■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  243 「昭和7年度予算編成」

 大陸情勢が、また私の知らない不思議時空に入りつつある頃、日本列島は期待感に包まれていた。インフレ大魔王の高橋是清大蔵大臣が、来年度予算で大規模な積極財政を打ち出しているからだ。
 しかも、またも「鳳の姫様が、お上に『山吹色のお菓子』を献上した」という話題で持ちきりだ。

 ちなみに私が国に献上したのは、今回も金地金で1000万ドル分。円換算だと、3月時点で1ドル=2円70銭から80銭くらいだから、間をとって2750万円分くらい。これを財源に国債を増額するので、6500万円から7000万円くらいが発行される予定だ。
 なお、黄金を担保にしても、不景気では4割程度は財政の裏付けがないと国債が発行できない。だからこの程度が限界となる。

 一方で、1931年(昭和6年)度の予算が緊縮財政と国債発行なしな状態だったので、約17億7000万円。これに対して1932年(昭和7年)度予算が、3月に入った時点での予定で、総額はほぼ25億円。
 この中には、私が献上した分も含まれるし、私がアメリカでした膨大なお買い物の関税が1億円分くらい含まれている。関税率13、4%でこの額とか、来年はどれだけ納税するのか気が遠くなりそう。
 まあ、鳳の異常な行動はともかく、昭和6年の景気がどん底だった事を差し引いても、その差は歴然だ。

 ちなみに昭和6年度の軍事費は、陸海軍共に約2億7000万円程度。これが昭和7年度は、陸軍が約4億6800万円、海軍が3億9000万円程度。私が献納したのに、国家予算に占める軍事費率は約34%。3分の1を超えている。

 これに対して、私のお金の大半が突っ込まれる、32年に設けられた「時局匡救事業(じきょくきょうきゅうじぎょう)」、日本版ニューディール政策と表現できる大規模公共投資が、3年計画で約11億5000万円、本年度は約3億8500万円になる。
 毎年10億円くらい突っ込めないもんだろうかと、真剣に思いそうになる。

 なお、私がまだ散財していないドルと黄金は、使わない分を含めて14億ドルくらい残っている。日本に持って帰った分もまだ全然使い切っていないし、アメリカでのお買い物が本格化していないのが主な原因だ。
 また既に一部使った分のドルは、ちょっと奇妙な流れになっている。
 私のお金は、半ば人質としてアメリカの銀行に多くを預けてあるのだけれど、これを直接使うとその銀行の現金が無くなって倒産する可能性がある。大きな銀行しか預け先にしていないけど、それですら危うい銀行がある。

 だからモルガン財閥などがうまく操作して、銀行の持つ担保物件とか現金と黄金以外の金目のものと私が欲しい商品が、半ば物々交換で取引されて日本へとやってくる。そしてドル札は、そのまま持ち主だけが変わって銀行に残るというわけだ。
 おかげで、鳳と取引したメーカーさんの多くが、銀行に恨みを募らせているらしい。
 一方の私は、手間は全部向こうがしてくれる上に、迷惑料やサービスとして担保の一部を頂いたりしている。そしてその分の一部は、銀行とメーカーさんに色々と配慮をしておく。
 ついでに、アメリカでの寄付とロビー活動にも金を入れておく。

 それはともかく、私の財布の中身は円に換算すると37から39億円ってところ。円がガクンと下がったせいで、まだ国家予算1年半分の金を持っている事になる。
 日本から大量流出した金地金など、私が持っている方が日銀より多いと言う凄い状態だ。しかもこれで、日銀の金地金保有量は私の前世の歴史の中よりずっとマシと言うのだから泣けてくる。
 軍がマジモンの独裁政権を作ったら、私の金は全部没収とか言われるんじゃないかと、妄想しそうになる状態だ。
 だからこそ、政府がやるべきは積極財政による景気浮揚しかないのが良く分かる。分かりすぎる。

「軍艦は今必要ないんだから、もっと不況対策に突っ込めないのかなあ」

「お前、酷いこと言うなあ。海軍の連中泣くぞ。いや、刺しに来るぞ」

「フンっ! 献金しろとか油寄越せしか言わない人達なんか、怖くありませんよーだ。私には国民が付いているんですからねーっ」

「あのなあ。いいか、でかい軍艦を作るには時間がかかるし、作る場所も限られているから一気に揃えられない。海軍ってのは10年20年を見越して計画立てないと、まともな軍備は揃えられないんだぞ」

「じゃあ、陸軍を減らせばいいじゃない。戦車なんて、有事になってからでかい工場のラインを揃えれば、最新のやつを大量生産できるんだから」

「陸軍は、去年の秋から満州で散財しているだろ。満州の駐留費も増えた。その補填をしてやらんと、泣くどころか本気でクーデター起こすぞ。
 それにだ、軍事費からは民間への発注を大幅に増やす事で大きな需要を喚起するって目的もある。うちにすらトラックの発注くるだろ」

「海軍の補給艦もねー。けど、軍需生産って財閥だから、叩かれるでしょう。地方に金をばら撒かないと、恨まれるわよ」

「それは俺達が言っても仕方ない事だ」

「……そうなんだけど」

 お父様な祖父との朝のいつもの軽快なトークだけど、今回は私も先手を打った。
 新聞への寄稿で『軍備が大切な事もよく分かります。ですが今は、困窮する国民を救う事こそがお国の為ではないでしょうか』と、小学生らしい文章で目一杯書いてやった。
 これで国民は私の味方だ。献納が一回きりじゃなかったから、もはや手放しの大絶賛。感謝のお手紙程度なら可愛いもの、国士の皆様勢揃いでの鳳の本邸前での万歳三唱、提灯行列、果ては鳳の本邸の近くを走る市電を花電車にしようとしたらしい。
 対する陸海軍は、今回も「立ち上がった国民」に取り囲まれたくはないので、内心は不満タラタラだろうけど、だんまりを決め込んでいる。

 財閥の皆さんは、ついに現実のものとなった大規模テロ計画に肝が冷えたらしく、鳳には全然及ばないながらも政府への献金を実施。合わせて1000万円ほどが、国庫に納められた。
 それでも、当然とばかりに鳳に文句を言ってきたけど、「本当は、三倍の額を献納しようかと思っていましたの。けれど、周りに止められましたの」と最上級の笑顔で言って差し上げたら、全員すごすごと帰って行った。
 けど、それだと可哀想だし、額が少ないと非難されてテロにでもなったら事なので、可能な限りのフォローを国民向けにしておいた。
 何より国民の過度の財閥敵視は、私にとっても鳳にとってもよろしくはない。

 そしてその日の夕方、私のお兄様の龍也叔父様が鳳の本邸にやってきた。もうテロの危険は去ったと言う事で、護衛がわりの軍人さんを連れてはいない。
 また、セバスチャンと時田も来る。
 本年度予算の概案が出揃ったので、それを検討して鳳の事業計画に反映させる為だ。そこにお兄様が来ているのは、陸海軍の軍備計画を持ってきてくれたからだった。
 ただ、全員明日もあるので、夕食とその後のお茶もしくは軽いお酒の席で軽く話し合う程度を予定している。

「これで大体は見えてきたってところだな。どうだ、時田、セバスチャン」

「はい。概ね予想通りかと」

「そうですね。ですが、日本の国家財政は、いつ見ても軍事費が充実していますね。この時勢でこれだけ国債を発行するなら、もっと合理的で効果的な公共事業が出来ると言うのに」

 誰もが言わなかった事を、アメリカ人のセバスチャンがアメリカ基準で指摘する。
 何しろアメリカは、不況対策が甘くて大失敗した自由放任主義な政府なだけでなく、軍事費もいつも以上にギリギリに削っている。軍縮条約もあるけど、艦隊整備計画が遅れていると言う噂が流れてきている。
 それでも、日本人たちは苦笑するしかない。

「耳が痛い、と言いたいところだけど、アメリカと違って日本にはソビエト連邦ロシアという仮想敵がすぐ隣にいるからね。それに海軍も、列強外交の為にも手は抜けない」

「はい。理解はしております。逆に日本の予算規模で、よくロシア人を抑えられていると感じ入るほどです。満州に行って、なぜ日本が満州にこだわるのかを痛感しました」

「過分な言葉だね。それに良い事を聞いた」

「何が、でしょうか?」

「日本の軍備に文句を言う者がいれば、満州に連れて行けば納得してもらいやすい、と言う事だよ」

 そう言ってお兄様が、私ではなくセバスチャンにニッコリ笑顔。そうするとセバスチャン、左手で後頭部をカキカキ。けど、ゲイだから照れているんじゃなくて、セバスチャンなりの感情表現だ。

「参考になって何よりです。しかし、満州は広いですね。湯水のように予算を吸い込んでいく。これでは、陸軍が目指す機械化も、なかなか進みませんね」

「本年度は仕方ない。来年以降に期待だな。そうだ玲子、今年中に新型の装甲車両の試作が小松で完成するよ」

「えっ、もう出来るんですか?」

 話題が変わったけど、まだ私が目を通していない話だ。陸軍が小松にコッソリさせているから、鳳グループ内でもツッコンで聞かない限り教えてもらえない類の情報だからだろう。

「ああ。海外の技術を応用した高速車両だと聞いている。並みの自動車より速いと言う報告だから、装甲車か軽戦車の類だろう」

「えーっと、それって虎三郎が関わっていますか?」

「ああ、そうだ。もう解禁しても良いって聞いたから、こうして話してもいるよ。なんでも、いわくありな技術らしい。玲子は知っているんだね」

「その、いわくありの話だけなら。ライセンスとか大丈夫ですか?」

「少し変えてもあるから、同じ技術に着想を得た独自開発という事になっているそうだ。陸軍での正式採用は、うまく行けば来年になるだろう」

「それなら構いません。けど、装甲車となると、また高い買い物になりますね」

「陸軍の装甲車なんざ、海軍の軍艦に比べたらカスみたいな値段だぞ。あのブルジョワどもめ」

 とは、お父様な祖父のきついツッコミ。どうも、去年の川西飛行機の一件で、海軍に対して冷静な判断こそするけど、ちょっと気に入らないご様子だ。
 けど、川西飛行機の一件は、お父様が激怒した振りをして海軍の担当者、なんと山本五十六航空本部長を呼びつけ、「穏便に」解決したそうだ。その資料に目は通してあるけど、そのうち話を聞く事もあるだろう。

「そのブルジョアさんの概算は?」

「こちらに」

「ありがとう、時田。……ねえ、なんで海軍は、今年もこんなにお金使うの? どこに金の湧き出るツボを持っているの?」

 渡された『@計画』とやらは、去年の資料でも見た。そして同じ金額と計画が書いてある上に、潜水母艦と艦隊随伴用という高速タンカーが追加されている。

「玲子お嬢様、それは三カ年計画が継続中というだけで御座います」

 時田はいつも私の先を読んでくれる。

「ああ、そっか、そうだったわね。焦ったあ。……それにしても軍艦ってお金かかるのね。巡洋艦1隻で戦車何両作れるのかしら。これって適正なの?」

「はい。海軍は、軍縮条約の後の諸問題での負い目が御座いますので、かなり控えているようですな」

「それでも、その数字より2割ほど多く要求してはいたけどね」

 時田の言葉とは違い、肩をすくめるのはお兄様。
 けど、私にもその辺りの駆け引きは分かるつもりだ。

「最初に高い要求を出して本当に欲しいところを得る、ってのは交渉の基本だもんね」

「まあそうだが、軍の場合は自分達の中でギリギリ以上削ったものを求めているのに、さらに政府や大蔵省に削られているから、そうでもないぞ。だから毎年不満を溜めるんだよ」

「えっ? なにそれ、交渉術じゃないの? 軍って、ただの駄々っ子なの?」

 お兄様とお父様な祖父の続けざまの言葉に、私の常識が崩れていく。知らなかったとはいえ、軍の非常識さを見る思いだ。
 しかもお兄様の顔に浮かぶのは苦笑い。

(そりゃあ国債増発なんて見たら、目の色変えるわけだ。けど、私は悪くない)

 計画上なので、まだ艦艇の名前が書かれていない紙面を見つつ、軍人への認識を少し変えるべきだと思った。
 でないと、いつか軍に足を掬われると感じたからだ。

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時局匡救事業(じきょくきょうきゅうじぎょう):
1932年(昭和7年)から1934年(昭和9年)にかけて、日本で実施された景気対策を目的とする公共事業。
困窮する農村救済などが主な目的。
3年計画で総額合計8億6,487万円が投入された。
ただし、一部は兵器生産による景気刺激という目的で、軍にも予算が割かれている。

国家予算:
1932年度で、史実の二割り増し程度。

アメリカの国家予算と海軍軍備:
史実と同じ。30年代前半のアメリカ陸海軍は、国家予算全体から見ると可哀想になる予算しかもらってない。

@計画 :
去年度で忘れていたので、ここで軽く紹介。
正式名称は第一次補充計画。海軍の海軍軍備計画のこと。
この世界では、史実の約二割り増しの予算で計画が組まれている。
純粋に艦艇用だけだと、4000万円分ほど史実より沢山お買い物ができる。

しかし、巡洋艦と潜水艦は軍縮条約の縛りが強い。駆逐艦も36年末まで起工できる数量は限られている。
だから条約対象外の艦船を作るか、航空隊を拡充するしかない。水雷艇の初期要求数の辺りは実現するだろう。
なおこの計画か、この一つ前の計画辺りから、北樺太の油田と航路防衛の為に、史実の海防艦に当たる艦艇が登場していると想定。
なお『最上型二等巡洋艦』は、この世界の軍縮条約に従って史実より100トン重く設計されている。(誤差範囲だが)

潜水母艦と艦隊随伴用という高速タンカー:
史実前倒しの軽空母への改装前提の潜水母艦『大鯨』と給油艦『剱崎』『高崎』に当たる。
景気拡大に伴い予算も拡大しているので、来年も似たような艦艇をさらに計画するだろう。

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