■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  202 「上海狂詩曲(3)」  

「あー、もう食べられない」

「お嬢様、ベッドの上に乗る時は靴をお脱ぎ下さい」

「姫、意地汚く出る皿全てを食されるからですぞ」

「ですが、大変美味でした」

 夕食後、ツッコミ役が一人増えていた。
 張支店長が手配してくれた上海でも有名なお店での夕食後、車に放り込まれて今夜のお宿へ。街全体が東京より様々な施設が整っているので、宿泊先はセキュリティも万全な豪華ホテル。
 「大酒店」とか言うと日本人は勘違いしそうになるけど、立派な洋風ホテルだ。
 そのスイートのベッドで、私はお腹をさすりつつ仰向けに倒れこむ。もう、お嬢様でも伯爵令嬢でもなんでもない。ただの食べ過ぎたクソガキでしかない。
 しかも取り繕う相手はいないので、ベッドの上でゴロゴロ。

「ねーっ。美味しかったよね、リズ」

「はい。シーフード中心なので最初はどうかと思いましたが、食に関してはこの街はステイツ以上です」

「シーフードっていうより、リバーフードだけどねー。揚子江は偉大だ」

「川といっても海みたいなものだぞ。なんでも、イルカがかなり上流でも住んでいるらしい」

「あー、聞いたことある。八神のおっちゃんは見たことあるの?」

「いや、ないな。上海や武漢には来るし船もよく使うが、そこまで頻繁に見られる魚じゃないんだろ」

「イルカは魚じゃなくて哺乳類。まあ、それより上海蟹を堪能できたから、私は満足よ」

「ちょうど季節だったからな。それにしても金華豚なんて、よく知っていたな。調べてきたのか」

「知っての通り、鳳は大陸とご縁が深いからねー」

「それもそうか」

「八神様、そろそろよろしいでしょうか」

 一人黙々とテーブルの準備をしていたシズが、私にではなく八神のおっちゃんに問いかける。
 シズが私ではない人に話しかけるのは、基本的にお仕事上。そして八神のおっちゃんは、今回も私の護衛。つまり、そういう事だ。
 私も身を起こして、シズが用意した豪華なテーブルと椅子の方に向かう。そこには既に飲み物が用意されている。

「よっこらせっと。で、明日の予定は?」

「まずは、ジャーディン・マセソン商会の上海支店に挨拶に向かいます」

「うん。うちの昔からのお得意様だからね。それに、出来ればサッスーンの動きを多少なりとも押さえてもらいたいし。けど、ご挨拶はそれだけよね」

「はい。午前中にご挨拶をした後は、お嬢様のお望み通りになさって下さい」

「お望み通りと言われてもなあ。車で移動でしょ? 南京路でウィンドー・ショッピングしたいのになあ」

「姫、御身の大切さを少しはご理解頂ければ、臣らも心安んじておられるのですが?」

 スッゲー皮肉げな視線がなければ完璧な諫言(かんげん)なのにと思い、少し憎らしげな視線を返しておく。

「分かっているわよ。上海が見た目以上に物騒な事くらい。それに、有名な建物を見て百貨店で買い物できたら十分よ。それとも、他にオススメの場所はある?」

「そうだな、大人になれば幾らでもあるんだが、上海は子供が来る街じゃない。臣と致しましては、昼間の表通り以外には連れて行けませんな」

「あっそ。けど、護衛が多くてもダメなの? あっ、そういえばワンさんは?」

「あいつは今は満州だ。忙しくしているよ」

「そうなんだ。まあ、北の方がこれから大変だもんね」

 お父様な祖父を始めとして、大人達は直接荒事に首を突っ込ませてくれないけど、全然知らないわけじゃないのでアピールだけしておいた。
 ただ、少し訝しげな視線を投げかけてきたから、八神のおっちゃんは私がどれくらい何を知っているのかと考えでもしているんだろう。

(誰が何をしているとか、細かい事は全然知らないんだけどね)

 視線を八神のおっちゃんから外すと、シズとリズが私を見ている。明日の警備計画立てる話し合いに余計な事を言ったせいだ。

「ワンさんがいないのはちょっと寂しいけど、警備の人数は? 私は行列連れ歩くの?」

「いいや。周囲に人は配置するが、直接一緒なのはこの場の3人だけだ。本当は姫と同格のエスコート役の男が欲しいが、贅沢は言えない」

「じゃあ、八神のおっちゃんが紳士役するの?」

「そう言う事だ。わたくしのような下賤ではさぞご不満ではありましょうが、」

「あー、はいはい。エスコートよろしくねー」

 適当にあしらったら、最後まで言わせろって感じでスッゲー睨まれた。普段睨む時より怖い。ごっこ遊びには付き合わないとダメらしい。
 しかし向こうは大人だ。小さくため息はついたけど、すぐに顔を戻す。

「それで、南京路だけでいいのか? バンドは?」

「もちろん最初にバンドの見物。と言っても、中には入れないのよね」

「ホテルなら問題ないが、他は用もないのに入るところじゃない。憂さ晴らしでもしたいなら、競馬にでも行くんだな」

「あ、それなんだけど、お父様がドッグレースが面白いって」

「ドッグレースか。日本にはないからな。確かフランス租界にレース場があった筈だ。行くのか?」

「競馬にしろドッグレースにしろ賭博よね。私、もう博打は飽き飽きなのよね」

 思わず天を仰いで見てしまう。そう、私は2年近く前に世界最大の博打をして、大勝ちした。大半の人が大負けして人生すら終了させた中での、数少ない勝利者だ。
 けど、興奮は得られなかった。多分だけど、今後の人生で賭博に興味を持たないだろう。
 だから仰ぎ見た後で、八神のおっちゃんの方を向く。

「単に見るだけだと、どっちが面白い?」

「似たようなものだな。どっちが好きだ?」

「八神のおっちゃんは?」

「馬だな」

「じゃあ馬にしましょう」

「聞いたのは姫の好みなんだが?」

 またお気に召さないお顔。

「私はどっちも好きよ。けど、両方見に行きたいとも思わないから。それに馬の方が無難だし、淑女な私がお上品に見物するには向いているでしょ。警備的にも」

「ご配慮、痛み入ります」

 とはシズのお言葉。八神のおっちゃんもリズも納得顔だ。

「じゃあ、決まりね。昼ご飯を済ませたらお買い物。そのあと競馬見物。あ、でも百貨店って、大きなお店が何軒もあるのよね?」

「そうだな。立派なのは3つだな」

「アレ? 4つじゃなかったっけ?」

「どうだったかな?」

 私の歴女知識には「ビッグ・フォー」と刻まれている。けど、八神のおっちゃんは表情でも否定している。そしてそのまま、案内図に手を伸ばしたリズへと視線を向ける。

「八神様が正しいかと。先施、永安、新新の3軒です。中でも新新が一番新しい建物です」

「なら、私の思い違いね。けど3軒回るとなると、そのあとに競馬場は無理よね」

「全部回るのか? まったく、女は買い物好きだな」

「そうですよ。それより、よく百貨店の事知ってたわね。行った事あるの?」

「ああ。女は連れて行くと喜ぶからな」

「あ、そうですか」

 思わず機械的に返すけど、この時代なら大きな百貨店はデートにはもってこいだろう。
 とはいえ、私は八神のおっちゃんのプライベートは、どうでもいい。聞いてもガキ呼ばわりされるだけだし、踏み込むもんでもない。だから自分の目的を優先する。

「じゃあ、八神のおっちゃんの案内で百貨店巡りするのは明後日ね。明日の午後は競馬見物。三日後の便で日本に帰りましょう」

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ジャーディン・マセソン商会:
サッスーンとアヘン売買のライバル。
香港を拠点としている。上海にも大きな支社のビルを構えていた。
幕末には、長州のイギリス留学を支援した逸話もある。
現在でも世界最大級のコングロマリットの一つ。

南京路:
上海租界のメインストリート。沿岸のバンドから直角に伸びて競馬場まで至る大通り。当時の東京の銀座より立派で賑やか。
最盛時は百貨店が多数あった。中でも先施公司(1917年)、永安公司(旧館1918年、新館1933年)、新新公司(1925年)、大新公司(1936年)の4つの百貨店を「ビッグ・フォー」と呼んだ。
( )内は開業年。どれも現存。31年だと1軒は未開業。

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