■「悪役令嬢の十五年戦争」
■ 207 「上海狂詩曲(8)」
「さてさて淑女の皆さま、ご観覧の準備の程は如何でしょうか。本日最後の出し物、間も無く開幕にござい」
八神のおっちゃん、部屋に戻ってくるなり凄くいい笑顔だ。しかも劇場の座長のように優雅に一礼までしてくれた。 そしてその八神のおっちゃんにシズが近づくと、何か重そうなものが入った大きめの弦楽器をさらに入れる鞄を渡す。さっきリズが言っていたような、危ないものが入っていそうだ。
「移動するの?」
「姫、まずはわたくしめの状況説明をお聞きしてはくれませぬか」
言葉の最後が、目と口両方でマジになる。言葉はいつものごっこ遊びなのに迫力が違う。 ただ、その言葉で思ったのは、私が気楽に考えすぎているからかもしれないという事。だから、人間得手不得手があると知って欲しいと、こちらも目で訴える。ついでに口でも。
「ごめん。荒事は専門外だから、分からないのよ」
「商売だと、世界を相手に大立ち回りなのにか。似たようなもんだろ?」
「ぜ、全然違うでしょ!」
「そうか? お前のしている事も戦闘も、どっちも死人が沢山出るぞ」
「そ、それは……」
あまりの物言いに絶句してしまう。けど、多分私の表情に満足したんだろう、八神のおっちゃんの方はすぐに表情を緩める。 「まぁ、いい。さて外の状況だが、爆発騒ぎの方は色んな連中が他を捜索中だ。だが今度は、租界の外、ここから南の城内で貧民の暴動が起きている。早くも商店の破壊や放火に発展。群集がこちらに向かって来ている。爆発もあったと言う未確認情報もある」
「じゃあ、逃げるの?」
「まあ、待て。暴動はまだ距離がある。それに租界には、あの程度の数じゃあ入っては来られない。既に租界の各国の軍が出動して、警備を固めている。問題は別だ」
「もう租界の中に入って来ている人達ね」
「そうだ。暴動は本来は陽動か囮だったんだろう。だが先に、本命の方が一部なり露見してしまった。現に租界の警察や軍は、入り込んだ不穏な連中を探し回っている。しかもヤクザの連中も、警察の側に協力している。何しろ上海租界は、大抵のものにとっては金づるだからな。中心部での昼間の事件だから、どこも面子を潰されて激怒してやがる。 だから連中は焦って、もう夕方なのに暴徒を動かした。これで余計に統制の取れない暴動になるだろう。そしてその間に、焦った動きを続ける可能性が高い」
「じゃあ、このまま巣篭もり?」
「さて、どうかな。ちなみに、姫はいつまで滞在できますかな?」
そう言って私を見る。姫と言うくせに、目は真剣だ。
「最悪、夏休み中はいけるけど。仕事があるから、出来るなら最大で1週間以内には帰りたい」
「仕事ね。夏休み中の小学生は、こう言う時は宿題と言うのではありませんかな?」
「私、小学校の宿題って、日記以外した事ないんだけど」
「なんとおいたわしや。子供らしい事は出来る時にしておけよ」
思わずといった感じの言葉。表情にまで、少し同情が出ている。
「小学校は今年で終わり。もう少し早く言ってよ。それより、どうするの?」
「そうだな。外の暴徒が、租界の兵隊と本格的に睨み合う前に移動した方が楽だろうな。長期戦で良いなら、騒動が終わるまでホテルで巣篭もりだ」
「じゃあ、移動の方向で。曾お爺様のお友達に、ご挨拶しないといけないからね」
「承りました。では移動だ」
あっさりそう言ったけど、ちょっと待って欲しい。
「いや、張支店長の指示待ちじゃないの?」
「ホテルロビーで、準備出来次第移動するようにと伝言が来て、下に待たせてある。なかなかどうして、行動が早い」
八神のおっちゃんは満足そうに言う。 この言葉からこの人は、普段は鳳商事の上海支店と関わりがない事が分かる。本来は北の方面の担当なんだろう。鳳商事は、北京、天津、青島そして満州の大連に支店がある。 一方で私とのやり取りは、一応の確認程度だったのかもしれない。
そして下で待っていた上海支店の案内人と合流。見た目は普通にリーマンだけど、色々と想像を掻き立てられる人に違いない。 その人の先導で、一緒に来ていた他の社員さんが私達の荷物を持つ形で、バンドの河岸の方へと移動する。 租界の外の暴徒からも遠ざかるし、中枢部で馬鹿な事する可能性は低い筈なのでバンドへの移動は正しい筈だ。 そして案内すると言うからには、少なくとも突発事態以外での安全は確保されていると見ていいだろう。
一見して、外は平穏だった。数は少ないけど、車や人力車どころか、歩いている人も普通にいる。 遠くからは、ホテルの室内でも聞いた喧騒が聞こえてはいたけど、地図の通りなら旧市街にあたる城内は1キロくらい先。遠くに火事の煙が上がっているように思えなくもないけど、租界との境界には駐留している各国の軍隊がすでに展開している。 城内の方だから租界の中枢部の外に薄くフランス租界があるので、多分フランス軍が展開しているんだろう。
だからホテルを出た私達も、街中を歩く人々と同じように何事もないかのように歩いて移動する。 案内人によれば、200メートルも歩けば目的地。ただし車は使わない。距離が近いのもあるし、万が一爆弾魔が爆弾を投げてきたら、車でも意味がないからだと言われた。
そして護衛対象の私がもう子供と言い切れない身長になってきているので、全体の歩調も大人並みの移動力。 だから200メートルなど、ほんの数分の距離。カップラーメンが完成する間に到着予定だ。
そして外を歩いて、自身の変化にようやく気づいた。いや、気づけた。何故か私はシズが握っている手を、こちらからも強く握り返していた事に。 さらに視線を忙しく動かしながら、近くに爆弾魔がいるかもしれないなどと言う、否定的な意見を頭の中で潰しながら、何事もないと唱え続けつつ歩いていた。 たった3分が30分にも3時間にも思えそうになる。まるで夢の中で、何か得体の知れないものから逃げる時みたいだ。 その事に気付けた。
(私、怖くないんじゃない。怖い事、危険な事に気付けていなかったんだ。やっぱり、21世紀の平和な世界の鈍い日本人だ)
図らずも気づきたくもない事に気付いてしまったけど、同時にこの世界がゲームの世界などではなく現実世界なのだとも、生き物としての本能で実感させられる。 頭だけでなく身体能力もかなりチート気味な体だけど、そんなものはクソの役にも立たない。ただ歩くだけで、現実に無慈悲に実感させられる。
(こんな事なら、全部終わるまでホテルの部屋の隅でガタガタ震えていればよかった)
「お嬢様、上海支店に到着しました。お嬢様?」
いつの間にか鳳商事上海支店に到着していた。私がぎゅっと握ったシズの手から順に見上げていくと、シズの心配そうな顔が覗き込んできている。 ゆっくりと見渡すと、リズ、八神のおっちゃん、それに案内してくれた人、荷物を運んできてくれた人、そして前には出迎えてくれた張支店長とお付きの人数名がいた。
「まあ、よく我慢した。だが、自分の心に気づくのが少し遅い。鈍いと言っていい。今後の為にも、その辺りも鍛えておくんだな」
そして八神のおっちゃんが、落第したけど追試でオーケーみたいな評価を下してくれた。 けど、軽口を叩くという事は安全の証だ。共産党の無差別テロにも遭わずに済んだ。誰も騒いでいないから、他でも何も起きていない。 そう確認できたら、途端に視界が低くなる。 腰が抜けんじゃないだろうけど、安心してその場でペタンと座り込んでしまったらしい。 せめて、みんなの前で最後まで虚勢を張れないとは、悪役令嬢失格だ。
「……まだまだ子供だったんだな。だが、取り敢えず安心しろ。ここは戦車でも突っ込んで来ない限り大丈夫だ」
遂には八神のおっちゃんに慰められたらしい。 何やら聞きづてならない言葉を吐いた気がするけど、もう追求する気も、ツッコム気にもなれなかった。
「だが、すぐに移動だ。次はお待ちかねの方とのご対面ですぞ、心されよ姫」
しかも、追い討ち付きだった。
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普通ならアクションシーンかもしれない。そして色々と可能性を考えてはみるも、上海租界のど真ん中では大規模テロとか無差別テロは無理だと判断して断念。 秒で、警察じゃなくて駐留軍がやって来る。マフィアもやって来る。そもそも、余程の連中じゃないと入り込めない。蒋介石も、爆撃機でバンドを『誤爆』したくらいだ。