■太陽帝国「楽屋裏」 その1 モンゴルのアイヌ支配
まず第一の転換点は、第一次元寇となった文永の役(1274年)です。最近(2006年現在)では研究も進み、「神風」が吹かなかったのが定説となっているようです。 しかも元軍は、国家同士としての威力偵察どころか示威行動、単なる外交の延長線上として自らの武力を見せつけるために、日本本土に侵攻したとされる事が多くなりました。元軍の行動を裏付ける理由として、弓矢など消耗品の準備量が一昼夜程度の戦闘しか考慮していないほど少ない点が挙げられています。 元皇帝クビライが、1275年と1279年に日本に服属しろという主旨の使者を送っている事からも、外交の延長線上の攻撃を行ったと見るのが妥当でしょう。 ですが日本がクビライの外交を無視した事と(愚かにも使者を殺害すらしている)、南宋が滅亡した事から情勢が変化します。 弘安の役(1281年)の勃発です。 ここで元帝国は、降したばかりの南宋の勢力減退も狙って、4000隻以上の大艦隊と14万人もの侵攻部隊(うち南宋の屯田兵10万人)を日本に送り込んでいます。 何をするにしても、チャイナが絡むとスケールがデカイ。こればかりは、他が真似の出来ることではありません。 ですが、防塁という名の沿岸防衛網に寄る日本側の大軍によって、朝鮮半島から派遣された前衛部隊が本格的上陸を阻止されます。遅れに遅れて到着したばかりの南宋軍は、大型台風、文字通りの「神風」によって大船団と共に、到着した当日夜のうちに勝手に自滅。その後の日本側の追撃もあって、14万人もの大侵攻部隊は壊滅的打撃を受けています。 世界史上においてもドラマティックな事象でしょう。 「神風」を超兵器などにしてしまえば、そのままプロットとしてジャパニメーションに使えそうなほどです(笑) ですが、以上が「元寇」の戦術面での概要です。 そして私の誤解が、大きなターニングポイントを作り上げてしまいます。いや、誤解などでは断じてありません。ここは、歴史の片隅でチョットした時間犯罪を行ってしまいましょう(笑)
文永の役の少し前、とある日本人が大陸方面にて遭難。モンゴルに助けられ、その後対日政策のブレーンとなったのです。この人物は、実は時間犯罪者だったかもしれません。しかし、これが始まりなのです。 この変化により元皇帝クビライは、日本と日本人に関する詳細な情報を入手し、対策を立てます。 結論は、一発ガツンとする方が日本人は言うことを聞きやすい。 シーボルトの手記を見たペリーと同じ結論です。 かくして1274年(文永の役)の侵攻船団は、史実よりもう少し攻撃的な編成、準備を行います。 また、陸路侵攻の可能性を模索して、樺太との陸続きだと思われていたアムール川からの攻撃の可能性も模索します。 一人の人間の運命が歴史を動かすのは「よくある事」。あとは、おおむねオフィシャル上の流れになる筈です。
では次に、当時のアイヌの状態を見てみましょう。 まずは当時のアイヌの総人口ですが、江戸末期の北海道(アイヌモショリ)主要部で約2万人が確認されています。アイヌは大規模な農業はしていませんから、最大でも総人口は3〜4万人程度でしょう。採取、狩猟民族なら、土地の規模、状態から割り出せば妥当な数字です。収穫率の高い穀物栽培を集約的に行わない限り、大人口は出現しません。 もっとも鎌倉時代のアイヌは、稗や粟の小規模な栽培を始めています。生き延びた源義経が、アイヌに農業を伝えたという伝説も存在するそうです。農業はシヴィラゼーション上見逃せないファクターですが、アイヌの農業は初歩的な自生作物による農業であり、農耕と呼びうる集約的なものではなかったようです。 しかし安定した狩猟、採取環境が限定的な定住化を呼び込み、それが農業へと進み始めていたとすると無視できない要素です。 また、東シベリアから環オホーツク圏に広がる独特の模様を持つ衣服や擦紋土器を作り、日本などから鉄器も手に入れている頃です。 有名なイオマンテ(熊送り祭)やユーカラ(民謡?)などはまだ未完成でしたが、ゆるやかな時の流れの中に生きているので、文明レベルは江戸時代と大きな違いはありません。縄文時代からの暮らしから大きく出ていない古代民族の末裔が当時のアイヌの筈という事です。最大の証拠に、アイヌは口承文化しか持たず、ついに独自の文字を持つことは無かった点が挙げられるでしょう。 もちろん鎌倉時代あたりでファンタジー要素を強くしたとしても、彼らは文字を必要としていません。古代民族の特徴である口承文化が大きく発展していますから、すべてを語り伝えれば良いのです。まさにウタリの民といえるでしょう。 ですが、文字と農耕は文明の進歩に欠かせないヘビーファクターです。農耕なくして人の社会を定住化に導き、村から国家へと至る集団社会を建設していくなど夢物語以前の話しです。集約的農耕こそが分業と組織を作り上げ、人の集団を国家へと導いていくのです。場合によっては、集約的放牧や漁業でもよいでしょう。事実、モンゴルは放牧民族で、優れた組織社会を作り上げています。 というわけで、文永の役(1274年)で日本に対する軍事的政治行動が失敗したモンゴル軍が、冬に凍った海を通って樺太に来ていただきます。 もちろん中華地域の優れた文明を携えて。
史実でも、当時樺太島北部に住んでいたギリヤーク(民族)や樺太アイヌの一部が、少数のモンゴル軍と戦闘を行ったという記録があります。モンゴルの侵攻に対して、モショリ(北海道)のアイヌが限定的に結束したという言い伝えもあるようです。 戦闘そのものは、少数のモンゴル軍が樺太内で撃退されたとあります。おそらくは、狭いとはいえ海を挟んだ向こうにある原生林ばかりの寒い土地(樺太)への興味が薄かったと見るべきでしょうか。 口承ばかりで記録そのものは曖昧で諸説あるのですが、モンゴルがアムール川の富を得ようとして侵攻したが、遠くに行きすぎると費用対効果が低いと判断したと見るべきでしょうか。 しかし、この世界のクビライは、蝦夷(樺太)が邪魔な日本へとつながっている事を知っています。しかもモンゴル人ですから、 「簡単に橋頭堡を築ける場所から、正統法で陸づたいでいこうぜ」となるのも自然な流れでしょう。 軍団規模も当初は原住民族が相手。たいした数は必要ありません。それまでの侵略の経験、原住民の人口と人口密度から、大規模な組織的抵抗はあり得ないのは分かり切っているからです。 狩猟や採取しかしていない民族では、すべて結束しても総数で数万人。まともに戦える人数は、最大でその十分の一程度。絶頂期にあるモンゴルにとっては、物の数ではありません。数千人程度の数の兵力なら、当時の元帝国なら何の問題もなく出すことができるでしょう。 かくして、ツングース系のアイヌと対立する対族を水先案内人にして、モンゴル軍がモショリの深き森へと進んでいきます。
途中、樺太と北海道を隔てる宗谷海峡にぶつかりますが、この時点でも抵抗はあってなきがごとしです。樺太の先にある北海道には、文明的に遅れたアイヌしかいません。馬を知らない後進民族が相手です。平地での蹂躙はわけないでしょう。 もちろん海を渡るための軍船調達には苦労があるでしょうが、一年も我慢してアムール川などからも持ち込めば、抵抗のない場所への上陸や橋頭堡の確保も容易なはずです。加えて宗谷海峡は、それほど波の荒い海峡ではありません。渡洋侵攻も容易でしょう。 しかも陸路侵攻でのモンゴル軍は、補給物資として後方から必要なものは、他国の軍隊より少ない規模で済みます。最も必要なのは、彼らにとってのすべてである馬が夏もしくは冬を越せる草原があれば良いのです。 そして明治までの北海道は、まさに緑の宝庫です。数万頭の蝦夷鹿が、河原の色が変わるほど埋め尽くしていたという記録が江戸時代末期にもあります。数千の軍団を養う数万頭の馬や家畜が過ごす場所には事欠かないでしょう。 確かに馬を船で運ぶことは難しいですが、抵抗がないのですからゆっくりと運び込んで準備を整え、ユーラシア大陸各地で行った事の縮小再生産を行えばよいだけです。 いっぽう、侵略される側のアイヌにとって、原野を馬の集団で駆け抜けてくるモンゴル軍に対抗する術は殆どありません。 史実のシャクシャインの乱(1689年)では、1000人の屈強な男達が日本人と戦ったという記録があり、これがアイヌにとっての最大規模の戦いでした。 武器も狩猟用の小型の弓と鏃に塗るトリカブトの毒だけです。独自に鉄を精製する技術のなかったアイヌにとって、日本から輸入されていた鉄の製品は極めて貴重品です。弓以外に武器が多数存在すると言うことはないでしょう。しかもこの弓も戦争目的ではないので、射程距離、威力共に低くなり、戦いには適してはいません。 結果としてアイヌにできる戦いは、モンゴルの馬が活用できず相手を近距離から狙撃できる森を天然の砦とするしかありません。しかし、森に頼ればある程度の抵抗はできるでしょうが、撃退にはほど遠いでしょう。ウィリアムテルや数多のファンタジー小説のごとく活躍したいところですが、文明の進歩によって人にとって森が脅威となる時代は過ぎ去りつつあります。 ある程度の森なら、焼き払って鉄製の農具で切り開いてしまえばよいだけです。中華文明飲み込んだモンゴルが、森を焼き払うことに躊躇はしないでしょう。だいいち、モンゴル人が欲しいのは森ではなく草原です。
なお、オフィシャルではモショリの制圧に、モンゴルは二年をかけたとしました。侵攻したモンゴル軍の数、アイヌの人口と人口密度、北海道の地理的状況から簡単には征服できないと判断したからです。 また、二年という時間を祖国防衛戦争に費やせば、平和な生活を続けていた古代民族といえど、イヤでも民族意識が高まり結束が生まれます。 最終的にアイヌは敗北しますが、海を越えて逃亡したり、森の深く(正確には山脈だろう)に落ち延びた人々が大量発生した理由は、抵抗期間に醸成された結束と民族意識の向上にあるとしています。 そして、北海道とアイヌを容易に蹂躙したとしても、さらに問題が出てきます。 そう、海の難所、津軽海峡が立ちはだかるのです。 また、海での交易にも積極的なアイヌでしたが、大型のカヌーレベルの船しか造ったことありません。アイヌにとっては十分な大きさでしたが、モンゴル馬が安心して乗れるような軍船を作るのはかなりの難事業です。 しかもアイヌは小さな村レベル(数家族)のコミュニティーしか持たないので、狩猟や採取以外の集団作業のノウハウがありません。土地が豊かなので他者からの略奪に走る必要性もなく、バイキングのような船を造り海賊行為に走る必要性もありません。当然ですが、大規模な造船業などあるわけありません。 しかもモンゴル人も大陸の騎馬民族。征服した他の地域の外国人を使わないと造船業など教えることもできません。そして被征服民族がサボタージュするのは常識的に明らかです。 かくして、モンゴルの歩みは止まらざるを得ません。 ただし、征服した北海道(アイヌモショリ)に関しては、モンゴル人はそれなりに気に入るでしょう。 大陸に比べて冬に雪が多いのは問題ですが、石狩平野、根釧台地などそれなりの平地があり、雨(雪)が多く、石狩平野など西部の平地は夏の気温も上昇するので土地も肥沃です。 海や川も鮭や昆布などモンゴルにとって珍しい物産にも事欠きません。アイヌもまるきり農業を知らないわけではなさそうです。 となれば、地に足をつけての現地経営の開始です。 支配のための官僚や役人、技術者が足りないので、大陸本土から持ってくる必要があるでしょう。現地住民を管理、定住化させるために様々な技術を持ち込む必要も出てくるでしょう。 ですが、経営を推し進める方がモンゴルが豊かになるのですから、現地経営を止める必要はありません。欧米が行った帝国主義的植民地経営より幾分緩やかな状況が、半世紀ほどの間出現する可能性は高いと考えられます。 そして、もう一つ忘れてはならないのが、当時のモンゴル帝国が、世界帝国だということです。モンゴルにアイヌも含まれると言うことは、帝国の豊かな物産、優れた技術の一部が北の大地にもやってくるということです。知識や情報についても同様です。おそらく、この時代の日本よりも多くの種類の物産と情報が北海道にもたらされているでしょう。もちろん、主に物産や技術を扱うのは、アイヌ以外の民となるでしょうが。 いっぽう、モンゴルの侵略によって奥州北部に亡命したアイヌ達ですが、本当に半世紀ほどで強固な武装集団を作り上げることができるでしょうか。 可能性は低いができると判断しました。 まず、当時の日本で有数の砂金、砂鉄の産地が奥州北部にあります。これは重要でしょう。結束力と技術を持つそれなりの規模の集団があれば、大きな武力を持つ事も可能です。北上山地などは、良馬の産地としても知られていますから、モンゴル馬による騎兵を作り出すことも可能でしょう。 また、当時のアジア世界は、元帝国、モンゴル人に恨み辛みを持っている人にも事欠かないでしょう。日本人もモンゴル人に怯えきっています(まあ、表面的な日本史を見ると、喉元過ぎれば的な状況に見えますが)。 中心となる賢明なリーダーさえいれば、モンゴルに対抗する組織を作ることは可能でしょう。 かくして砂金と精製した玉鋼を財源として力を蓄えるという、まるでプリンセス・モノノケに出てくるような武装集団が形成されるという想定を作り上げました。 そして、当時の奥州北部は、奥州藤原氏滅亡以後、鎌倉の直接統治を受けており、これ以外の大きな地元勢力はほとんどありません。特に、日本中央から見れば辺境となる奥州北部では、地方豪族レベルの存在しかありません。しかも鎌倉は、北九州方面から目が離せませんし、元寇以後権威が落ちる一方です。 また、いまだ日本人といえない蝦夷の民、アイヌに属すると言ってよい人々が細々と暮らすコミュニティー、隠れ里も奥州北部にかなりの数が存在していました。彼らが亡命当時の北海道アイヌ達をかくまうのも問題は少ないでしょう。モンゴルが海を渡って攻めてくる可能性がある以上、彼らにとってもモンゴルは脅威です。だからこそ、東洋のリベリオン達の新たなゆりかごとしたのです。 そして彼らは、祖国奪還と復讐、もしくは脅威への対抗に目的が統一化しているので、アイヌにとってのランスロットは現れることはないでしょう。指導者と組織がしっかりしていれば、大きな問題はないと判断できます。
しかし、異質な武装組織は、地方豪族にとっては大きな脅威です。ぶつかるのは必然でしょう。ですが、南宋などからすら技術や制度を積極的に導入しているアイヌに比べて、奥州北部は、日本でも後進地域に属します。 そのまま同規模レベルで衝突すれば、勝敗の帰趨は自ずと明らかでしょう。史実の戦国時代に、北海道南部や奥州北部の豪族や小諸侯がアイヌと衝突した時も、アイヌを最終的に破ったのは、戦国時代特有の気風が生み出した卑怯上等な謀略です。辺境豪族は、軍事力的にたいした価値はありません。 政治的にも大陸からの知識を吸収している集団に謀略は通じず、火力装備や騎兵の有無で武力の差は歴然。しかも日本中央部は、鎌倉末期から建武の新政、南北朝時代と続く混乱の時代です。中央が介入する余力はないでしょう。 アイヌ達をある程度育成してしまえば、奥州北部全域を制圧するのに大きな障害はないと判断しました。 また、北海道への回帰を思えば、まとまった軍事力が是非とも必要です。集団を大きくするためにも、食糧供給を安定させるためにも周辺地域を飲み込む必要性があり、アイヌの側から行動を起こす可能性も高いでしょう。 かくして、奥州北部を従え、人口的にも十万の単位を抱えるようになったアイヌ達は、遂に母なる大地への帰還を開始します。 1345年夏、アイヌのレコンキスタの始まりです。 果たして簡単に達成できるでしょうか。
元帝国は、1271年から1368年まで中華大陸の主要部を支配しています。ですがフビライ没後、政治は混乱します。日本で鎌倉幕府が滅びる頃には中央での統制力すら無くし、1368年には新たに勃興した明により万里の長城より北に追いやられてしまいます。 中華中央を狙える力を失ったわけではありませんが、モンゴルが民族・文明としてのピーク(黄金期)が過ぎ去ったのは間違いないでしょう。 また、日本の政局の混乱は、鎌倉幕府の滅亡(1333年)から建武の新政を経て、南北朝時代(1336年〜1392年)まで続きます。 アイヌのレコンキスタに1345年という年を選んだのは、上記のように日本とモンゴルの混乱のまっただ中という要素があります。後顧の憂いがなく、反撃しやすい時期でなければレコンキスタの達成も難しいというものです。 なお、反撃の時の指導者であるアテルイの名は、教科書でも出てくる坂の上田村麻呂の蝦夷征伐の時に蝦夷を率いた人物の名からいただきました。
いっぽうモンゴルによるアイヌの支配は、少数のモンゴル人の下にモンゴル人よりも少し数の多い現地人以外の官僚を置き、その地の民族を支配するという図式になるでしょう。絶対的な数の少ないモンゴル人は、中間層や官僚となる異民族を使わない限り、他者を支配する力が物理的に持てないのです。 そしてモンゴルの支配は、世界史レベルで相対的に判断すると比較的穏当なものといえますが、「タタールのくびき」という言葉がある通り、当時の被支配民族にとって何の慰めにもならないほど苛烈な支配になります。 アイヌの場合は、農耕を始めとする文明の伝搬はありますが、それは奴隷的労働の上にもたらされるものです。農耕の普及で人口が大幅に増えたからといって、モンゴル人は歓迎すべき支配者ではありません。 そして中央から離れれば、モンゴルによる統制力の低下は必然です。しかもモンゴルの中央政府は、海を隔てた辺境に大軍を派遣する能力を失っています。 これに現地人の反乱とまとまった、外からの武装組織による攻撃が加われば、モンゴルの支配が一朝にして瓦解する可能性は十分にあるでしょう。 たった一年でアイヌにモンゴルを駆逐できるかどうかは不確定要素が多すぎて分かりませんが、モンゴルの駆逐そのものに大きな問題はないと思います。
もっとも、オフィシャルで一年で駆逐させたのは、不確定要素が大きいなら電撃的にしてしまえという開き直りに過ぎません。もしくは、アニメや漫画的情景を求めたからかもしれません。