■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  237 「金輸出再禁止」 

 1931年12月17日、発足したばかりの犬飼政権は事実上の最初の仕事として日本の金輸出再禁止を決定。
 これにより日本円は金(黄金)との交換が停止され、固定相場制から変動相場制へと移行した。

 そしてここで一波乱ある。鳳以外の日本の財閥や銀行が、投機で他の損失を穴埋めするべくドル買いをしていた事だ。政権交代の一番の理由だった。
 固定相場で100円=46・46ドル、1ドル=約2・15円だった対米為替相場は一気に下落。直後に100円=40ドル、1ドル=約2・50円を切った。

 私の前世の歴史の記憶よりマシなのは、元々切り下げて金本位制に復帰していた事、鳳がドルを動かしていない事、三菱が即座の交換のかなりを控えた事、そして何より日本経済の状況が良いからなのは間違いない。

「この程度で済んだかあ」

「そうなのか?」

 翌朝、新聞や資料を読みつつ、お父様な祖父と朝のお茶タイム中。

「随分前に話したでしょ。輸入が死ぬくらいに下がるって」

「そう言えば、そんな話もあったな。ちょっと懐かしくなりそうだ」

「大人が何言ってるの。けど、この数字を見ると、ちょっと報われた気分ね」

 本当に、心からそう思える。頑張ってよかったと。
 そんな私に、お父様な祖父がいつもより優しい声と表情だ。

「そりゃあ何より。俺も父さんも奔走した甲斐があったよ」

「うん、本当にありがとう。けど、まだまだこれからよ」

「ちっとは休ませろよ。倒れるぞ」

「私も休みたい」

 そう言って、お父様な祖父と二人で苦笑いする。
 けれども、互いにすぐに顔を引き締める。

「けど、まだまだ下がると思う」

「それは『夢』のお告げか?」

「それもあるけど、もう『夢』とは数字が違うから、総研とかの予測込み。1ドル、3円30銭くらいを予測しているわ」

「そりゃあ酷いな」

「うん。けど、銀行のドル売りだけじゃなくて、輸出促進の為に政府があえて落としたままにする予測も込みだし、何年か先のアメリカの切り下げも予測して、3円くらいで安定するんじゃないかって」

「不景気でどの国も関税を引き上げるだろうし、必要だろうな」

「うん」

 そんな風に続いた会話をほぼトレースするように、対米為替相場はさらに下落を続け、約1年後には100円=30ドル、1ドル=約3円30銭辺りまで下っていく。
 1920年代の固定相場じゃなかった頃が、ひどい時でも100円=40ドル程度だったと思えば、この惨状が理解できるというものだ。
 そしてその後は、高橋是清蔵相の輸出促進政策によって、1ドル=約3円程度で安定するまで為替の混乱は続く。

 円安は輸出には有利だけど、輸入は火の車になりかねない。何しろ日本は、資源に乏しい。種類はあるけど量がない。辛うじて国産できるのは、半島や満州を含めて石油と石炭、それに石灰くらい。今まで輸出していた銅ですら、輸入が始まりそうだった。
 石油を先に掘っておいて、ちょっとだけ良かった。ただ、1930年代序盤だと日本の石油消費量は知れているから、そこまで大きな影響がない。

 鉄の生産でも、銑鉄と鉄のスクラップをアメリカや英領インドから輸入しないといけない。鳳の大規模一貫製鉄所は本格稼働まであと1年は必要だから、もう少し耐えないといけないけど、耐えたところでオーストラリアから良質の鉄鉱石の輸入をするので、円安は打撃になる。何しろ作った鉄は国内で消費される。

 一方、この時代の日本の輸出製品は軽工業中心になるけど、主力の繊維産業の原綿、つまり綿花の輸入価格の上昇の方が問題だ。何しろ日本の繊維産業は、英領インドやアメリカから綿花を輸入して繊維製品に加工し、それを世界市場に輸出している。
 高く綿花を仕入れて、安く繊維製品を売る。途上国だから、労働コストが安いから取れる手段だ。おかげで、幕末以来の生糸の輸出が、日本の輸出産業の生命線ではなくなりつつある。

 けれども、綿製品の輸出には欠点がある。緊急時、つまり今世界を覆っている未曾有の不景気下では、輸入する側にとって綿製品は後回しにしていい製品だ。
 だから保護貿易、いわゆる『ブロック経済』を列強がしてしまうと、綿製品は真っ先に関税障壁にさらされる可能性が非常に高い。しかも列強の傷は浅いので、日本狙い撃ち以前の問題として行われる可能性が高い。けど、されてしまうと、日本の世論が激昂する可能性が高いというオチが待っている。

「それよりも、よ! 勝次郎くん!」

「お、おぉ」

 クリスマスムード一色な鳳ホテルのメイド喫茶の奥まったテーブルで、今月二度目の集いが行われていた。
 店自体がクリスマスな装飾だし、メイド達も頭にサンタの帽子を被っている。イブと当日は、ちょっと攻めたサンタドレスも予定している。
 そんなサンタメイドを横目で見つつの私の声に、何だか紅龍先生みたいな受け答えの山崎勝次郎くん。多分、私の顔はかなり般若になっている筈だ。

「……その、父上の説得はした。だが父上は三菱の総帥だ。身の危険より、三菱の利益を優先するのが当然だろう」

「けど、うちの情報網には、金輸出再禁止での財閥のぼろ儲けに反発する、色々と動いているおバカさん達の話が舞い込んできているのよ」

「そうなのか?」

 とは、何も知らない玄太郎くん。龍一くんは少し訳知り顔。他のメンツも、お芳ちゃん以外は、玄太郎くんと同じ。輝男くんは無表情でちょっと分からない。
 今日は他に、虎士郎くんと瑤子ちゃんもいる。前回の反省とクリスマスにみんなが集まるのは色々と無理があるから、一週間前の今日にみんなでお茶しようと誘ったからだ。

 だから他にも、私の側近候補の涼宮輝男、皇至道(すめらぎ)芳子(よしこ)、七美(しずみ)光子(みつこ)もいる。当然、メイドの香月(こうづき)シズとエリザベス・ノルマンも、壁際に控えている。
 それでも2テーブルを占領している上に、奥まった席なのに目立つ事この上ない。
 そして私達じゃない方のテーブルから、小さく挙手。お芳ちゃんだ。
 
「お嬢、ここで大声出していいの?」

「アッ。そうね、ありがとう。それじゃあ、場所移動してお説教しようか?」

「いや、勘弁してくれ。本当にどうにもならなかったんだ。それに身辺の警護は増やしたし、警察も最低1人は移動の際警護に付てくれている」

「うちなんて、お父様と善吉大叔父様それに私は、移動の時は車3台が基本よ。本邸と隣のビルの警備も増やしたし」

「最近物々しいよね。お父さんの美術館にも警備員が増えたってボヤいてたよ」

「警備員くらい、いいじゃない。うちなんて、送り迎えに軍人さんが付いてくれているわよ。こないだなんて、10人くらい来て話し込んでいるし。ねえ、お兄ちゃん」

「う、うん。父上に護衛が必要とは思えないがな。それにこないだ来た人達は、父上の後輩の将校の方々だ。警護じゃないぞ」

「そうなんだー。お兄ちゃんも、知らない間に軍隊の事が詳しくなっているのね。私は全然」

「襟や肩の飾りが複雑なほど偉いってくらいに思っておけば良いんじゃない。けど、どこも大変ね」

「いや、もともと玲子が、総研や警備部門に言って回ったからだろ」

 玄太郎くんの苦言だけど、ちょっと心外だ。

「どっちかと言うとお父様よ。私なんかよりお父様の方が、余程荒事には敏感だもの。龍也叔父様もそうでしょ?」

「父上の場合、常在戦場だから最初から隙もないし、悪漢の一人や二人どうと言う事は無い」

 龍一くん、お兄様への信頼がパない。けどそれは瑤子ちゃんも同じらしく、ウンウンと頷いている。
 まあ、あれだけの人だから、そう思うのも当然だろう。

「その慢心がダメなのよ」

「父上に慢心などあるものか」

「まあそうよね。だから警護を頼んでいるのよ。何しろ相手は、拳銃か最悪手榴弾で武装しているテロリストよ」

「てろりすと? なんだそれは? 新しい外来語か?」

 龍一くんじゃなくて玄太郎くんが頭にクエスチョンマークだ。

「アレ、使わない? テロリズムとかの言葉って普通にない? テロルってフランス革命の資料で最初に見かけた言葉だし、カール・マルクスの本にも赤色テロとか白色テロって出てくるでしょ。政治目的の犯罪者をテロリストって言うんじゃないの?」

 言葉通りに思い込んでいたけど、確かにテロリストという言葉を誰かから聞いた事がない。
 思わず頭を捻ってしまう。そんな私を、全員が苦笑したり呆れる。
 そして「玲子は海外に何度か行っているから、そこで聞いたんだろ」という玄太郎くんの言葉で決着した。

「玲子の事はいい。それより、そんなに危険なのか?」

「警察は駐在から特高まで、それに軍の憲兵も、陸海軍の危険分子と思われる将校に加えて右翼、左翼の活動家と団体、見張る相手が多すぎるのよ」

「確かに多いな。なぜだ?」

 勝次郎くん続く質問だったけど、側近候補の能力を見せるのも良いと思い隣のテーブルに振る。

「お芳ちゃん。言ってあげて」

「じゃあ、輝男。よろしく」

「ああ、最近勉強しているんだっけ?」

「はい。それでは僭越ですが、ここで話せる程度でお答えさせて頂きます」

 そのまま輝男くんへとバトンが渡ってしまった。自身が何も知らないことで向学心が高まった輝男くんに、お芳ちゃんが時々レクチャーしているのは知っていた。けど、他人に説明出来るまでになっていたとは予想以上だ。
 もともと攻略対象だから超ハイスペック男子だけど、見た目はともかく中身は『男子、三日会わざれば刮目(かつもく)して見よ』なイメージすらある。
 そして輝男くんらしく、テキパキと簡潔に語っていく。

 『統帥権干犯問題』、『満州事変』、ドル投機と今回の金輸出再禁止により、財閥があぶく銭を掴んだ事。そして大衆が、世界恐慌を発端とする不景気に対して不満を募らせ、以前から厳しく押さえつけられている左翼はともかく、右翼、国家主義者、国士様などが活発に蠢動(しゅんどう)し始めている事。

「あと付け足すとすれば、『統帥権干犯問題』で陛下がお怒りになられた事に対する『出すぎた行動』への自粛の雰囲気が、1年以上経過して少し薄らいでいるってところね。ありがとう、輝男くん」

「いえ、まだそこまで考えが及びませんでした。流石はお嬢様です」

「そんな事ないわよ。輝男くんも凄いわ。それに比べて男子達は、学校の勉強ばかりしてないで、上に立つ者としてもう少しクンフーを積みなさい」

「いや、玲子達の方がおかしいぞ」

「そうだ。今の僕達は基礎的な勉強の方が大切だ」

「二人を足したら正解だろうな。基礎の勉強した上に積み上げているのが玲子だ。だが、俺にはまだ玲子の高みまでは無理だ」

 男子3人の意見は、複合的に一致したと見える。まあ確かに、まだ小学生には酷な求めだったのかもしれない。
 そんな男子3人に、虎士郎くんと瑤子ちゃんが追い打ちをかける。

「僕ら跡取りでなくて良かったね」

「そうよねえ。なんだか分からないけど、玲子ちゃん凄いのね」

「ううん。分からない方が普通よ。私達、いや私が変なだけだから、気にしないで」

 そしてそんな遣り取りに、議論になると完全沈黙となるみっちゃんが、こっそりと安堵のため息を付いていた。
 適材適所だと、後でフォローしておこう。

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対米為替相場:
史実でも同じ事が起きて、初動で100円=33円くらい、一時は100円=20ドル辺りまで円は下落する。
その後、100円=30ドル辺りで安定。
財閥(とアメリカの銀行)のドル投機が主な原因。
ただし金地金の流出の方は、この時期よりも第一次世界大戦後の不況から関東大震災、昭和金融恐慌の流れの頃の方がずっと多い。

なお、日中戦争勃発以後はどんどん下落して、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦頃には、実質的に100円=10ドル程度だったという。
もう開戦時点で、経済的には破綻していたと言っても良いだろう。
史実日本は、大東亜戦争の開戦時点で経済的に負けていたと言える。

ブロック経済:
複数の国々または本国と植民地,半植民地,従属国が形成する一つの経済圏。
自分たちの周りを、クソ高い関税障壁で覆ってしまう。
多くの植民地を持つ一部列強と、国内経済だけで十分なアメリカが実施。「持つ国」と「持たざる国」の対立へと進んでいく。

テロリスト:
この時代だと、少なくともメジャーな言葉ではない。

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