■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  208 「上海狂詩曲(9)」

 その日の夜を少し回った頃、黄浦江の上にいた。
 鳳商事上海支店の事実上のボス、いや裏ボスに会う為だ。

 私はてっきり、映画に出てくるような豪華なチャニーズ・マフィアなアジトを予想というか少し期待していたのに、そこには案内されなかった。かと言って、地下の秘密のアジトでもないし、郊外の邸宅などでもなかった。

 船の見た目は、ステレオタイプなチャイニーズテイスト全開の、観光目的のレジャーボート。船体の上にチャイニーズ風の朱色屋根の館が乗っかっている、如何にもな装い。
 そして何より安全だと感じさせてくれる場所なので、正直なところ安心したし助かったと思った。
 おかげで心も落ち着いている。

 しかもこの船に乗るのも、鳳商事から車で黄浦江の岸辺に移動。岸辺の波止場で小さな動力船に乗って、沖合じゃないけど河上のこの船にさらに乗り移っている。
 つまりこの船は、何かが起きた時には岸辺に寄ることがない。

「確かに、ここが一番安全ね」

「はい。勿論、拠点としている場所や住居は他にございますが、何か事が起きる場合、その予兆がある場合、我々の主人は船の上で過ごします。ここならば、列強の軍艦以外は注意しておけばどうとでも出来ます。それでは、こちらへ」

 二階建ての楼閣の一階後部は、周囲を廊下で囲んで控え室のような部屋の向こうに豪華な内装の部屋があった。
 応接室であり居間のような場所だ。そして今夜は、晩餐が催される場所だ。

「お初にお目にかかります。鳳伯爵家の長子、玲子と申します」

「よく来られた、鳳の宝玉よ。私は名乗るほどの者ではない。どうしてもと言うなら、その前に黄とつけておくれ」

「はい。それでは、黄先生とお呼びしても宜しいでしょうか?」

「お好きになさい。さ、そんな事より、席に着きなさい。まずは食べよう。子供は食べなくてはな」

「はい、ご相伴にあずからせて頂きます」

 そうして席に着くけど、椅子を引いてくれるのはこの部屋に待機していた、黄先生の付き人。残念ながら黒服丸メガネじゃなく、すごく洗練されたボーイを思わせる。
 そしてその人もすぐに下がる。そしてすぐに別の人が、ワゴンで料理を持ってきて給仕をしてくれる。
 食事は二人ぶん。シズとリズ、そして八神のおっちゃんは、別室待機で、同じように食事をとっている筈だ。

(映画とかなら、廊下に武器を持った人が沢山待機していて、私が何かしたら飛び込んでくるって感じよね。それとも、私と護衛を分断したから、煮るなり焼くなり好き放題ってパターンかも。それとも、料理に毒か睡眠薬でも入れて……て、馬鹿らしい)

 出来すぎたシチュエーションを前に妄想の翼を広げようとしたけど、虚しくなりそうなだけだった。
 それに下らない事を考えるのは、招待してくれた黄先生や上海支店の人と、何よりいい匂いをさせている料理に失礼だと思い直す。

 それからしばらく、雑談を交えつつ爺さんと二人で今夜も豪華な料理を堪能してから、お茶の時間へと移行する。

「大変美味しゅう御座いました。爆発事件が起きてからはどうなるかと思いましたが、寛いで夕食を楽しむ事が出来ました。これも、黄先生のおかげです」

「それは何より。私も玲子さんの旅のお話、大変面白かった。それにまだ若いのに、色々なところに行かれご立派だ」

「ただの道楽半分です。今回、上海に来たのも、一度この目で高祖父が立っていた場所を見てみたかったからですし」

「ご自身の源流を見るのは、大変良い事だ。……それで、私はあなたに何を話せば良いかな?」

 さあ、ここからが話の本番だ。
 そうは言っても、私としてはこの人に会うのが目的だ。しかも会えれば運が良い、私個人としてのコネを作れたら良いくらいに思っていたから、話す内容は特に決めていない。せいぜい、曾お爺様やここでのご先祖様の話が聞けたら、くらいにしか思っていなかった。
 だからその点を正直に告げる事にした。私の曾お爺様と同世代の人生経験を積んだ人に、取り繕っても仕方ない。

「黄先生に、お会いする事そのものが一番の目的でした。それでも何か話して下さると言うのでしたら、黄先生と鳳の者との逸話などお聞きできればと思っています」

「フム、それなら幾つかお話しできるが、本当に良いのかね?」

 値踏みするような視線を少し感じるけど、これでも色々と感情とか隠した態度なんだろうと思える姿勢だ。
 だから何か意味のある事、意味のある話を幾つか思い浮かべてはみる。そうすれば、すぐにも共産党、国民党、張作霖の政府、そして満州、色々なキーワードが頭には浮かんでくる。
 けど相手は、私達に大陸での情報をもたらしてくれる人達で、目の前の人はそのトップだ。思いつき程度の薄っぺらい話をしたところで、見透かされてしまうのがオチだ。
 だから相手の目を見て、思ったままを口にする。

「構いません。今回私は、上海を見に来たんです。込み入ったお話をする為じゃありません。それに出来れば、良い思い出を持って日本に帰りたいと思っています」

「フム、そうか」

 短く、けどどこか満足そうな言葉。正解かどうかは分からないけど、目の前の老人がそれなりに満足する言葉は言えたらしい。

「それならば、私も思い出話を存分にさせていただこう。ただその前に、少しだけこちらの問いに答えてはくれないかな?」

「お答えできる事でしたら何でも」

「ありがとう。では、何故今来られた? 老人の想像では、今後来るのが難しくなると考えているのではと見たのだが、如何かな?」

(『鳳の巫女』のお告げか何かを期待しているのかな? けど、大陸情勢って私が知っているのと、もう随分違ってきているのよねえ。どうしたものか)

 質問にどう返すべきか少し考えてしまう。そうすると、さらに黄先生が言葉を続けた。
 「それほど、悪くなるか?」と。
 そこまで言われたら、何か言わないわけにもいかない。

「私が変わった夢を見ることはご存知かと思いますが、幾つか悪い夢を見ました。もしその通りなら、もうすぐ満州で大きな騒乱が起きます。さらに半年ほど先に、ここ上海でも大きな戦闘が発生するかもしれません。ですが」

 黄先生が何かを言おうとしたので「ですが」とすぐさま続けると、向こうが開きかけた口を閉じる。

「ですが現実は、もうその夢とは違っています」

「……なるほど、その違いが何かを見に来たわけだね?」

(えっ? 全然違うけど。いや、無意識にそれを求めていたのかも)

 思わぬ返しに、私の方が内心少し混乱させられた。
 けど、一面では腑に落ちるところもあったから、やっぱり無意識に違いを探しに来ていたんだろう。
 そして追い詰められた共産党の暴走を目にする事が出来た。だから、すんなりと次の言葉が出た。

「そう、なのかもしれません」

「そうか。それで、違いについて何か分かったかな?」

「そう言われると具体的に答えにくいのですけれど、少しだけ良い方向に思えます。それと」

「それと?」

「共産党の動きにご注意下さい。今回の爆発事件、そして今起きつつある暴動は、私の夢には全くありませんでした。それに、上海の隣の街まで来ている軍閥も同様かもしれません」

「蘇州の軍は国民党でも右派の連中だし、蒋介石との繋がりも強い。少なくとも、上海に入り込んだ連中との連携はないだろうよ。だが、共産党は厄介かもしれないね。分かった注意しよう。そして、ご助言感謝する」

「助言と呼べるようなものではありません。私も先が見えず戸惑うばかりです。それにちょっとした騒動でも足が竦むような子供でしかないのを、今回痛感させられました」

「それが普通だ。この老人など、あなたほどの年の時はまだ村から一歩も出た事もなかった。いや、老人の話などどうでも良いな。それで、次はどこに行かれる?」

「日本に戻ります」

「そうなのかね。では、老人から少しだけ助言だ。帰るときに、少し北に寄り道しなさい。船と人は用意しよう」

「北……北京、それとも満州でしょうか?」

「行ってみれば分かるよ。さて、ではあなたの高祖父と曽祖父についての、少しばかり恥ずかしい話でもさせて頂くとしよう」

 そう言って破顔した。
 難しいお話はここまでらしい。そして私の旅は、続くようだ。

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