■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  223 「満州事変(1)」

 1931年9月8日、満州で事件が起きた。と言っても柳条湖事件じゃない。
 8月下旬に入って積極的な活動を開始していた「満州党」が、清朝最後の皇帝・廃帝溥儀、愛新覚羅溥儀を担ぎ出す事に成功したのだ。
 この時点ではまだ事が起きただけだけど、この世界の歴史的には『満州政府発足』や『溥儀復辟』と呼ばれる事になる事件だ。

 29年秋から活動していた「満州党」は、この8月中旬から民衆の支持が急速に拡大し、民の声に応える形で溥儀が登場。圧倒的支持を受けて、『満州臨時政府』の成立を宣言。
 『五族協和』の民族自決を旗印に、万里の長城より北の地域に、『王道楽土』を建設する事を目的とした。
 溥儀は、熱狂する民を見ていたく感動したと伝えられている。

 しかしこの時点では、「独立」は勿論、自治宣言もされていない。ただし、政府を作る際には皇帝専制ではなく議会を設ける事を列強には伝え、更に議会の開催を公に宣言もしていた。ゆくゆくは欽定憲法の制定による、立憲君主制を目指すという筋書きだ。
 勿論、現在の中華民国政府を蔑ろにしない、という言葉も添えられている。

 なお溥儀については、動きが私の前世の歴史と前後しているけど、脱出については似た感じだと思う。川島さんと関東軍の手によって、天津の日本租界から脱出させて満州入りした。
 後で裏を取ると、溥儀の担ぎ出しと脱出劇には、ほぼ私の前世と同じ人達が関わっているらしかった。

 けど、状況が大きく違っていた。
 1929年秋から活動する「満州党」があり、彼らは満州の民族自決を求める政党もしくは政治結社で、周辺軍閥や馬賊、騎馬民族を取り込む事で、一定の軍事力も保持していた。
 そして溥儀の復辟による民族自決を宣伝して周り、民衆の支持を急速に広げた。まあ、金や食料をばら撒いただけとも言うけど、一応宣伝して回っていたし、うちの新聞も採算度外視で派手に宣伝して、日本や中華民国だけでなく鳳商事も使って世界中に発信もした。
 アメリカでも報道に協力してもらった。

 そして鳳に煽られた形で、日本の報道各社も現地入りや派手な報道へと傾いていた。だから9月に入る頃には、満州での動きは世界の知るところとなっていた。
 関東軍としては、予想以上の状態を前にして動きにくい事だろう。
 ただし、石原莞爾ら関東軍は動きを妨害していないし、日本の大東亜主義な皆さんも応援しているので、日本側の支持が全くないわけでもない。

 もっとも、世界は満州の事など気にもしていなかった。調べて分かったけど、殆ど誰も関心が無かった。
 気にしていたのは、満州北部に利権を持つソ連くらい。基本的に満州は、日本の利権だからだ。イギリスなど列強は、日本が上海に手を出さない限り気にもしない。文句を言いそうなアメリカでも、満州の事を気にしている者は殆どいない。
 大陸のどこかで騒動が起きても、上海では絶対に何もするなと言って来た列強があったくらいだ。

 そしてその上海は、満州での漢族ではないナショナリズム的な動きよりも、コミュニズムの動きが気になって仕方ない状況だった。
 平時としては積み上げられるだけの駐留軍も注ぎ込んだので、上海に手を出そうと言う馬鹿も、生き残りの為にカミカゼ状態な共産党の工作員くらいだった。
 なんでも、捕まえた工作員の話では、上海で死ぬか、逃げ帰って一族郎党粛清されるかの選択しかなかったそうだ。流石、共産党。身内にも容赦ない。

 話を戻して満州だけど、1929年の『中ソ紛争』がまだ尾を引いていた。この紛争で、張作霖軍閥のうち満州に残っていた有力者の多くが戦死していた。
 軍閥自体も、張作霖が北京に移って以後も満州南部に居たうち、精鋭や忠誠心の高い連中を中心に1割程度は戦死するか散逸しきっている。残りについては、半分以上が満州党に鞍替えが済んでいた。つまり向こう側が3割に激減している。
 今年の夏までは満州党の方が3割程度だったから、金の効果は覿面と言う事だ。流石は大陸。誰もがお金には正直になる。呆れるよりも、もはや感心してしまう。
 けど、おかげで事はうまく運んでいる。

 そして、ここまでうまくいったのは、南満州の実質的なトップだった張学良が戦死した影響が強い。何しろ張作霖は、北京から一歩も出てこない。
 また、哈爾濱(ハルビン)周辺を拠点としている張作霖軍閥の有力者の張景恵が、自らの配下や一族の多くを引き連れて北京とその周辺に居る影響も大きい。
 その張景恵は、張作霖を主席とする中華民国政府の陸軍長官をしている。これは、張作霖の中華民国政府自体がそれなりにうまくいっているお陰で、軍閥自体の軸足が本来の地盤の満州から大きく外れている事を強く示している。

 しかも張作霖軍閥のうち、満州にこだわる者の多くが戦死してしまっている。
 そして、良い目さえ見られれば良い者達は、満州党へとこぞって参加した。溥儀が担ぎ出された事で、さらに人が集まりつつあると言う情報も早くも舞い込み始めている。

 けど、何もかもが私達の目論見通り運んでいるわけでもなかった。
 小さな問題は横に置いておくとして、当面の一番の問題は、『溥儀復辟』に反対する連中が早々に登場してしまった事だろう。
 しかも共産党じゃない。満州に残っている、張作霖軍閥の一部の皆様だ。彼らにとっては故郷だけど、清朝や溥儀なんて関係ない。もはや過去のものでしかない。そいつらがデカイツラして登場したもんだから、気に入らないらしい。
 まだ武力衝突に発展してないけど、現地の第一報を見る限り時間の問題だ。

 一方では、共産党も前の帝国の忘れ形見が登場したことに脊髄反射していた。
 満州の共産党組織に外への発信力はないけど、ソ連にいるコミンテルンというかソ連の共産党が、『溥儀復辟』に高い関心を示すような動きを早くもしてくれていた。
 実に有難い。
 と言っても、『溥儀復辟』許さんとかを世界に発信したわけじゃない。日本政府に、「早く潰せ。満州北部に飛び火したら、お前ら許さん」という内容を、かなり下手に言ってきた。
 どうやら、かなり困っているらしい。

 これを日本政府が撥ね付けるか無視すれば、現地のなけなしの共産党組織やシンパ、もしくはソ連が動かした工作員とかが頑張ってくれそうだ。
 何しろ情勢は、日本(関東軍)がまだ首を突っ込んでないように見えるから、ソ連としては多少の無茶は通ると考えているからだ。

 内側を見てみると、溥儀も問題だった。私の前世の歴史通りというか、そんな知識が無くても予想通りすぎるくらいの展開。要するに溥儀は、清朝の復興を願っている。神輿を用意しただけじゃあ物足りない、との有り難くないお言葉が聞こえてきそうだ。
 けどそんな事、今は出来るわけがない。誰もする気もない。民衆が今だけでも万歳唱えてくれるだけ、有り難く思って欲しいくらいだ。

「もっと情報が欲しいわね。満州に行きたいくらい」

「やめとけ」

「おやめ下さい」

「お控えのほどを」

「お勧め致しませんな」

 鳳の本邸の応接室に集まっていた、お父様な祖父、シズ、時田、セバスチャンの順に諭された。離れた場所で、シズと一緒にリズとトリアまで頷いている。
 ただの愚痴なのに。

「分かっているわよ。川島さんも情報は回してくれる約束だし、情報をもらったところで何もできないし、こうして見ているだけしか出来ないし」

「分かっているなら、踏ん反り返っていろ。特等席で見るんだろ」

 そう言うお父様な祖父は、上座の豪華なソファーに悠然と腰掛けている。これでブランデーグラスを右手で揺らしていれば、悪党のボスとしてなら合格点だ。

「よく見えないから不満なんでしょう」

「これ以上望むのか? 今の位置は、日本の政府や陸軍中央以上の見晴らしだぞ」

「分かっているわよ。特別に派遣した商社員と記者からの情報もあるし、大陸の兄弟達ってところからの情報も加わっている事くらい」

「それに川島芳子との悪巧みも、俺達以外の日本人は知らないときたもんだ。既に関東軍は予想以上の状態に慌てているが、こっちは高みの見物だ。はっきり言って、手のひらの上だぞ。俺達の」

「その傲慢が身を滅ぼすのよ。私的には、手を離れて制御不能にしか思えないのよね」

「手は尽くしただろ。なら、あとは釣果を待て。それも上に立つ者の務めだ。だいたいなあ、今回は商売じゃない。戦だ。主に情報のだけどな」

 そう言うお父様な祖父の雰囲気が少し変わる。駄々っ子をあやす父親じゃなくて、軍人のそれだ。

「戦争ってのは、それまで積み上げた事の帰結だ。戦争に至るまでに何をするのかが一番重要だ。まあ、戦争に限らないが、準備が全てなんだ。細工は流々仕上げを御覧じろって言うだろ。
 兵は向こうが用意した。武器と兵糧はこっちが用意した。情報も集めた。策も講じた。その上、相手に見えてはいないが、方々を引っ掻き回している。あとは現場と運に任せるしかない。
 後ろにいる頭がする事は、失敗した時にケツを拭く事だけだ。その備えも出来ていれば、まあ及第点だな。俺はそれを、日露戦争で先輩方に学んだ」

 言葉の最後で、目が少し遠くを見ている。
 確かに日露戦争は、後世から見れば失敗もあったみたいだけど、それ以上にやれる事は全部したと言う。人事を尽くして天命を待つってやつだ。
 そして今回は、本来は何もしないつもりだった、もしくは出来ないと思っていた事に対して、かなり泥縄式で急だったけど多少なりとも何かが出来た。出来るように手立てを講じた。

(よく考えれば、元々は何もしないつもりだったのよね)

 そこに思考が至って、気づかないまま立ち上がっていたところから、「ポスン」と高級ソファーへと腰を落とす。

「ちょっと頭が冷えたわ。事が起きるまで、おとなしく小学生でもしている事にするわ」

「それが良い」

 その少し皮肉げな笑みは、お父様な祖父の麒一郎から私への採点が合格だという証に思えた。

 

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愛新覚羅 溥儀 (あいしんかくら ふぎ):
ラストエンペラー。
大清帝国第12代にして最後の皇帝、後に満州国執政、皇帝。
出自と運命に翻弄された人の典型。

復辟:
退位した君主が、再び王位に就くこと。
政権を追われた王朝が、再び政権を握ること。

張景恵:
奉天軍閥、張作霖の腹心。
史実では、満州事変の頃から満州国の有力者となる。
この世界では、中華民国陸軍総長(総司令官)。

戦争ってのは:
準備が全て:
色んなところで、色んな人が言っている。勝つ為の最大の秘訣。

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