■「悪役令嬢の十五年戦争」
■ 242 「変化していく大陸情勢」
「いや、なんでそうなるのよ」
報告を見た私の第一声がそれだった。 もう、ツッコミしかない。 何を突っ込んでいるかと言えば、大陸情勢。いきなり政府が二つも増えた。まるで5年くらいに逆戻りした感想すら抱きそうになる。
それもこれも、1932年3月1日、蒋介石率いる国民党(右派)が、『南京臨時政府』を宣言した。同日、広州にて陳済棠率いる国民党(左派)が『広州臨時政府』を宣言したからだ。 やっている事自体は、要するに満州臨時政府の真似に過ぎない。しかも私の前世の歴史で、満州国が建国宣言した日とか何かの悪い冗談にすら思える。
蒋介石は、北京に攻め上がるだけの力がないから、まずは満州と同じように手の届く範囲で地固めしようという考えと、あわよくば張作霖の力を弱め、ゆくゆくは北京の政府を倒して「臨時」の文字を取る気だろう。 南京の旗の方も、黄色地の青天白日旗だ。これなら一応、孫文の旗じゃないと言い張れる。
さらについでとばかりに、中国共産党が山奥で『中華ソビエト』を設立させた。もう、誰も彼もが好き勝手している。 そして好き勝手されている中華民国政府である張作霖政府だけど、満州事変が収まってからは流石に不味いと考えたらしく軍備増強に力を注いでいる。
けどそれは、列強から借款して、列強の武器を買うというもの。そしてお金がないので、主に資源とのバーター取引だ。その上、世界中が不況下で関税を大きく引き上げているのに、人質に取られた状態で上げる事が出来ないでいる。 当然、中華の民衆の列強と張作霖へのヘイトは溜まる一方だけど、張作霖政府は他の政府を潰すための軍備増強ができるので満足している。
ちなみに、一番借款して一番武器を買わせる契約となったのは、張作霖と昵懇(じっこん)の日本。そこは列強も、日本に文句を言い辛かった。一方の日本政府も、国内の右寄りの人たちの声を抑えて、他を締め出したりしなかった。 その次が、中華で大きなシェアを持つイギリス。さらにアメリカ、フランス、イタリアも首を突っ込んでいる。清朝末期の頃の様に、みんなで仲良くチャイナというパイを食べている形だ。 そして張作霖に金と武器が集まるので、華北のほぼ全部と華中の北部の軍閥の皆さんのかなりが、中華民国政府へと尻尾を振った。
ハブられたのは、出遅れたドイツ。20年台半ばに広州の方から国民党と関係を結んでいた事から、張作霖に嫌われた形だ。また現時点では政権が混乱しているから、大きな政治的動きが出来なかったのも大きい。 しかも今回、ドイツの顧客だった国民党は完全に二つに割れてしまっていた。
「けど、南京国民政府とかにしないのね」
誰かのツッコミが入る前に言葉を続けたら、これには反応があった。 場所は鳳の本邸の勉強部屋。 今日の家庭教師はトリア(とリズ)なので、珍しく全員集合。もうすぐ小学校も卒業だからと誘った勝次郎くんもいるし、英語学習のために私の側近候補の子供達も全員同席させている。 その授業前に、簡単な報告を受けた時だった。 ツッコミは、いつもの突撃隊長な龍一くん。お兄様から薫陶も受けているから、世相にもかなり詳しくなっている。
「国民党の政府だから南京国民政府なのか?」
「その方が自然じゃない?」
「そうかもしれないけど、じゃあ広州の方は?」
「前と同じ広州国民政府で良いんじゃない? それと、メンツはこっちの方が揃っているわよ。孫文の息子の孫科に、国民党左派の汪精衛。他にも数名。面積だけなら支配領域も広いし」
「だが、英米から資金援助のある蒋介石の方が有利だろ」
そう言うのは勝次郎くん。最近は彼も色々と勉強している。頑張る少年は実に美しい。 それはともかく、勝次郎くんが参入した事で俄かに子供会議となった。トリアは、世相の分からない子達を別の一角に集めて、さっさと授業を開始しようとしている。 瑤子ちゃんまで行ってしまうのは、ちょっと悲しい。逆に虎士郎くんが珍しく残っている。側近候補だと、最近色々勉強している輝男くんと、少し離れた場所にお芳ちゃんが相変わらずの一見だらけた格好で椅子に腰掛けている。
お芳ちゃんをゲーム主人公に見立てれば、ゲーム初期の議論の場面のようだ。部屋もちょうどこんな感じ。あと4年ほど先の光景を彷彿とさせている。 ただ、話している内容が、色恋沙汰とは程遠いなんとも俗な話題なので、現実に引き戻されてしまう。 そして私が半ば傍観者となっている間にも、玄太郎くんがメガネをクイッとさせて参戦し、輝男くんまでが意見を求められて受け答えしている。受動的なのが輝男くんらしい。 虎士郎くんはお芳ちゃん共々特に会話には加わらないけど、少なくとも他のこともせずにみんなの様子を見ている。
「虎士郎くんは、こんな話退屈じゃない?」
「ううん、そんな事ないよ。満州での一件のせいか、音楽の先生の一人が軍から歌を頼まれたんだ。だからボクも、多少は知っておいた方が今後役立つかなあって」
天使の微笑みだけど、言っている内容が悲しい。 世相は不景気なこと以外は明るいし普通に見えるけど、確実に時代が変化しつつあることを、一番平和じゃなきゃいけない音楽の世界から聞く事になるとは。 私としては、昨日2月29日にリットン調査団が来ない事で一安心していたところなのに、日本の情勢が私の前世の歴史より確実にマシなものになっているのに、それでも世相が変化し始めているのを見せつけられた思いだ。
先月頭の『血盟団』だって、国外逃亡に成功した数名以外は、おそらく全員が逮捕された。しかも主犯格にして思想的リーダーの井上日召を、テロの道に誘った藤井斉という海軍将校にまで捜査の手が伸び、憲兵が海軍司法警察官の役割を果たす形で取り調べ中という話まで舞い込んできている。 この藤井 斉(ひとし)、私の前世の歴史でクーデターを起こそうとした人物で、海軍のパイロットなのにかなり危ない思想の持ち主だ。 これでうまくいけば『五・一五事件』も未発になる。 それ以前に、『血盟団』は完全に瓦解したので、井上準之助以外の暗殺は阻止されたと見て良い筈だ。まだ完全に安心はできないけど、ホッと一息ついたところで大陸での新たな動きだった。
(何でこう、大恐慌以後はネガティブなイベントだらけなわけ? こっちは、産業拡大の仕事で忙しいのに)
「どうした玲子、不満そうだな? みんなの話が気に入らないのか?」
「ううん。情勢そのものが気に入らないだけよ。玄太郎くんは気にならないの?」
「いや、僕はまだ龍一や勝次郎ほど世相は勉強していないから、言えることがないだけだ。それに前も言ったかもしれないけど、世相よりまずは自身の勉強だ。帝大首席はそんなに甘くはないからな」
「フフッ、玄太郎くんが一番健全ね」
「そうかな? だがそれだと、玲子が一番不健全という事になるぞ」
「その通りよ。せめて商売だけに専念したいわ」
「……いや、その考えもおかしい。まだ小学生だろ」
「頭は大人並よ。さ、そろそろ雑談は終わって、トリア先生の英語の授業を受けましょう。そのために、雁首そろえて来たんでしょ」
「それもそうだな。行くか」
「それで、今の大陸ってどうなってるの?」
勉強の後、虎士郎くんのごもっともな質問。もともと清朝が倒れて以後は混沌としているけど、満州も事実上切り離された事で、混沌具合はさらに増したと言える。
「お芳ちゃん」
「えっ? 私ですか。……では、簡単に説明させて頂きます」
トリア(とリズ)の生の英語を学ぶ授業が終わった後、それぞれ帰る前の一時の子供達の井戸端会議。 何が始まるのかと、側近の下っ端になる子達まで残っている。 そんな中、私が指名したお芳ちゃんが、仕方なさそうに移動式の黒板の方へと移動して、器用に中華民国のかなり簡易版な地図を手慣れた感じで描いていく。位置関係が分かれば良いので大雑把だけど、かえって分かりやすい。
「清朝崩壊以後は、内陸東部の新疆ウイグルなどとも呼ばれる東トルキスタン地域とチベット地域が、実質的に大陸中央から離脱した状態です。次に、外蒙古はソ連が最初に切り離しました」
「外蒙古以外、ソ連や英国の傀儡じゃないのか?」
「ソ連はまだそこまで国力を海外に発揮できません。英国はインドからチベットへの影響は強めつつありますが、世界最大のヒマラヤ山脈という障害があるので、影響と言ってもごく僅かです」
勝次郎くんの声にも丁寧に答える。なんだか、社会科の授業でも聞いている気になる。けど、社会の授業でも高校くらい行かないと、ここまでは教えないだろう。
「そして1928年に、張作霖率いる北洋軍閥が大陸中原を制圧。これで一旦は、中華民国は統一された事になります。ですが、先に言ったように内陸部への影響力はほぼありません」
「そこまでは分かるんだが、満州事変は?」
次の言葉は玄太郎くん。世相は必要ないと言いつつも気になるご様子だ。こう言う所はまだ子供っぽくて可愛い。
「はい。満州党が立ち上がる原因となった中ソ紛争で、早くも張作霖の支配は緩みました。だからこそ満州党が成立し、そして清朝最後の皇帝溥儀を擁立した満州臨時政府が出来ました」
そこで言葉を切って周囲を見渡すけど、特に質問や言葉がないのを確認すると続けた。
「そして今回、南京臨時政府と広州臨時政府の成立が宣言され、恐らくその境界線の内陸部辺りに共産党の拠点があると考えられます」
「つまり大陸の東部沿岸は、北から順に、満州、北京、南京、共産党、広州の5つが並んでいるって事か。ちょうど国旗と同じ五色旗だな」
そう龍一くんがまとめる。ただ、随分と皮肉の効いた論評なので、自覚するほど大きく苦笑してしまう。
「なんだよ玲子?」
「いや、まあ良いんだけど、当事者達が今の言葉を聞いたら、複雑な表情をしそうだなあって思っただけ。五色旗の意味知ってる?」
「いや、詳しくは。確か五行思想と5つの民族だっけ?」
「それで正解。けど現状は、赤は共産党になるだろうから、漢族はさらに3つに分かれているわよ」
「そっか、じゃあもう3つ足して8色旗だな。確か清朝の時代に八旗ってあっだろ」
子供は無邪気で残酷だ。さらに苦笑してしまう。
「あれは4色で、それぞれの色に縁をつけて倍の8つにしただけよ」
「玲子は博識だな。で、今回二つの政府が出来た事への総評は?」
今度は勝次郎くんだ。こういう時は自分からまとめに向かう事が多いけど、逆に他者にまとめさせる事もある。 こういう所は、経営学や帝王学も学んでいるんだろうなあと思わせる。
「そうねえ、満州臨時政府が目立たなくなったんじゃない?」
「それだけか?」
「それで十分でしょ。それに日本だけが得するのよ。まあ、当面だろうけど」
「なるほど、それが総評という事か」
私に聞いた勝次郎くんじゃなくて、龍一くんが妙に納得しているのが印象的だった。
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1932年3月1日: 史実では、満州国が独立宣言をした日。
陳済棠 (ちん さいとう): 中華民国南部(広州あたり)を支配した軍閥の一人。 史実では、日中戦争勃発まで蒋介石と対立。
藤井斉 (ふじい ひとし): 五・一五事件を起こした海軍青年士官の指導者。 しかし第一次上海事変で、航空戦で戦死。 彼の遺志を継いだ海軍将校らが五・一五事件を起こす。
五色旗: 赤=漢族、黄=満州族、青=モンゴル族、白=ウイグル族、黒=チベット族の5つの民族の共生という意味や、中国古来から伝わる五行思想を反映したとも言われている。