■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  341 「1934年新年の概況」
 

「皆様、新年明けましておめでとうございます」

「おう、おめでとう玲子」

「明けましておめでとう、玲子ちゃん」

「おめでとう、玲子さん。元旦とはいえ、お寝坊さんね」

「「新年明けましておめでとうございます。お嬢様」」

 元旦、シズ達の新年の挨拶を受け、それなりの格好に着替えてから居間へ行くと、既に全員揃っていた。
 私のお父様にして祖父の鳳麒一郎、本邸の主人に当たる善吉お叔父さんと佳子(けいこ)大叔母様、本館住まいの側近候補3人、そして珍しく瑞子(たまこ)お母様(祖母)の姿もあった。

 まだ、鳳の本邸内の他の建物から、本館にやって来ている者はいない。それに、毎年恒例の屋敷の庭の片隅にある小さなお社へのお参りで、鳳の子供達と側近候補達との新年の挨拶は終わっている。
 居間でも側近候補達三人が挨拶したのは、当主など一族の大人達が居るので改めてという程度だ。

 そして元旦だから、使用人の数は最小限。おせち料理をつつき、お雑煮を食べ、そして大人はお酒もいただいているって感じ。
 2年前の春先に大きな引越しがあったから、賑やかな元旦も2年目となると慣れてくる。そして去年も感じたけど、ようやくお正月らしいと思える家になったと感じる情景だ。

「突っ立ってないで、こっちに来い。雑煮でも一緒に食おう」

「はい、お父様」

 1934年が明けた。
 なんと1月1日に、東京宝塚劇場が開場した。新年早々、実にめでたい。そして、これでようやく宝塚に通う事ができる。今度ワンさんも誘ってみよう。
 
 そして新年早々から明るいニュースがあるように、日本の景気は絶好調。
 1933年度の経済成長率は、10%を超えるとの予測が既に鳳総研など各所から出ている。私の前世の歴史で、戦前に戦時でもないのに二桁成長という話は聞いた事がないので、かなり驚かされた。

 そして好景気を証明するように、日本の世相は沸いていて明るい。農村も悲壮感まではない。去年の秋に繭がさらに暴落した養蚕農家と生糸産業は大変だけど、国庫の予備費での救済と支援も実施されている。
 そして政府の財源の予備費を景気対策に回せるという事は、余計な軍事の出費が無かったという事になる。
 その証拠に、満州は安定している。上海では戦火の一つも起きていない。それなのに陸海軍は、積極財政の恩恵を受けてホクホク顔だ。

 外交も安定している。日本は国連に属したままだし、しかも常任理事国のまま。
 満州は自治のまま実利だけ日本が得る形を、関東軍と右翼以外は受け入れている。大陸情勢が、日本に否定的ではないおかげだろう。『満蒙は日本の生命線』などというプロパガンダも、声高には出てきていない。
 日本陸軍は大人しいし、満州以外の大陸は列強が手に手を取って搾取しているから、日本だけが不利益を被る可能性は低い。

 ただし、蒋介石が反日に動く可能性が高まっているので、要注意だ。
 それもドイツ、ソ連以外の列強で、張作霖の中華民国政府へのテコ入れが進んでいるから、もうすぐ蒋介石が平伏するか、逆に激突する流れになるだろうと言われていた。
 そうなれば、蒋介石は日本を叩く余裕もなくなるだろう。
 蒋介石には、ドイツが借款による軍事支援と輸出をしているのが気になるけど、国連からも脱退したドイツはソ連と同じく世界の列強全体で当たる相手だ。

 世界情勢で気になるのは、やはりブロック経済と関税障壁。日本は大幅な円の切り下げで対抗しているけど、ソーシャルダンピングだとアメリカのルーズベルト政権が非難している。
 日本側は、アメリカの高すぎる関税障壁が最大の問題だと論陣を張っているけど、話は平行線だ。けど、切れ者の宇垣外相が、頑張ってくれている。

 ただアメリカと日本の貿易の話は、30年下半期から33年上半期に鳳が常識を疑うほどのお買い物をした影響で、数字の上では日本の膨大な貿易赤字が計上されている。
 実際は、私がアメリカ株で儲けたアメリカに置いてあるドルをアメリカで消費して、買ったものを日本に持ち込んでいるのだけど、統計数字の上ではそうなってしまう。

 事実鳳は、買い物代金のうちの約1割を、関税で日本に納税している。円・ドルレートが1ドル約3円だから、総額で4億円以上の納税額となり、関係省庁の課員・係員を卒倒させてしまった。まだ33年度分が待っているというのに、気の早い事だ。

 それに、アメリカからの買い物は、今後も規模を大きく縮小するけど続く予定だ。そしてその為の軍資金も、アメリカでまた育ちつつある。
 32年7月に底値になったダウ・インデックスは、『ニューディール』政策の本格始動などで、底値の40ドル台から100ドル前後にまで回復した。

 そして底値で大規模なダウの買い支えに動いたフェニックス・ファンドは、嗜み程度のレバレッジを含めて既に約10億ドルの時価総額を誇っている。
 だからその一部を売買するか、もしくは担保にする事で、ドルの調達は容易だ。

 そして鳳グループは、フェニックス・ファンドなどが持つ海外資産約10億ドル、日本の国家予算に匹敵する金の力を原動力として、さらに総額10億ドル以上で買い付けた膨大な量と規模の工場や製品で、日本経済を強く牽引している。
 10年前には考えられない状況であり、5年前ですら想像できない状態だ。

 稼働中もしくは建設中の複数の巨大製鉄所、日本だと未曾有の規模の石油化学コンビナート、フォード式のトラック工場、重機工場、精密機械工場、工作機械工場、その他諸々。満州や豪州の鉱山利権。さらに政府保有を除いて、日本の7割以上を占める石油産業。

 他にも、建築用のコンクリが足りなさすぎるので、結局自前で作った巨大なセメント工場。余剰労働力を吸収し、あっという間に巨体となった巨大な土木建設企業群。
 加えて、巨大な資金力により巨大化した既存の鳳、鈴木の企業群と、巨大な資金により吸収合併もしくは買収した企業達。
 それらにより、もはや鳳グループは日本では磐石と言える巨大財閥となっている。

 そんな状態で、私が前世の歴史で覚えていて注意するべきは、『帝人事件』になるのだろう。けれども帝人は、鈴木商店の破綻がないから、鳳グループの鈴木傘下のまま。確か前世の歴史では、金子さんが帝人を取り戻そうと動いたのが原因だから、疑惑が起きようがない。
 ただ、政治の動きは徐々に流動的になっている。

 1931年12月発足した犬養毅政権は、発足して丸2年を超えた。この為、もともと政友会としては外様の犬養毅は、政友会内でもう十分に首相をしたという雰囲気がある。政治家は嫉妬深いので、こういう雰囲気は重要だ。
 対する民政党は、政友会の亀裂を見て政権奪回の機会を伺っている。

 そして最後の元老西園寺公望は、政党政治、議会政治を求めており、例え有力な政治家、政治力の強い人物であっても、政党政治家ではない首相に強く否定的だ。
 そうした状態なので、政友会内での亀裂が深まれば、次の総選挙になるだろうと言う声が、犬養政権成立2年を超えた去年12月くらいから囁(ささや)かれ始めている。

 総理の椅子に近いと言われているのは、政友会の有力者の床次竹二郎と鈴木喜三郎。
 床次は、いまひとつ腰が定まらないと言われるけど、犬養の後の政友会総裁はほぼ確定と見られている。対する鈴木は、西園寺公からその政治姿勢を嫌われている。

 同様に、鈴木の義弟の鳩山一郎も、政治姿勢から政友会内はともかく、政治の中枢からは遠ざけられている。ただしこれは二人に限らず、国家主義、右翼、軍に近い、反英米的などの政治家も、中枢から遠ざけられる傾向が強い。
 そして政党自体の規模が大きい事もあって、内部対立の傾向が強い。それでも分裂にまで至っていないのは、政友会の元老と言われるようになっていた原敬の影響が極めて大きい。
 つい最近もメイド喫茶で抹茶スイーツを食ってたと聞いたけど、もはや政界の妖怪状態だ。

 対する民政党が政権を取った場合の総理候補は、若槻礼次郎と町田忠治。民政党は、体調から政治家を引退した濱口雄幸はともかく、加藤高明を実質的な影の親分として若槻礼次郎らも健在なので、一定程度の清廉さがあり政党としての結束も高い。

 政党以外だと、去年、貴族院議長となった近衛文麿。前世の歴史を知っていると悪い印象しかないけど、確かに各方面からの人気も評価も高い。
 リベラル気取りで左寄りというか統制経済を肯定するので、私のバッドフラグを立てるような連中が群がっているとも聞く。

 また、枢密院副議長の平沼騏一郎の声もある。と言うか、この人も総理なりたがりな人だ。
 けど、保守的と言うか国粋主義で、他の政治思想や政体を全部嫌っているから、西園寺公の評価が低い。逆にこの人も、西園寺公と政友会を嫌っている。当然、近衛文麿とは天敵状態だ。
 それと、総理になりたがっている人と言う点では、現外務大臣の宇垣一成が総理の椅子にかなり近づいたと言われている。

 海軍は、連続したやらかしのせいで、政治家として有能な人はいるけど候補からは敢えて外されている。岡田啓介も斉藤実も総理の目はなさそうだから、私の世界での『二・二六事件』がそのまま起きても、ターゲットにはならなさそうだ。

 総理の目がないのは、宇垣さんが外相の影響で大臣経験がまだない広田弘毅も、総理になるのが遅れるか最悪なれないんじゃないかと私は見ている。
 そしてこの人は吉田茂と同期だけど、逆に吉田茂が最近活動を活発化している。だから私の視点では、吉田茂の戦前での台頭の可能性がチラつき始めている。
 そんな色々を考えると、日本の政治の歴史はかなり違っていると言う前提で動かないといけなさそうだ。

 一方陸軍は、依然として実務職を牛耳る一夕会が、陸軍大臣にした荒木貞夫だけでなく、真崎甚三郎、林銑十郎辺りも推していると言われる。
 ただ一夕会は、外交と政治の両方を宇垣外務大臣に抑え込まれた形で、陸軍出身の総理という可能性はかなり低いとみられている。そもそも、退役した宇垣一成はともかく、陸軍軍人が総理になる事に西園寺公が否定的だ。

 もっとも、そうした次期総理の下馬評は、まだ本当に予想の段階でしかない。
 景気は絶好調だし、次の内閣交代では高橋是清は本当に引退するだろうから、この春の予算成立まで政治の世界が騒がしくなる可能性は誰にとっても非常に低いだろう。

 今年の少なくとも前半は、日本国内は穏やかに過ぎそうだ。

 
「玲子、新聞なんか、元旦から読むなよ。せめて正月くらい、正月らしくしろ」

「ハァイ。まあ、明日は新作の振袖見せてあげるから、今日くらい良いでしょう」

「いや、今日だからって、今言わなかったか?」

「ハァイ。あとでねー」

 再度いい加減に生返事をしたら、お父様な祖父の声が怪訝なものになる。

「お前、反抗期じゃないか? まあ、それが普通なんだろうが、華族の女子がそれじゃあ外にも出せんだろ」

「外ではきちんと取り繕いますから問題ないですわ、お父様」

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『帝人事件』:
帝国人造絹糸会社(帝人)の株式売買をめぐる大疑獄事件。
当時の斎藤内閣がこれで総辞職。
旧鈴木商店の会社なので、金子直吉が方々に働きかけて奪い返そうとした事が遠因。
ただし、平沼騏一郎が斎藤内閣を倒そうとした陰謀説もある。
この為か、起訴された者は全員無罪。

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