■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  204 「上海狂詩曲(5)」 

 競馬。
 特に近代競馬といえばブリカス、もとい英国紳士が大好きな賭博であり競技だ。確か発祥もイングランド。
 日本でも、明治時代には「洋式競馬」として入ってきて、その模倣からスタートした。そして昭和になるまでには、それなりに盛んになってはいる。

 ただ昭和初期の日本では、体感的な感想として金持ちが競争馬を保有すると言う文化は、あまり根付いていないように思う。
 欧米だと競走馬の保有は「持てる者」のステイタスの一つだけど、日本に格の高いレースがまだないせいかもしれない。
 明治時代の競馬場は、紳士淑女どころか賭博場という事で、取り仕切っているのはやくざ者だらけだったらしい。

 それにこの時代、競馬振興に陸軍が熱心だった。
 もちろん、有事に軍馬を確保するため、馬を育てる裾野の広さが少しでも多く欲しかったからだ。この時代なら農耕馬、運送馬としても多数の馬が働いていたけど、陸軍としては多いに越したことはないと言ったところなんだろう。
 昭和に入ってトラックが導入され始めたと言っても、陸軍はどこもかしこも馬だらけ。世界中の軍隊も似たようなもの。これも時代という事なんだろう。

 そして競馬というか馬には、鳳はそれなりにご縁がある。
 何より華族だ。一応、武士出身だ。車を使うようになるまでは、鳳の本邸にも馬車や乗馬用の馬がいて、厩(うまや)が今も片隅に残っている。
 そしてお父様な祖父の麒一郎と龍也お兄様が軍人で、共に騎兵を選んでいる。それに明治時代からは、欧米人に倣い競走馬の所有にお金を投じていた。
 大戦不況の頃からはその余裕もなくなるも、25年辺りからはお父様な祖父の趣味もあって、再び馬の育成や競馬振興に金をツッコみ始めている。
 私も華族にして軍人でもある鳳の者として乗馬は習っているし、目黒の競馬場にもお父様な祖父に連れられて見に行った事もある。確か、もうすぐ日本ダービーも始まる筈だ。

 それ以前に、私は29年夏から秋のアメリカ旅行にて、東テキサスで油田を「偶然」掘り当てた時に、アメリカで牧場経営を始めた。それに合わせて競走馬の育成も始めて、アメリカの田舎競馬で走らせ始めている。
 そして、日本にもその一部を連れて来るべく、私が行った事がない北海道の帯広辺りに鳳グループの牧場が開かれた。いずれアメリカのお馬さんも、日本に連れて来る予定だ。

 ただ、アメリカにいるお馬さん達の何頭かは、かなり速い、いや強いという報告も聞いている。
 私自身は、たまの乗馬を楽しむ以上で馬には興味が薄いけど、知らない間に色々と事が進んでいるらしい。アメリカでお買い物をしたお礼にと、優秀な血統のお馬さんを頂いたりもしている。
 ただし、日本の競馬の歴史を無自覚に変更する気はないから、日本に連れてきたとしても、金持ちの趣味として単なる乗馬用として飼う予定にしている。

 それはともかく、東洋での競馬の一大拠点が上海租界だ。
 そして私の目の前には、上海競馬場がある。

「クラブや観覧席は立派だけど、普通に競馬場ね」

「姫、競馬場に何をご期待か? それにこれだけ立派な芝の競馬場は、まだ日本にないんじゃないか?」

「さあ、日本の競馬場って目黒くらいしか行った事ないし、他は知らないわ」

「その目黒はどうだった?」

「多分、ここより狭いと思う。けど確か来年に、目黒で日本初のダービーをするのよ」

「なら、ここで目を肥やしておくのも一興だな。日本のやつより、余程年季が入っているぞ」

「だから、私は賭け事自体には興味ないって。馬が走るのを見に来ただけよ。あっ、八神のおっちゃんは、賭けたかったら好きにしていいわよ」

「それじゃあ、少し遊ばせてもらおう」

「ほどほどにねー」

「お嬢様はあちらに。あそこなら警備上も安心できるかと」

 そう言ってシズが指差したのは、普通の観覧席じゃなくて、ちょっと豪華な貴賓用席。入る時に鳳商事の名前で来たし、チップも弾んであるので席も確保済みだ。

「おっちゃんは、馬券買いに行くのよね。こっちに戻ってくるの?」

「護衛にそれを聞くか? まあ、メイドの嬢ちゃんの言う通り、ここは街中より安全なくらいだろう。だが馬券を買ったら、念のため軽く見回ってくる。じゃあ嬢ちゃん達、しばらく姫を頼む」

「お任せを」

「お務めご苦労様です」

 3人に見送られて、八神のおっちゃんが馬券売り場へと消えていく。

「お話や映画だと、この間に八神のおっちゃんは悪漢を人知れず倒して、何食わぬ顔で戻ってくるのよね」

「八神様ならそれも可能と存じますが、小説の読みすぎでは?」

「共産党など、口先だけの輩でしょう。片手間で十分に倒してこられるのでは?」

 二人の意見が食い違っていた。
 私はどちらにも苦笑しかない。

「共産党は確かにインテリが多いけど、大陸の共産党は田舎の村を乗っ取るために地主や村長を一族ごと殺して乗っ取るような、物騒すぎる連中よ」

「そうなのですね。そんな事をするから、余計に嫌われるのです」

「ごもっとも。とはいえ、主義主張を方便にしているような人達も多いから、嫌われても気にしてないと思うわよ」

「それならば、叩き潰すのみですね」

 そうリズが、淡々と当たり前のように答える。
 さすがアメリカン。まあ、私も話が通じる相手だとは思っていない。
 主義主張をお題目に掲げた軍閥のような組織など、ハッキリ言って醜悪な鵺(ぬえ)でしかない。
 もっとも、こんな物騒な話をしている競馬場は、見渡す限り平穏だ。そしてここにいる間くらい、馬の走りに魅入られて物騒な話など忘れたいものだ。

 そしてその日のレースが全て終わるまで、競馬をぼーっと見て過ごした。途中お茶を挟んだりしたけど、午後遅くから百貨店巡りする気も起きず、ただただ馬が懸命に競い合う姿を見ていた。
 どの馬が勝つかなと二人に問いかけるくらいはするけど、賭けもしていないし、双眼鏡越しに気に入った馬に出会うこともなく、もちろん私の馬も出ていないので、本当に見ていただけだった。
 夕方近くに八神のおっちゃんが貴賓席に戻ってきたけど、それでも今日のレースが全て終わるまで見続けた。

「で、ここの競馬はどうだった?」

「馬は好きよ。自分でも乗るし。けど競走馬って、他と違った魅力があるわよね。ひたむきって言うか純粋って言うか」

「そうかもな。生まれてから、それこそ走る以外の事は知らんだろうしな」

「けど、まだ3歳とか4歳なんでしょ」

「人に例えれば、その年で20代の大人だ。馬術競技なんかの馬は、10歳くらいだったと思うが」

「……意外に詳しいのね」

 ちょっと感心したので軽く見上げると、私の言葉に少しご不満そうだ。

「これでも大陸を馬で駆け回るくらいはしている」

「あ、そうか。元は兵隊さんって設定だっけ?」

「設定じゃない。軍人だったのは本当だ。でなければ、鳳の当主にシベリアで連れまわされたりはしていない」

「そ、そうなのね。御免なさい」

 私の軽口に軽くキレてしまった。
 触れてはいけない事だったのかもと、流石に焦る。
 けど、それも一瞬の事で、すぐに平静に戻る。

「謝られる程の事じゃない。それより、乗馬で乗る馬も10歳くらいの奴が多いはずだ。だから落ち着いているし、玄人じゃなくても乗りこなせる」

「それは調教師から聞いた事ある。レースを引退した馬だって」

「そうだ。速く走れるのは若いうちだけってのは人と同じだ」

「馬の世界も厳しいのね」

「人の世界よりマシだろう」

 私の言葉にそう返す八神のおっちゃんの表情は、遠くの馬を見ているせいかどこかいつもと違っていた。

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上海競馬場:
現在は公園になっている。
1933年に建てられた、当時のランドマークにもなった豪華なクラブハウスは現存している。この時代だと、観覧席共々先代の建物になる。

日本ダービー(東京優駿):
1932年開催。33年には手狭になった目黒競馬場から、現在の東京競馬場に会場を移す。
目黒競馬場跡は、地名に若干残っている程度。

日本中央競馬会:
現代でこの本部が入っているビル(六本木ヒルズゲートタワー)が建っているのが、六本木ヒルズの道を挟んだお隣。
もしかしたら、鳳本邸の敷地内かもしれない。

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