが、楽しみにしています」

「あー、上海以外に行く予定ないから、今回はお応えできるかは微妙かなあ」

 そんなやりとりをしている間に、バンドの少し東側、日本の船が使う岸壁に船が到着。そうして船を降りると、なんだか見慣れた顔が一人いた。
 しかしまずは、私達の出迎えに来てくれた人々との挨拶だ。

「ようこそおいででくださいました。私は鳳商事上海支店長の張 廉貞(れんてい)と申します。張とお呼びください、伯爵令嬢」

 完璧な標準語。勿論日本語。語尾に「アル」とか全然付けてくれない。普通に日本人と思える発音だ。
 少し驚きそうになったけど、なるべく自然に返事を返す。

「はい、張廉貞様。鳳伯爵家令嬢の鳳玲子と申します。この度はよろしくお願いいたします」

「ご挨拶痛み入ります。ですが伯爵令嬢の方が、年齢以外の全てが私どもより格が上で御座います。どうか、呼び捨てで呼ばれますように」

「これは重ねて失礼しました。では、張支店長」

「とんでもありません。ささ、長旅でお疲れでしょう。まずはお休み下さい。最高の飯店をご用意させて頂いております」

「ありがとうございます。ですがその前に、こちらをお受け取りください」

 目配せすると、シズが前に出て張支店長にカバンを一つ差し出す。

「こちらは?」

「鳳の一族から日本人として、鳳の上海支店へではなく大陸の皆様に。何も言わずお受け取り下さい」

 そこまで言うと相手も察した。
 カバンの中には書類一式。この夏、大陸で猛威を振るっている大水害の義援金だ。失礼にならず、それでいてケチってないだけの額。鳳一族が、そして日本から大陸への気持ちだ。
 だからこそ、支店長は恭しくそのカバンを受け取る。

「お心遣い、誠に有難うございます。このご恩、生涯お忘れする事はございません」

「困った時はお互い様。前の震災の折、我々が助けていただいたと、父からも曽祖父からも伺っております」

 その後も半ば儀礼的な言葉のやり取りが続くけど、それも終わりようやく移動だ。
 そして移動を始めようとすると、シズ達と似たような位置に、よく見かける人物が私の横に付く。八神のおっちゃんだ。
 けど今は軽快なトークを楽しむ場面でもないので、軽く視線を合わせるに留める。
 それよりも、私を出迎えた人の方が気になった。

(それにしても、3人目の北斗七星の名前の人かあ。この人もゲームキャラなのかなあ。名前以外、ほとんど設定ないから気にしない方が良いんだろうなあ)

 ぼんやりと思いつつ、案内のため前を進む初老の紳士の背中を見る。見た目は5、60代の白いものが混ざった、小太りの男性。糸目で細長く左右に伸びたそれっぽく口髭なので、少し前の日本人が思い描くチャイニーズっぽさがある。

 八神のおっちゃんを始めとした数名のお付きの人も、護衛っぽい体格と動きだけど黒服に丸いサングラスという事はない。その下に危ないものを潜ませている可能性は十分あるけど、普通にスーツだ。
 もう少しエンターテイメントな見た目を期待した自分が少しバカだったと、内心で軽く後悔する普通さ。
 だから心の中で、軽く気分転換する。

(今回は、支店という名の鳳と関係の深い結社の人に挨拶をしたら、上海観光をしに来ただけ。歴史的にもゴタゴタが起きるタイミングじゃあないだろうし、のんびりしよう!)

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『バンド』:
英語で「埠頭」などを現す。
外灘。19世紀末から20世紀前半にかけて、東アジアにおける金融のハブ。列強各国の銀行が、立派な建造物として軒を連ねた。
他、大企業のビル、各国の領事館などもあり、現存する建物も少なくない。

廉貞 (れんてい):
北斗七星の7つ星のうち一つの呼び名。

大陸で猛威を振るっている大水害:
1931年の夏に、大陸中部で記録的な大水害が起きている。
晩年の渋沢栄一が、ラジオで義援金を呼び掛けた逸話がある。

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